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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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中村勘三郎は「距離感」が優れている

シェークスピアを翻訳した小田島雄志は翻訳するとき、頭の中に理想的な舞台とキャストを思い描いて、演出するような気持ちを持つという。登場する二人が恋人同士なのかたんなる知人か、優しい性格かきついのか、立っているのか座っているのか、どれくらいの距離でいるのかといったことまで想定しないと、訳せないという。

 リア王の台本をパソコンに打ったとき、私も舞台を想像していた。このリアはどこにいてこのセリフをいうのか。上手から登場して、コーディーリアに話す時、どのような位置関係にあるか、気になった。位置関係つまり「距離感」というものは大切なことだ。

 中村勘三郎は「距離感」が優れていると小田島雄志はいう。観客との距離、自分が演じている思考・感情を伝えるにはどの程度の声や身振りが適量であるかが分かっているのだ。観客の気持ちを置き去りにしない演技というものだ。観客は勘三郎の演技と一体になっているということだ。

 次は相手との距離、相手役を食わずに、突き放しもせず、相手をうまく乗せるという演技だ。相手と呼吸がぴったりと合っているということだ。セリフが上滑りしていない。そのセリフが相手の胸にひとことひとこと刻みつけるようにいうので、相手役も自分のセリフを言い放つことができるのだ。

 自分との距離、自分の演技に酔わず、自分を見失わない演技だ。それが見るものを感動させるのだ。その距離感に行き届いた演出と、説得力のある演技が加われば最高だ。

 ところで、リア王にセリフに、長女に出て行けといわれんばかりの扱いをされ、「わしは何者だ?」と叫ぶと、道化が「リアの影法師だい」という。この影法師とは何か、疑問に思った。リア「王」というのが実体か、王冠をはずしたただのリアという「人間」が実体かということか?「王」と「人間」どっちが実体でどっちが影法師なのだろうか。

 『お気にめすまま』の道化のセリフ、「いまは10時である・・・一時間前は9時であった。一時間後は11時であろう。かくのごとく時々刻々われわれは熟していく、しかしまた時々刻々われわれは腐っていく」という。この成熟と腐敗、生と死のイメージがこたえると小田島雄志は『道化の耳』(白水社)で書いている。シェークスピアには素敵なセリフがたくさんあり、それが年代によって変わっていくるようだ。
by qzr02421 | 2008-04-09 09:46 | 劇,映画その他