台本とシェークスピア
2008年 03月 12日
劇の台本をワードで作成するという仕事もしている。演劇も音響という仕事もしている。どちらの仕事も台本はしっかり読む。台本を読むということはこのようなことでもないと読むことはない。俳優さんも自分のセリフはしっかり読んで役作りをするのだろうが、相手のセリフを真剣に読むことはないようだ。(役者さんによってちがうのだろうが)その作成中の劇は『リア王』だ。
この劇団は女性が多いので、伯爵だとすれば伯爵夫人などと変えてある手書きの台本がやってくる。それをワードでというわけだ。「そちはそうであったのか」などというセリフが「そうでしたの」なんて変っていくのは、作成していて面白い。結構、セリフを声に出して読みながら作成する。面白いセリフにであうこともある。
「だまされやすいおふくろに、お人よしの姉貴だ。姉貴は自分が人に悪いことをしないから、人からもされないと思っている。姉貴の人品、人柄、おつむの具合、すべてこのエドマンドはお見通し。あとは仕上げをころうじろだ。」というセリフを面白く感じた。人をだますことを考えない人は、自分をだます人の存在を考えもしないということだ。案外だまされやすい人はそのような人なのだろう。
岩波新書の『シェークスピアのたくらみ』では登場人物と観客の距離というテーマで分析している。劇を見ている人がリアに感情移入しにくいようになっているようだ。確かにワードで作成していても、騙される人に感情移入できないし、騙す人にも感情移入できない。どうして騙されるのだ?なんて悪い奴だという感想を持ってしまう。妙に客観的にセリフを読んでしまうのだ。シェークスピアの偉大さなのだろう。
『リチャード三世は悪人か』に書いてあったが、シェークスピアの劇は二種類あるというのだ。1608年印刷の二折版と1623年の四折版とがあり、日本で翻訳されたものは、その二つを編集したものだそうだ。しかし『リア王』だけはあまりに内容が違うので、その編集したものが分かりにくく、妙に長くくどくどしているという。近年の研究で書き直し説が有力らしい。オックスフォード版では内容がちがうので、前者を『リア王の悲劇』後者を『リア王の歴史』という違う本にしているのだ。原作の本(シェークスピアがお手本のしたものらしい)ではコーディリアは死なずにハッピーエンドで終わるということだ。特に彼女が不幸になる必然性はないのだろう。本を読むと知らないことがいっぱいあるということが分かる見本のようのことだった。
この劇団は女性が多いので、伯爵だとすれば伯爵夫人などと変えてある手書きの台本がやってくる。それをワードでというわけだ。「そちはそうであったのか」などというセリフが「そうでしたの」なんて変っていくのは、作成していて面白い。結構、セリフを声に出して読みながら作成する。面白いセリフにであうこともある。
「だまされやすいおふくろに、お人よしの姉貴だ。姉貴は自分が人に悪いことをしないから、人からもされないと思っている。姉貴の人品、人柄、おつむの具合、すべてこのエドマンドはお見通し。あとは仕上げをころうじろだ。」というセリフを面白く感じた。人をだますことを考えない人は、自分をだます人の存在を考えもしないということだ。案外だまされやすい人はそのような人なのだろう。
岩波新書の『シェークスピアのたくらみ』では登場人物と観客の距離というテーマで分析している。劇を見ている人がリアに感情移入しにくいようになっているようだ。確かにワードで作成していても、騙される人に感情移入できないし、騙す人にも感情移入できない。どうして騙されるのだ?なんて悪い奴だという感想を持ってしまう。妙に客観的にセリフを読んでしまうのだ。シェークスピアの偉大さなのだろう。
『リチャード三世は悪人か』に書いてあったが、シェークスピアの劇は二種類あるというのだ。1608年印刷の二折版と1623年の四折版とがあり、日本で翻訳されたものは、その二つを編集したものだそうだ。しかし『リア王』だけはあまりに内容が違うので、その編集したものが分かりにくく、妙に長くくどくどしているという。近年の研究で書き直し説が有力らしい。オックスフォード版では内容がちがうので、前者を『リア王の悲劇』後者を『リア王の歴史』という違う本にしているのだ。原作の本(シェークスピアがお手本のしたものらしい)ではコーディリアは死なずにハッピーエンドで終わるということだ。特に彼女が不幸になる必然性はないのだろう。本を読むと知らないことがいっぱいあるということが分かる見本のようのことだった。
by qzr02421
| 2008-03-12 07:44
| 劇,映画その他