本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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朝鮮人参は本来はお腹の病気の効果があるそうで、つまり蹴りや便秘に効能があるということだ。腸を調整して下痢を便秘を治すのだ。現在はこの朝鮮人参の成分を分析して、下痢に効く薬と便秘に効く薬と二種類作っているようだが、もちろん腸を調整する薬もあるのだろうから、3種類あるのだろうか。

朝鮮人参の成分分析のとき下痢に効く成分と便秘に効く成分を取り出し、効果が分からない成分は廃棄するそうだ。ところで人間は朝鮮人参の飲んで、どのようにして身体は便秘に効く成分と下痢に効く成分とは選り分けていくのだろうか、それは身体自身が判断しているのだろうか。下痢をしている下痢を止める薬と飲んだほうがよいのかどうかは、分からないものだ。悪いもの排泄するという意味では下痢がそこそこ続くことが必要なことかもしれないではないのか。

現在の薬はある症状の特化してそれを治そうとする。それはそれでよいのだが、もっとぼや~とした薬というものがあってもよいと思う。今はいろいろなことが特化されている。特化していると効率的なのだが、それではその特化したものしか利用することができない。昔の学者はあらゆるものを研究した、いわゆるスーパーマンのような学者が多かった。レオナルドダビンチやアリステレスのようの人物のことだ。

学者が「それは専門ではないから」とよく言っているのだが、これも専門に特化しているからだ。これでは総合的に世の中を見ることができない。歴史研究者は多く存在するのだが、歴史家は多くは存在しないということでもある。漠然といろいろなものの興味を持ち、それに関する本を読み、自分なりの考えを持つということが今こそ必要なときのような気がする。「それは専門ではないから」という言葉を封印したいものだ。
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# by qzr02421 | 2012-12-19 16:29 | 日常
科学と哲学は何がちがうのか。科学は測定可能なものが対象となるものだ。速さ、長さ、重さは測定可能なので、それは科学となる。それに対して愛は測定できるだろうか。あなたの愛は何センチとは聞かないものだ、つま愛とか善とか正義は測定ができない。つまりこの測定できないものが哲学なのだ。測定できないものを考える意味はあるのだろうか。きっと意味はないのだろう。しかし考えたいと思った人々が歴史上の多く存在するのだ、それを人は哲学者と呼ぶのだ。

測定可能にするためには、その対象を単純化することが必要となる。条件を減らしていくということだ。また合理的に考えることも必要となる。合理的とは結果があれば必ず原因があるという考えだが、この考えを維持するためには偶然を排除することが必要となる。偶然を嫌うのが近代科学の特徴だ。中世では偶然は神と意志とされた。それはそういう考えが成立するのだ。

哲学とは言葉の問題であり、生き方の問題だ。そこには信じるということが基本となっていう。プラトンの「イデア論」を信じ、デカルトの「われ思う故にわれあり」信じ、カントの「もの自体」を信じることが哲学の始まりだ。これらは知識ではないのだ。これらは世界観を現していること理解することが必要となる。信じるという意味では哲学と宗教は隣り合わせに存在しているといったてもよいのだ。

カントは形而上学、つまり「もの自体」を人は知ることはできないといった。それは形而上学を否定したということでもある。ニーチェはこれを「神が死んだ」という言葉であらわしたのだ。ベルクソンはさらに意識と脳の関係を研究して、意識は脳には存在しないということをあきらかにした。意識はあるのだが、それは存在していないということなのだが、この考えは実に分かりにくい考えだ。仏教の「空」と同じようなものだ。色即是空ということなのだろう。
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# by qzr02421 | 2012-12-18 19:09 | 日常

未来は予測可能なのか

未来は予想できるのだろうか。予想するとそれを変えようとするので未来が変わってしまうので、結局未来を予想しても、その予想は間違ったものになるだろう。過去の経済学者の経済予測はことごとくはずれとということだ。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊、サブプライム不況などを予測した人がいなかった。人間は今のままの状態が続く、あるいは続いてほしいと、また続かないだろうというバイアスがかかって判断する。だから現在の数字で判断する未来は決してこないということだ。

コックのアリスは「どんなよい時代でも私たちの寿命は限られている。だから、いつの世であれ、世界の危機をあまりにも深刻に受けとめ、本来楽しむべきことを後回しにするのは自然の摂理に反する。よい仕事をする、恋をする、友とのつきあいを楽しむ・・・それが人生だ」を言っている、その通りなのだ。未来のことを憂いても、意味がないことなのだ、今の人生を楽しむことこそが大切なことなのだ。

人間は偶然というものを嫌う、何か物事が起こると、そこに法則性を見つけたいという習性があるようだ。あるいはパターン化したいということでもある。しかし世の中は偶然の塊なのだ。世の中は偶然のかたまりだということを理解することが大切なことだ。また、人間は不幸な未来予測の方を信じやすい習性もあるようだ。悲観的な未来に引かれるというのも不思議なものだ。未来を予測する人は自信たっぷりに話ハリネズミ型と謙虚で疑い深く未来をいろいろな可能性で予測するキツネ型がいて、人々は自信たっぷりなハリネズミ型に引かれ、それを信じやすいのだ。

テレビを見て、そのコメンテーターや経済学者がハリネズミ型かキツネ型が考えるのも楽しいものだ、自信たっぷりな人の意見は信じない方がよいということだ。あるいは人をだましたければ、身なりのよいカッコウをして自信たっぷりに話せばよいということでもある。わかりやすく自信たっぷりの話をする人はハリネズミで警戒しろということを意味している。私もハリネズミになって講義をしようと思っているところだ。人々はわかっていても、いつもだまされるものなのだ。以上『専門家の予測はサルにも劣る』(飛鳥新社)を参考にして。
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# by qzr02421 | 2012-12-17 16:24 |
劇団燐光群の「星の息子」を名古屋芸術劇場小ホールで見た。公演は12月15日と16日の二日間だ。渡辺美佐子と円城寺あやの演技が印象的だった。沖縄の配備されたオスプレイに反対し、このオスプレイの基地となるヘリパット建設反対する人々とそれに賛同する人たちを描いたものだ。沖縄北部にある高江という集落が舞台だ。やんばるの森が残っているので、アメリカ海兵隊はそこをジャングルの想定した訓練ができるのだ。

星の息子というのはその反対運動を指導している「星児」という人物を探すことを主題としているからだ。その星児を名乗る人物が多く登場する。住民が平和に暮らすことができるところには必ず星児が出現し、しかもツイッターで支持し、誰も星児と直接会ったことがないのだ。その星児を探しているの渡辺美佐子演じる人物なのだ。美佐子の子どもが星児なのだ。

この劇の中で、住民が人間として暮らすために東北の震災の現場や原発反対、沖縄での基地反対をしようとしても、国が干渉してくるのだ。国は住民が安全に暮らすための政策をしなければならないはずなのに、電力会社やアメリカ軍に協力する政策しかとらないと描かれている。この劇の中で「見えないものは遠いから見えないのではなく、上にあるのだ、世界は水平方向に広がっているのではない、垂直方向の広がっているのだ」というセリフが印象的だった。

また、「沖縄の基地と原発を一緒にすることはできない。沖縄の基地は政府から押し付けられたもので沖縄は望んでいないのだが、原発は誘致した地方の有力者の存在がある、つまり原発は誘致してそこの存在しているのだ」というセリフだ。原発を反対することはそれはよいのだが、原発で生活をしている地域が存在しているということなのだ。2時間強の劇だが、その長さを感じさせない劇だった。
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# by qzr02421 | 2012-12-16 14:52 | 劇,映画その他
山崎哲さんの『俳優になる方法・増補版』読んだ。俳優になるのは誰でもできる、特に演劇にことを知らない人ほどよい演技をするそうだ。保育園や園児の演技で感動するのは、演じているところが、劇の核心に触れているからだ。その役になりきることなど必要ないし、相手をその役だと思わなくても、その生身の人に話しかければよいのどいう。人間は変わることができないのだから、その役に変身することはできない。演技とは人間を演じることではなく、空っぽになって、そこに存在してせりふを言えばよいだけのことだ。それができずに、こ根繰り回すから、存在しない不自然な演技となってしまうのだそうだ。

樹木希林が「あなただれにしゃべっているの、ちゃんと私のしゃべりなさいよ」と相手役の人を怒ったという。相手役が樹木希林に話しかけばよいものを、自分が作り出した架空の人物に話しかけていたのだという。樹木希林に話しかければよいだきのことなのだ。自分勝手の空想の世界を作り、そこで一人芝居をしているだけだったのだ。演劇で一番大切なことは、相手の話を聞くことなのだ。演劇で一番多い演技は人の話を聞く時間なのだ。自分がセリフを言う時間などは多くはないのだ。

故三木のり平は「覚えたセリフは忘れなさい」と言ったそうだ。言いたいセリフがあるのではなく、相手のセリフを聞いたときに、思ったことを言えばよいだけのことなのだ。相手のセリフを聞いて、聞いたセリフで気持ちを作ろうとすることではなく、セリフを聞いたときの気持ちで、思いついてこと話せばよいだけのことだ。いつもの会話は台本がないのだから、台本がないという状態でセリフを言えばよいということえだ。

相手のセリフで気持ちを作ったり、その気持ちでセリフを言ってはいけないのだ。会話で一番大切なことは「聞き分ける」ということと「話しかける」ということなのだ。俳優は舞台に上がった、聞き続けていかなければいけないのだ。聞き分ければセリフは絶対でてきるのだというのだ。相手のセリフを聞き分け。、つまり何を言いたいのかを理解して自分のセリフを言えばよいのであって、言い方の上手い下手は関係ないないことだという。ぎこちなくても、そればそのときの気持ちであればそれでよいのだ。

相手の言葉を聴きながら、普通は相手の言いたいことや、今日は顔色が悪いなとかを考えているものだ。これを内語というのだそうだが、内語をしていればよい、これを聞き分けるということなのだ。「おい、ちょっと、そこのタバコを取ってくれ」というセリフで自分が呼びかけられた感じがしなければ、「誰にいっているの」というセリフを言ってもよいのだ。また。「そこって」」どこというセリフがあってもよいのだ。そういうセリフが出てくることを「聞き分ける」というのだ。セリフは「呼吸がすべてだとも書いてある」、セリフはぶつぎれでもよいということでもある、それが自然ならということでもある。
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# by qzr02421 | 2012-12-15 16:17 |

今日は討ち入りの日だ

今日は赤穂浪士の討ち入りの日だ。47人が吉良邸へ、1703年の事件だから、関が原の戦いから100年以上立っている事件だ。2012年の百年ほど前、つまり1910年には何があったのかわからないのだから、赤穂浪士にとって関が原の戦いは歴史的事件となっているはずだ。つまり戦国時代が終了した100年ほどあとの事件なのだ。平和に酔いしれている江戸の人たちを驚かせた事件ということでもある。

浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ理由がさっぱりわかっていないし、47人といいながら、泉岳寺に行ったのは46人だし、わからないことが多い事件だ。この事件が今に至るまで伝わっているのは、この事件を利用して主君に対する忠誠を宣伝したい勢力があるからだとしか思えない。明治時代に天皇に対する忠誠とともにこの事件が脚光を浴びたのだと思う。

幕府に対して、文句を言うなど考えることができない時代に、敵討ちをしたというのはすごいことだけれど、それが今に至るまで、日本人の記憶に残っていることのほうがもっとすごいことだと思う。井上ひさしは『不忠臣蔵』を書いている。忠臣蔵において中心にならなかった人物を二人とりあげ、忠臣蔵を裏から描いている。CDも出ているのだが、これを朗読しているのが先ほど亡くなった小沢昭一なのだ。

松の廊下の刃傷で内匠頭を抱き止め吉良への遺恨を果たさせなかったのは、侍として不人情ではないか、おまけにそれで五百石の加増とはといって生涯にわって非難された人物とその人物をつけねらう人物の葛藤を描いた話と赤穂浪士が本懐をとげ切腹したあと泉岳寺にあらわれた尼僧の話のふたつが昭一の語り口で聞くと臨場感があるのだ。あっという結末もまた楽しいCDだった。
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# by qzr02421 | 2012-12-14 19:05 | 歴史

藤本義一の文章上達法

藤本義一さんの講演を聞いたことがある。文章をどのように作るかというテーマだった。文章を書くコツは、省略することだという話だった。「私と妻は結婚して30年だった」などいう文章は誰でも書くことができるというのだ。これは文章とはいわないのだという。ただの駄文ということだ。「私」という主語は省略することができる、私を省略すると「妻と結婚して30年」となるのだという。これでもまだまだなのだ。

次のテクニックとしては倒置法を利用するのだ。つまり「30年、妻と結婚して」とするのだというのだ。これでもまだまだなのだ。さらに省略をしていくのだ。妻を削るのだ。私と妻が結婚したのは当たり前のことなのだ。そこで「結婚して30年・・・」となるのがベストなのだという。これだと30年どのようなことがあったのかという想像力が、この文章を読んだ人が抱くというのだ。それはその通りだと思った。

「結婚して30年、よいことばかりではなかった」と続けると、読んだ人は、きっと不幸な話がくると想像するというのだ。このあとどのような展開をするのか興味を持たせることができる文章がよい文書ということなのだ。人の不幸は蜜の味ということばがあるのだが、不幸になるストーリーの方が、一般受けするということでもある。

文章は省略を考えるというテクニックを学ぶことができた。学ぶことができたても、それを実行できるかどうかはまた違う問題なのだ。省略が大切だということはわかっても、それは実行することは難しいことなのだ。しかし、省略というキーワードを守りながら文章を編み出したいものだとは思っている。それにしても、余分な内容が多くなるのが駄文だということはわかっているのだが、駄文になってしまうのが一般人が書く文章ということでもあるのだ。
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# by qzr02421 | 2012-12-13 20:00 | 日常
本物を見ると目が肥えるということだが、それなら偽もの見ると目が腐るというのだろか。偽ものの絵画を集めた美術館が存在する。しかもそれは陶板でできているのだ。陶板でできているということは色があせないというこでもある。本当の絵画はどんどん色があせていく。仏像も同様だ。すべて本物は劣化するのだ。色鮮やかの仏像も、いまではくすんだ感じとなっている。それは風流とはいうのだが、造られた当時とは違うのだ。

その偽物を集めた美術館とは「大塚美術館」のことだ。徳島県の鳴門市にある。国立公園内にあるため、山を崩して建設したあともう一度山を復元したということだ。ビルを作って山にしたといことだ。不思議な構造をしている。ここに陶板を使った偽物の絵画が展示してあるのだ。本場のイタリアでは入場制限しているようなダヴィンチの最後の晩餐などが、無造作に展示してある。もちろん写真は撮り放題だ。モナリザ、春、ナポレオンの戴冠などが同じ大きさで展示されている。

本物だと長蛇の列となる「真珠の首飾りの少女」の展示は、誰もいなかったので、しっかり写真のとった。原寸大で展示してあるので、これほど大きな絵画だったのかとか結構小さい絵だなという感想を持つことができる。じっと見るとこの陶板絵画は色がとてもきれいだ、しかも劣化しないので明るいところで見ることができるのだ。明るいところで見ることができるので、実際は暗いところの展示してあるはずなので、違和感を感じる。つまり綺麗過ぎるのだ。

実際具体的のどのようなものがるのか列挙してみよう。システィーナ・ホール、スクロヴェーニ礼拝堂、フェルメールの部屋、聖マルタン聖堂壁画、聖ニコラオス・オルファノス聖堂、聖テオドール聖堂、貝殻ヴィーナスの家、鳥占い師の墓、エルグレコの部屋、ポンペイの秘儀の間、モネの大睡蓮、バロック系統展示(レンブラント「夜警」など)、ルネサンス系統展示(ダ・ヴィンチ「モナリザ」「最後の晩餐」・ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」など)、ゴヤの家、バロック系統展示、近代系統展示(ゴッホ「ひまわり」・エドヴァルド・ムンク「叫び」、現代系統展示(パブロ・ピカソ「ゲルニカ」など)など、3時間かかっても、じっくり見ることができなった。また行きたい美術館のひとつだ。
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# by qzr02421 | 2012-12-12 21:14 | 旅行
大人の記憶はエピソード記憶と意味記憶を中心として構成されている。エピソード記憶とはその名と通り自分の人生上の事件を時系列の記憶しているものだ。人間の脳は言葉で記憶しようとするで、事件が言葉となって記憶されている。この記憶が自分のアイデンティティを構成しているのだ。このエピソード記憶が正しい歴史を示しているかどうかは疑わしい。都合の悪い事件は忘れ、都合のよい事件のみを、さらに都合よく記憶していることが多いようだ。

エピソード記憶が正しいかどうかは、小学校のクラス会でその記憶を披露することで証明できる可能性がある。自分が正しいと思っている記憶が、クラスミートの記憶とまるで違っていることが多いのだ。私は無口な小学生だったと記憶しているのだが、クラスメートの記憶ではどうも違うようだ。都合のよい記憶、時系列のエピソード記憶のよる人格の一致は幻のようだ。

意味記憶とは、一度も行ったことがない砂漠の暑さを、砂漠は暑いというように記憶してるものだ。経験をしなくても、その現象を理解することができるのはこの記憶のおかげだ。この二つ以外にも記憶が存在している。それが像記憶だ。言葉としての記憶ではなく、映像としての記憶のようだ。この像記憶があると、過去が再現しやすいし、それば文学のなるとのことだ。小林多喜二は自分の感じたことは心の中の映写機でカラカラと映写され、それを文章のすればよいのだと述べている。

この像記憶が得意な人としては寺田虎彦がいる。彼は自分の過去が映像としてみることができるのだ。視覚的映像としての像記憶というものは説明してもそれを見ることができない人には理解ができないはずだ。この記憶は言葉のよる記憶ではないので、細部まで説明することができるのが特徴なのだ。堀切直人著「寺田虎彦語録」を読みながら、考えたことを書いてみた。
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# by qzr02421 | 2012-12-11 15:37 | 日常
朝起きたら雪景色だった。例年より早いとのことだ。雪を見ながら読書というのもおつなものだ。それにしても手は寒い。部屋から見ることができる名古屋高速は通行止めで、走っているのは点検中の車だけだ。鈴かな雪景色から聞こえてくるのは選挙の訴えの声だけだ。よろしくといわれても興ざめが声にしか聞こえない。その声を聞きながら政経の経済部分の授業案を考えた。憲法学習は終了したので、今期は経済学習だ。経済思想史は話したので、資本主義経済の特徴の学習だ。

選挙が政治部門の問題だが、政治と経済はそれなりの関係はある。政治的にはこのせわしい年末に選挙というのは候補者の大変だろう。経済的にはこの年末に選挙ということに対して、中小企業などの経営のほうがもっと大変だろうと思う。自民党は景気回復をスローガンの掲げているのだが、政府の財政政策でできることが限られていることは、高校の政経の習うところだ。資本主義経済は市場中心主義なのだから、政府の介入で突然景気が回復することは考えられない。小泉政権時代の経済学者は新自由主義者だった。新自由主義というのは政府は経済に介入すべきではないという考えなのだ。だから民力の活用政策をとったのだ。

政経で憲法を教えるのは割りと簡単?なのだが、法律は一応存在し、その解釈を中心に理解することは可能だ。ともかく法律というよりどころがあるのだ。ここが経済学習との違いだ。経済は正解というものを探すのが大変というか、正解があるのだろか。人によって幸福の定義が違っているのだから、どの政策をすれば誰が幸福になるのかわからないはずだ。世の中の資源と時間は限りがある、その限りあるものをどのように分配するのかを考えるのが経済学というものだ。限りがあるということは、すべての人が幸福になるような分配することは実の困難なことだということを意味している。

さらには「ケインズの美人投票」という言葉がある。誰が美人が投票するのだが、自分が美人と思う人を投票してもだめなのだ。多くの人が美人として投票する人を投票しないとダメなのだ。またアナウンス効果もある。この株が上がるというアナウンスのよって人の行動が変化するというものだ。変化する人間を扱う経済は未来を予想することはできないのだ。ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つということでもある。未来が予想できない経済学は未来に人間を幸福のすることはできないのだ。政府に期待できるのは治安の安定であって、経済の安定は期待することは極めて少ないのだ。
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# by qzr02421 | 2012-12-10 12:52 | 日常