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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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なぜ大和にヤマト政権ができたのか

日本史を続ける。弥生文化は北九州に渡来し、北上し弥生中期(紀元前1世紀ころ)には青森に達する。日本海側を北上した。青森県に垂柳遺跡がある。ここで北海道にこの文化は渡ることなく、ユーターンし太平洋側を南下し、弥生後期には静岡にいたる。あるいは北九州から瀬戸内海を西に向かい、河内に入り、大和盆地に入り、そこでヤマト政権を樹立し、その中の一団が、鈴鹿を越え、尾張に入り、さらに西に向かい静岡に至ったのだろうか。ともかく静岡には弥生後期の有名な登呂遺跡がある。

疑問は、このような状況の中、なぜ大和にヤマト政権ができたのかということだ。最もヤマトだからヤマトだが、そういうことではない。この大和は四方を山で囲まれ防衛し易い、さらに大和川を利用すれば、交通も便利だ。文明が樹立するためには、安全、食糧、エネルギーそして交流が重要だという。

四方で山に囲まれるということは安全が確保できるということだ。河内は海に面しているので海からの攻撃が予想される。河内以前には讃岐や備前がある、さらには筑紫もあるが、ここは防衛しにくく、かつ大陸に近い。白村江の戦いでの敗北後の混乱のとき、太宰府に水城を作る一方、大陸から遠く逃げようとしたことを考えると、大和の飛鳥あたりは、都を造るには最適な場所だったのだろう。

交流も大和川、飛鳥の北には湖があったという説もある。京都の南に湖があったのだから、古墳時代はその湖が大きかったのかもしれない。四方山に囲まれ、その真ん中には巨大な湖がある。防衛と交流には最適な場所だったのだろう。水があれば当然食糧が確保でき、山があるということはエネルギーが容易に入手できただろう。
by qzr02421 | 2009-07-13 16:13 | 歴史