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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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仏教と愛の形の変化について考えた

 思想の流入というと、思想がプカプカと日本にくるように思いがちだ。しかし、思想だけが伝来することはない。必ず、「思想、人、もの」が3点セットになって流入してくるものだ。日本にくる人が持参するものは普通そんなに大きくはない。大きいと、持ってくるのが大変だ。飛鳥時代なら、小金銅仏のようなもの、念じ仏のようなものを持って来日したのだろう。愛について考えれば、「愛、ダイヤ?、愛を感じるその人自身」これが愛の三点セットだ。ブツはやはり、小さいダイヤか?

日本の百済の聖明王によってもたらされた「思想としての仏教」、その思想を表すものとして仏像が伝来した。ブツは大事だ、ブツが実体をしめす。「愛しているよ」という言葉では心だけだ。はやりブツが必要だろう。愛に対応するブツとは何だろう。ダイヤかヴィトンかシャネルか・・・、本当はその人そのものが、愛の実体のはずだ。人は実体である人を信ずることなく、ブツを欲しがるものだ。幸せは、すぐ隣にあるのに気がつかないものだ。

やがて仏像が日本で作成される。作成するのは、渡来人、あるいは渡来人の子孫だろう。まだ、倭人に仏像を作る技術はないと考えられる。仏像を作成したのが飛鳥時代だ。金銅仏と木造仏両方の存在が認められる。このころ、日本人と渡来人の愛があったのだろか。言葉をどのようにしたのか。心だけでは愛は通じない。ここでは言葉が重要になってくる。
愛が安定すると言葉が重要になるというのは不思議なことだ。「愛しているよ」という言葉が必要ということだ。

奈良時代は鎮護国家の時代で、仏像は金銅仏、塑像が主流になる。木造仏があらわれるのは鑑真の渡来以後である。そして平安時代木造仏が主流になる。主流になる理由は大量生産に適しているからだろうか。あるいは細かい彫刻がしやすいからだろうか。ともかく定朝によって仏像造りが確立していく。愛の大量生産はないだろう。しかし、愛も形式化していくと、崩壊に向かうかもしれない。形式化して崩壊しないためには、努力が大切だ。

唐風から国風へ、そして鎌倉風へと形式が変化していく。それは支配者の変化と連動していると考えられる。そして、運慶・快慶によって完成され、そしてまた、形式化していくのである。完成すれば形式化していくのが普通である。形式化・大量化の時代を経て、明治時代を迎える。安定は形式化を生むのだ。しかし、そのときが一番怖い時だ。熟年離婚、卒婚の到来だ。

ここで信仰の対象であった仏像が美術品として鑑賞する時代が登場する。フェノロサや岡倉天心の登場である。そして現代にいたるのである。愛は逆に実体から、信仰に向かうようだ。年配の人たちの愛の形だ。「おじいさん、あれはどうしましたか」「あれは、ああなったよ」「それはよかった」というような禅問答のような会話の成立だ。
by qzr02421 | 2008-03-17 18:37 | 歴史