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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421

2010年 01月 11日 ( 1 )

保元の乱のときに召集された武士は圧倒的に天皇方が多かった。最初から崇徳上皇は不利だったのだ。為義の夜襲策を用いたとしても、勝利を得ることはないというころらしい。保元の乱後治天の君となった白河上皇は摂関家の武力であった源氏に対抗して伊勢平氏を引き立てた。さらに清盛は白河院の落胤とも言われた。白河上皇のもと平氏と信西が勢力を持つようになる。

この状況でクーデターを起こしたのが信頼と義朝だった。これが平治の乱である。清盛はこの劣勢で九州への逃亡を考えたが、何故か援軍が結集して京都に入っていく。この時の清盛勢は400余騎で、これは義朝軍を上回っていたとされている。

信頼はこの時27歳だった。義朝は平治の乱で敗北し、東国へ敗走した、信頼を置きざりにして。結局義朝は愛知県の内海に逃げのびたが、この地で裏切りにあい最後を迎えた。この時源氏は敗北したのは財力と兵力が平氏より劣っていたからだろう。保元の乱の時に兵力の動員力は平氏が300余騎で、源氏は200余騎で、財力も西国の受領を歴任した平氏と、東国武士団をまとめたに過ぎなかった。

源氏がやがて武家の棟梁となっていったため、平氏は人気がなく、平家物語で没落する武士としてのイメージが定着していく。しかし保元平治の乱の頃の平氏は洗練された武士貴族ということがいえるのだ。洗練されて社交性のある清盛と坂東の荒武者義朝という対立で清盛が勝利したということだ。以上『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(野口実著、新人物往来社より)
by qzr02421 | 2010-01-11 17:39 |