本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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平家物語を考える

「平家物語」は読まれる作品というより、琵琶法師の語りによって大衆に受け入れられていた。つまり読むのではなく、語りとして「聴聞」することによって充足されものであった。この物語の成立期の事情は文献がない為、正確なことは分からないが鎌倉中期から末期にかけては、平曲の語りの記録の存在によって明らかにされている。

永仁五年成立の『普通唱導集』や『花園院宸記』によれば、琵琶法師が平治・保元・平家之物語を皆滞りなく暗誦して興味があったとか、そのかたりによって女房たちもこれを聴聞したなどが記されている。鎌倉末期には琵琶法師が平曲を語っているところを描いた絵詞なども創りだされている。ささやかな祠の鳥居を背にして土下座し、琵琶を掻き鳴らしている盲目の前に、青侍や童たちが座り込んで平曲を聴き、その後方を通りすがる市女も立ちどまって耳を傾けており、向こうには市店の並ぶ巷が描かれている『直幹申文絵詞』がその一例である。

このように大衆的ともいえる享受のありかたこそが『源氏物語』を頂点とする古代末期の物語文学あるいは近代小説などのそれと決定的に一線を画すところである。平曲全盛期には都には数百名の琵琶法師がいて、かれらは琵琶を背負い杖をついて山川を越え、全国に平曲を語りあるいたのである。

ところで問題はこうした享受のありかたが『平家物語』の作品としての内質といかにかかわりあっていたかということである。つまり琵琶法師の語りにおいて『平家物語』は成立、かつ転化していった作品であったというところに『平家物語』が古代の物語や近代の小説などと全く異なる質を形成した秘密もあったからである。

『徒然草』には『平家物語』は後鳥羽院の治世に成立し、入道した知識人の行長と盲目の生仏との合作になるもので、しかもこの作品は最初から語ることを予定されていたとも受け取れる書き方がされている。しかし『徒然草』は『平家物語』が成立してから一世紀後の伝承に基づくと認められるから、その真偽は考慮する必要がある。

しかし『平家物語』という作品が、平曲としての語りを抜きにしては考えられなかったということ、語りということにおいて、中世文学としての独自性を発揮しているということが大切なのである。

『平家物語』が語りを媒介にしてどのように成長をとげたのだろうか。語りの古態本と認められる屋代本と南北朝時代に定着した覚一本とを比較しても、平家都落ちの展開部分が三段から九段に増加していることからも語りの過程で成熟していったことをかいまみることができる。

また語りの技術については、文章表現に応じて「尊く殊勝な」ところは語り手も「随喜の思いをなし」、軍陣の場面では「我も合戦の思いをなし」「哀れなる処をば我も袖をうるほし」として語るべきであると『当道要集』では教えている。つまり琵琶法師たちは書かれている本文を額面どおり、ただ正確に語るだけではなく、語り手自らが事件の中に立ち入り、そこの展開している人間の劇的な葛藤を、追体験して、能動的な語りに進み出ることをよしとしているのである。

このように読みによっては味到できない文学的なプロセスとして享受されたのである。『師守記』の著者のような知識人が『平家物語』を読むだけでは満足できず、しばしば巷に出かけて平曲を聴聞したのも、琵琶法師たちによって実現される、かけがえのない語りの芸術性・醍醐味を期待したからにほかならない。語り手と享受者のとの直接的な交流なしに、平曲は成立しなかったのである。

語りというもので文学を伝えるということは素晴らしいことだと思う。作品を読むということも大切なことだが、その作品を解釈した人の語りを聞くというの、その作品の理解を深める上でも重要なことだと感じる。演劇でも演出によって作品の感じがずいぶんかわるものだ。そう言う意味で、この時代の人たちが、平曲という形で琵琶法師から語られたものを享受できたことが素晴らしいことだと思う。

『将門記』から『太平記』そしてその以後に渡って軍記物語・軍記ものの類は生産され続け、活字化された作に限っても何百種類にものぼる。古代末期から中世にかけての変革期は全国的な規模で内乱を繰り返してきたのだから、その間に展開された合戦は、当時それこそ数限りなく語り伝えていたはずである。この膨大な軍記系列をその代表的な作品で鳥瞰してみよう。

まず『将門記』の成立から百二十年後には『陸奥話記』が成立する。『陸奥話記』は乱後まもなく、都の文人の手によって記されたと認められる。まつろわざる辺境の夷らを、公から派遣された将軍寄頼義が追討する。その過程が物語の主題となっており、その視点は最後まで貫かれている。作者の視点が都・中央権力の場にすえられている。

作者はまとめるにあたってまず公文書の「国解之文」を利用している。しかし公文書だけではなく同時に「衆口ノ話」つまり乱の口承の説話をも収拾して、この物語の内容を充填しようとした。これらの説話の受容こそが『陸奥話記』を単なる上からの鎮定記に終らせず、乱の過程で噴出した劇的な人間関係の流露をこの物語に注ぎ込む通路のなったのである。

この説話が公文書では捉えることができない人間的な心理表現をこの作品に与え、魅力ある物語としているのである。『平家物語』など後の成熟期軍記物に見られる説話的な作品の質は、早くも『陸奥話記』にその原型を顕示されている。しかし、公文書としての「国解之文」の抄出を中軸に置きながら、その合間に口承にもとづく説話を挿入するという傾向があり、作品の主題にそって内面的に結合し、多彩な説話を集中的に構成するところまで、その構想力は成熟してはいなかったのである。

軍記物語における説話性の積極面をより全面的に開花させたのが『今昔物語集』巻二十五に結集された合戦譚・武家物語の一群であった。ここには承平・天慶の乱から前九年・後三年の役にいたるまでの説話が結集されている。

また、土着の思想や情念をより克明に記録できる口語的表現を取り入れた和漢混交文のまで進み出ることに成功し、外来の漢文体による表現の枠組みから開放されているのである。しかし『今昔物語集』の合戦譚は、一つ一つの合戦をそれぞれ独立に取り上げており、それらの相互間には、何れもが合戦譚である武者物語であること以上に、とりわけて脈絡が設定されてはいなのである。

この様に見てくると『将門記』以後『保元・平治』以前に成立した軍記物語で了解されることは、軍記物語と呼ばれるに必要な条件はそなえられているものの、完成期の作品に比較すれば、なお軍記物語としての十分の条件を充たすところまでは成熟してはいなかったのである。

史料と説話の利用による軍記物語は作られている。それによってその時代の人間を生き生きと描くことが出来たのだと思う。書かれていたものを読んでもワクワクしてくるのはそれが原因のような気がする。その感動を語りで聞くことができれば、さらにその感動は増すの様な気がする。歴史も面白けれど、歴史文学は人間が生き生きとその時代を闊歩している姿が想像することが出来て、歴史書とはまたちがった楽しさある。
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by qzr02421 | 2008-05-09 21:05 | 評論