本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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ブログの更新に対する熱意がいまひとつおきないのはなぜだろうか。更新をするというのは勢いなのだろうか。結婚と同じで、疑問を持つと動きが止まるということかもしれない。疑問を持つことは大切なことなのだろうが、持ちすぎるのも考えものということなのだろう。疑問を持ってすごしているうちの12月になった。外と見ると雪が降っているようだ。初雪なのだろう。新潟では新幹線が止まって大変そうだ。ノロウイルスの流行しているようだ。がんばりすぎてもよくないということでもある。自然に暮らしたいものだ。

仏教では欲望を持つなと教える。しかし欲望を持つのが人間というものでもある、欲望がなくなったら生きているという気がしないはずだ。仏教の本を読んでいたら、そのときそのときを生きればよいとある。風邪をひいたら、風邪を治そうというのではなく、風邪とひいたことを楽しめというのだ。風邪をひくというのは生きているということだ。死んでしまったら風邪をひくこともない。だから、生きているということと風邪をひくということは同じことだという。屁理屈のような気もするが、そのときそのときを楽しむという生き方は、理解できるような気もする。

ブログを書きたいときには書き、書きたくないときには書かないということは、それはそれでその通りのことだ。自分がやりたいと思うことがするということはストレスレスということでもある。久しぶりのブログ更新なのだが、内容がないようだ。内容がないことを楽しめばよいということだろう。病気になったら、その病気を楽しむことが大切という生き方はとても好感がもてる。そのように生きたいものだ。そのように生きることができたら、幸せだろうと思う。なかなかそのような境地にならないのも人間の性かもしれない。

人からよく思われたいと思うのもよくないことだ、自分は自分でよいのだ。還暦を迎えようとする今、何を恐れる必要があるのだ。人間はいつかは死ぬのだ。どのような人でも必ず死ぬ、平等の死がくるというのはとてもよいことだ。お金がどれだけあっても、その金を持ったまま死ぬことはできないのだ。人間は死というものに対しては平等なのだ。あと何年生きることができるかわからないけれど、生きていることを楽しみながら、つまり、どのような状況でもその状況を楽しむことができるようになるということでもある。年末の訃報を聞くたびに、生きていることの不思議を感じる今日この頃ということだ。
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# by qzr02421 | 2012-12-09 20:25 | 日常
久しぶりに結婚式に参列した。若い二人に好みらしく、料理とイベントが素敵な店だった。瑞穂区役所の西のほうにあり、大谷高校に隣接しているキングオブベッカムという店だった。ホテルでの挙式というのが多かったが、ここ数年の風潮だろうか、このような料理がおいしく、披露宴が簡素だが、素敵な式場が増えているようだ。

親族紹介があるというので少し早めに行った。式の形式は人前とのことだが、スタイルはキリスト教形式だった。そのリハーサルというのを見ていたら、新婦が結婚式では主役なので、新婦とその父の入場から始まった。新婦の母がベールをかぶせることがまず最初の行事らしい。今まで新婦を大切に育てた証がこのベールをかぶせることであらわしているのだ。それを新郎が式中にあけることで、これからは新郎が新婦を守っていく決意をあらわすのだ。

ウエディングドレスは歩きにくいらしく、新婦はドレスの前を蹴飛ばすながら歩く姿がほほえましかった。というようなリハーサルをおえ、親族紹介も終わる、人前結婚式が滞りなく終了した。新婦は保育士なので、しかも年長組みの担任、そのクラスの子どもと親が式に参列した。とくに女の子が結婚式を興味深々で見てる姿も面白かった。

挙式のあとは披露宴だ。ベッカムの料理はとてもおいしかった、フルコースだった。箸がおいてあったのがとても好感が持てた。日本なのだから、西洋かぶれせずに、箸で食べればよいのだと思う。ナイフとフォークなどは不器用な西洋人だけが使えばよいのだ。マイ箸持参をしてでも西洋料理を箸で食べたいものだ。それでこそ日本でのフルコース料理を味わうことができると信じている。しかし箸ではぷる~んとして料理は食べにくいのが難点だ。それはスプーンで食べることした。

主賓のあいさつと乾杯のあいさつのみ、お菓子をまくなどの行事もある、実のさっぱりとして素敵な披露宴だった。結婚式は結婚のハジマリにすぎない、これからどんだん愛をはぐくんでほしいと思いながら式場をあとにしたのだ
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# by qzr02421 | 2012-10-28 09:11 | 日常

梅雨らしい季節となった

九州では大雨で被害がでている、阿蘇地域の地すべりは凄まじいものがある。山が崩れることがあることはわかっているのだろうが、前代未聞の雨で、今まで崩れたことがない場所がそのような被害にあっているのだろう。自然と人間の関係は、日本人にとっては自然の勝ちという感じなのだろう。欧米人なら自然を制御しようとするのだろうが、日本人は自然と戦うことがしないのだ。

自然を制御しようとする欧米人が発明した原子力発電を日本人が取り入れることがには無理があるようのきがする。自然災害だからしかたがないと思いやすい日本人は、放射線により災害も自然な災害と受けとりやすいような気がする。放射線のよる災害は自然災害ではない、それは欧米人が発明した人工的な原子力発電のよる災害だからだ。

福島の原発事故の原因を追究する報告書は人災だとしている。人災には間違いがないが、そもそも日本人は自然を制御するという発想を持っていないと思う。だから津波に対する備えをしなかったのだろう。原発が人工的なものということが分かっていれば、当然津波対策はしたはずだ。

電気は必要なのだろうが、上記のような自然観を持っている日本人と原子力発電は相性がよくないことには間違いがない。そういう意味で原発からは離脱したほうが良いと思う。相性が悪いものを使おうとすると、もっとひどい災害を引き起こすことになるだろう。原発の論議はいろいろあるが、相性で考えれば、原発はやめるしかないと思うのだ。

じめじめしている日本では、このじめじめに対応しながら生きることしかないのだ。アジサイなど眺め、雨を眺め、じめじめを楽しむのが日本人なのだ。ところで妻がベランダ菜園でプチトマトを作っているのだが、これがなかなか大きくならないのだ、どうしてだろう。
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# by qzr02421 | 2012-07-14 09:20
サルトルを取り上げ話をしているのだが、サルトルの思想が分かれば、サルトルになることができるわけでから、サルトルの思想を分かったような気になるだけで、本当は分からないのではないのか。サルトルは自由を重要視した。人間は自由なのだ。自分の人生をどのように選択するという自由を持っているという。ダメな自分を選らぶ自由もあれば、優秀な自分を選らぶ自由を持っているというのだ。サルトルはエリートだから、そのような自由を持っているともいえる。

ダメな自分を選択するということは、自分はダメな人間を思って行動することをいうらしい。自分がダメと思うということは、それを選択したということを意味するのだ。自分で選んだのだから、責任を取れと、サルトルは迫って来るのだ。自由というのは恐ろしいものなのだ。フロムは『自由からの逃走』という本を書いた。大衆は自由から逃げて、ヒトラーみたいな人物に従った方が楽になるということを言っている。

学校での自由作文というのはつらいものだ。課題があったほうが楽ということはよく分かる。自分で課題を見つけ、その課題を研究するということは大変なことなのだ。卒業論文のテーマがなかなか見つからない、見つけてもそれでよいのか不安になるということでもある。自由にしてよいということは、とても大きな責任を背負うということなのだ。

大阪で劇団イキウメのミッションという劇を見た。人間の行動には意味があるのではないかという提起劇のようだった。無意味な行為と思っていても、それはなんらかの意味があるのだ。人間が生きて行動しているということは、自分以外の人たちに何か影響を与えている、あるいは全世界に影響を与えているのではないのか。自分に与えられたミッションとは何かを探る劇だった。人間は生きているということは、何か意味がある、意味が欲しいということでもあるのだろう。
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# by qzr02421 | 2012-06-08 18:29 | 劇,映画その他
大阪市立美術館で「契丹」展を開催している。契丹というのは10世紀頃中国北方にいた遊牧民族だ。遊牧民族は文書史料を残さないから、詳しいことは分からないのだ。有名なジンギスカンの墓でさえ分かっていないのだ。史料は農耕民族しか残さないので、遊牧民族は農耕民族の財産を奪うという悪という存在で描かれることになる。

近年、契丹の墓が発掘されたので、その成果を展示している。金や銀を使った副葬品は見る価値があると思う。歴史が農耕民を中心に書かれていることは間違いがないことだ。農耕民が立派で、遊牧民がダメということはない。農耕民の歴史は、農耕民が立派という歴史観で書かれていることは間違いはないのだ。

契丹が作ったものは、中国の王朝が作ったものよりは完成度が高いとは思えないが、つまりゆがんでいるということだが、それはそれで風情があると思う。歴史は農耕民族中心で書かれているので、遊牧民族はたいした文化を持たないとされるが、それは農牧民族の見方でしかない。歴史は書いている民族の歴史観があるので、それを考えることが大切だ。日本の歴史は日本人が立派ということを示すために書かれているということを理解することが大切なのだ。

契丹展をゆっくり鑑賞することができた。美術品を見たあとはランチをするのが一番だ。大阪市立美術館の付近にはいろいろ食べるところがあるのだが、今回はビックリドンキーで食べることにした。11時半ころだったが、満席だった。土曜の昼食は混むということだろうか。ランチを食べ、その後は天満天神で落語を楽しんだ。有意義な一日だった。
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# by qzr02421 | 2012-06-04 22:46 | 劇,映画その他
やっと引越しもすんで、新しいところでの生活ができるようになった。人はゴミに囲まれて生活していることがよくわかった。旅行のときに持っている荷物程度で生活はできるのだ。何枚かの下着と上着はあればよいのだ。衣食住というのだが、住むところ、つまり夜寝るところがあれば、人間の生活は上手くいくのだ。食べ物のバランス、一日30食品というのだが、夜、しっかり寝ることが出来なければ意味をなさない。

命と健康とどちらが大切かといえば、命に決まっている。健康を重要視して命を粗末にしているのが現代の健康論のような気がする。人間は何かしら病気を持っているはずだ。病気と上手くつきあうのが生きるということだと思う。あるいは病気とか健康とかいうことを考えないで生きるのが理想ということかもしれない。

デカルトは「我思う故に我あり」といった。つまり人間は理性を持っているので、考える存在ということだ。考えるということは疑うということでもある。当然と思っていること、本当のそうなのか疑って考え始めるということだ。当然と思っていることをほじくりかえして、人間は幸せを獲得することができるのだろうか。幸福とは何かということを考えもしないことが幸福なのではないのか。幸福を追求するということは、幸福を獲得するという目標を持たないことと言った哲学者がいたはずだ。だれだっけ?

健康を考えるということは健康を疑っていることだ。愛を考えるということは愛を疑っているということでもある。何も考えない生活は案外健康的で幸福なことだと思う。哲学者の経歴を読んでみると、結構悲惨な生活をおくって来た人が多いし、早死にもある。早く死なないと立派な哲学者ではないといことでもある。立派な文学者も早死にだ。しっかり考える人はキリストのように、考えない私たちのような凡夫の代わりに、しっかり考えて早死にするということにような気がする。
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# by qzr02421 | 2012-06-02 08:57 | 日常

引越しで忙しい毎日だ

妻がマンションを買いたいというので、買うことにした。子どもが自立することを期待してのことだ。我が家は居心地がよいのか、子どもが居座って出て行かないのだ。別のいてもよいのだが、私たちの老後を考えると、アパートかマンションかという選択をしたということだ。伊那に家があるのだから、伊那に行けばよいのだろうが、都会の過ごしやすさも魅力的なものだ。

伊那と名古屋に二つの家があるという選択をした。今のアパートから歩いて3分ほどのところにあるマンションなのだが、引越し業者を頼まずに夫婦で荷物を移動しようと計画した。業者を頼んでも、荷物の開封という仕事があるので、一ヶ月弱かかって移動をしようということだ。私の荷物は読みもしない本だ、妻の荷物はいつ着るか分からない服だ。引越し先には私は本を、妻は服を移動するのだ。

断舎利という言葉を実感した。捨てないと引越しができないのだ。長い間住んでいるので、ガラクタがたくさんあるのだが、これを捨てることがなかなかできないのだ。しかし捨てないと引越しができないことも事実なのだ。という事情でブログのアップがなかなかできないのだ。本の移動は完了した。妻の服の移動はまだまだのようだ。

古いマンションなのだが、改装がきれいにできているので、結構住みやすいと思う。しかし古いので、丈夫そうだが排気口に関する音が気になる。慣れればよいのだろうと思う。確かに何回か荷物を運んでいるうちに、その音に慣れてきた。引越し先に片付いたが、引越し元がまだまだだ。しばらくブログの更新は滞ることだろう。
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# by qzr02421 | 2012-04-18 21:48 | 日常

ネット環境が悪かった

昼神温泉はとても良かったのだが、ネットの環境は良くなかった。イーモバイルを使っているのだが、都会ではサクサクとつながるのだが、温泉などはつながらないことが多い。以前、北海道の登別温泉に行ったときもつながりにくかった。つながりにくいというのはつながるということだから、それはそれでよいのだ。伊那でもつながりにくい状態が多い。アンケートなどの回答を何回も繰り返さないといけないこともある。それはそれなりのストレスとなる。

昼神温泉はつながりにくいのではなく、つながらないのだ。つながらないのでネットはあきらめるしかない。つながらないほうがあきらめもつくというものだ。イーモバイルは都会では調子がよいのだが、地方でのつながりが悪いのには困ったものだ。ケイタイがつながるのにどうしてネットがつながらないのか不思議なことだ。

名古屋に帰ってきて、ネット環境もよくなった。ネット環境がよくなったのがブログの書くことが思いつかない。本をよんだりしてはいるのだが、その本の内容を書く気にならないのだ。文章を書くというのは気分なのだから、書きたくないときには書かないのがよいと思う。最近は授業の準備でいろいろ考えてはいるのだが、それを言葉にすることができないのだ。感情を文章化したらその感情はおさまると言う。感情の言語化が重要な課題なのだ。

自分の感情というのを文章にすることができれば落ち着くということなのだ。それができればたいしたものなのだろうが、難しいからこそ感情の文章化という言葉があるのだろう。イライラしたら一度、そのイライラを文章にしてみたはどうだろうか。ウソだと思っても、試してみる価値はあると思う。
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# by qzr02421 | 2012-04-10 20:32 | 旅行

温泉はよいものだ

昼神温泉に行った。いろいろと宿が多くなった。以前は昼神グランドホテルに泊まったり、昼神の森に泊まったりしたが、同じ宿に泊まるのは風情がないので、今回は伊那華、いなかと読む宿に宿泊することにした。じゃらんで予約したのだが、岩盤浴付きというプランだ。もちろん夕食、朝食付きだ。

爆弾低気圧が通過する日に出立したため、雨が激しいのでどこも見物しないで伊那華に到着した。1時チェックインなので、それは良かった。妻は岩盤浴を楽しんだ。私は温泉を楽しんだ。昼神温泉はアルカリ性ということで、ぬるぬるしている。美人になれそうな湯だ。伊那華は女性が楽しめる湯となっているようだ。男性は女性が使っているところは次の朝しか楽しむことできない。

次の朝、女性が楽しんだ湯に入ったのだが、露天風呂が充実しているのだ。男性の湯は露天風呂がひとつしかないのに、女性の湯は4つもあるのだ。これは差別だ。この伊那華は夕食のバイキングが有名なのだそうだ。それが目当てで予約をしたのだが、期待はずれではなかった。それぞれ美味しい料理が並んでいた。

今回は蟹祭りプランだったようで、蟹を食べている人が多かった。それが目当で来たのだろう。私はそれほど蟹が好きというわけではないので、蟹以外のものを食べた。天婦羅や寿司、サラダなど美味だった。私たちの隣のカップルは蟹三昧だった。蟹が好きな人だったら最高の夕食だろう。寿司も美味しかった。次の日の朝食の結構美味しかった。もう一度行きたいと思う宿だった。
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# by qzr02421 | 2012-04-09 20:10 | 旅行

春は花見だ

名古屋は桜が満開になりつつある。長野に行ったのだが、長野の冬だった。晴れているかと思うと雪になった。4月なので積もることはないのだが、4月の雪というのも風流なものだ。サクラ吹雪ではなく雪の吹雪となった。名古屋の名城公園では花見真っ盛りだった。黒川上流の御用水でもサクラを楽しみ事ができる。

妻と花見に行った。片手に酒、片手には串かつをもってだ。御用水はマイナーなところなのか人手は多くはなかった。ライトアップされているので、それなりの風情はある。酒をちびりちびり飲みながら散策した。日本人なのだと思う瞬間だ。中国の人も最近は花見に日本に来るそうだ。上野あたりのサクラを見て楽しむとのことだ。中国ではサクラを見るという習慣がないというか、サクラがないとのことだ。

3月末に「歌わせたい男たち」の音響をしたりして緊張した日々を過ごし、今はサクラを楽しむなど、風流な日々を送っていたら、罰があったったようでぎっくり腰になってしまった。歩くのはできるのだが、座るのが苦痛だ。最初は寝るのも苦痛だったが、寝ることだけはできるようになった。良いことが続かないものだ。楽あれば苦ありというということのようだ。

寒かった冬も終わってこれからは暖かくなるという天気予報だ。新聞を読むと地震の話題、オリンピック選考会の話題などが掲載されている。地震があるかもしれないと思いつつオリンピックを楽しむことができるのが人間というものなのだろう。未来を心配しながら現在を楽しむことができるのは人間の特性のようだ。心配と楽しみ、それが人生というものなのだ。
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# by qzr02421 | 2012-04-08 19:52 | 日常