本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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 高校生や大学生そしてスクーリングの生徒さんと見て、能力の差について考えてみよう。第一に必要な能力は、集中力だ。同じこと、たとえば、読書、勉強など、何時間くらい集中してできるかということだ。大学の講義は90分から100分だろうから、それくらいの集中力は必要だ。集中力をつけるための読書というのはあるだろう。

 佐藤優の『獄中記』のよれば、佐藤さんは、独房の中で、読書三昧の日々を送っている。読んでいる本も、ハーバーマスの『認識と関心』、ヘーゲルの『精神現象学』などだ。これらの本は相当な集中力があっても読める本ではない。わたしはあまり近寄りたくない本の一種だ。ハーバーマスは本を手に取るだけで、めまいがしそうだ。佐藤さんは相当の集中力の持ち主なのだろう。

 二つ目に必要な能力は、言語化ということだ。つまり、自分の考えていること、あるいは人の考えを、文章にするということだ。これは、本を読んで、それをまとめるということによって力がつくはずだ。まず「メモ」をとることだ。時間があれば、一回読んで、二回目にメモを取りながら読むのがよい。時間がなければ、一回からメモをとる。

 メモを取って本を読み終わったあと、このメモに自分のコメントを入れていく。されにこのコメントを利用して、文章にするという一連の作業をすることにより、三つ目の能力である文章力を身につけることが出来る。もやもやしていて表現できない自分の気持ちも、これらの練習によって身につくことは間違いない。集中力、言語力そして文章力が学習するとき必要な能力だ。この三つが身につけば、分析力、表現力も身につくだろう。

 しかし、この練習をしても身につかない能力がある。それは独創力だ。斬新なアイデアを出す能力だ。これはどのようにすれば身につくのだろうか。ひらめきはどのようにすれば手に入るのか。エジソンは「天才は99パーセントの努力と1パーセントのひらめきである」と言っている。上記の練習が99パーセントの努力にあたる。残りの1パーセントはどうすればよいのか?これはまたそのうち続きを書くことにしよう。
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# by qzr02421 | 2008-03-07 14:34 | 評論
 本を読むのが好きの子になって欲しいというのが親の願いの一つようだ。本を読むことよい子というイメージがあるのだろう。ゲームをしているより、知的には見える。就職試験の面接で趣味は聞かれて、「読書です。森鴎外が好きです」なんと答えたら、格好がよいのだ。

 実は私が、このように答えたのだ・・・面接官は「鴎外のどのような作品が好きですか」と聞いてきた。鴎外の作品が好きなのだから、個別に好きな作品がなかった。しかしそのような答えではいけないと思った。安寿と厨子王では映画的だし、阿部一族では暗いし、ヰタ・セクスアリスではねえ、高瀬舟と思ったが、罪人をどう思いますかと聞かれても困る。なんとなく舞姫と答えた。
 
 すると、「主人公は恋人を捨て、家をとりましたが、あなたならどうしますか」と聞かれた。会社の面接だから、家がいいかなとも思ったが、それではミエミエという感じだ。恋人ですと答えたら「そうですか・・・・」という気まずい雰囲気だった。落ちたと思った瞬間だった。

 というわけで面接では森鴎外は良くないということだ。誰がいいのだろうか。本は面白いと思って作者を見つけたら、その人も作品を読んでいくのがよいと思う。北森鴻の作品は面白くほとんど読んだ。この読み方の欠点は作者は本を書くスピードより読むスピードが早く、その作者の読む作品がなくなることだ。まあ、しかたがないことだが・・・

 どうしたら、面白い作品が見つかるかということは、図書館であ行から読んでいくのが一場シンプルだ。面白くないと判断したら、止めれることが重要だ。時間は無限にはない。自分に合わない作品が読まないほうがよい。

 実は、読まないと判断する基準が難しい。作者によっては、最初面白くないけれど、だんだん面白くなっていくのがある。そういう作品は2順目のあ行からひろうしかない。もう一度手にとるということが重要だ。時間がたてば、自分の好みがかわったりすることがあるからだ。。読む力も着いてくるかもしれないのだ。

 ところで、絵本だが、自分が読んで面白いと思った作品を子どもに読んであげればよい。世間の評判が良くても、なんだか面白くないなと親が思った作品は、子どもに伝わるものだ。まずお母さんやお父さんが、絵本をたくさん読んで、絵本の楽しさを実感して、その楽しさを子どもの伝えることが一番重要なことだ。

 親が全然本を読まずに、子どもだけが本を読むということおはありえない。もうひとつは、子どもが小学校低学年までだったら、本を読んで聞かせるということが大切だ。自分が面白いと思った作品を、楽しそうに、親の声で、読む。これは幸せな瞬間だ。ともかく親が楽しく読むことが一番のポイントだ。

 子どもは結構残酷なシーンも好きだ。残酷なシーンを読んでも、大丈夫だ。それは親自身の読書体験でもわかるはずなのだが。自分が親になると、子ども時代のことを忘れてしまうのか、残酷さを隠そうとする。醜いアヒルの子でもいじめられる、そういういじめの本を読むことを通していじめの醜さを知っていくのだと思う。

 結論、本好きの子にしたければ、親が本を、楽しく読むこと。子どもが本を読んでいる親を見て「その面白い?」と聞いたら、満面の笑顔で「おもしろいよ」と答え、ストーリーを話せばよいのだ。
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# by qzr02421 | 2008-03-07 12:31 | 評論

ねぎらうということ

 ねぎらうとは「労う」と書く。よく頑張ってますねということだ。会社では結果の報告を求める人が多いが、本当は「よくやってね」というようにねぎらいのことばをかけるのがよい人間関係を生むのだ。

 人は頑張っていることを言いたがらないものらしい。頑張っていることや疲れていることをハッキルといえるのがよい人間関係だと思う。「疲れた」と言ったら、「頑張ってるね」というような答えがかえってくるとよいよね。

 案外、自分のが本当に思っていることを言ってみることが、悩みの解決の第一歩ではないでしょうか。また、悩んでいる人がいたら、話を聞くということが重要でしょう。傾聴ということ、聞くということがカウンセラーの一番重要な仕事らしい。アドバイスをしてはいけない。人は聞いてほしいだでのなのだということを理解することが重要だ。

 自分が言いたいことは一杯あるのが人間だけれど、人の話を素直に聞くという人がいなければやってられないということはあるのだろう。人の話を異見をせずに聞くということをして見ませんか。

 ところで、私は文章を書いたら、見直すことをしないのです。大学のレポートを書いても見直さないので、添削されると、間違いが一杯あるのです。細かいことが気になる人がいますが、気にはなるのですが、まあいいかというのが私のモットーです。この文章を読まれている方、誤字脱字があると思っていると思いますが、大雑把な人間だと思ってご容赦をよろしく。なんて甘えても仕方がないよね・・・

 
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# by qzr02421 | 2008-03-06 21:59 | 評論
 本を読むとき、メモを取ることが多いのだが、電車や本屋での立ち読みなどではメモを取れない。そういう時は記憶であとから、書くのだが、何が気になってメモしようとしたのか、忘れることが多い。本の題名すらわすれることがある。

 本屋でこの本、面白いなと思っても、家に帰ってから、ネットで注文しようと思うと、本の題名が分からない事が多い。年を取ったせいなのか、よく忘れる。ネットで注文するのは、ポイントをためるためだ。ポイントが結構たまる。本は値引きがないから、得をしたような気になる。

 本好きの私としては、本屋で買ったほうがよいのだろうが、ポイントにひかれるのだ。情けないなと思う。二回続けた、教育関係の本というのは、メモしかなく、どんな本か分からないのだ。カウンセリングの本だと思うのだが・・・

 本を読んで、メモしようとする文章というのは、以前から考えてたが、言葉にならなかったことを、上手に文書にしてある場合だ。「そうそう、私の考えていたことはこれこれ」と、嬉しくなってメモするというわけだ。

 もう一つは、長年の疑問が、説けたときだ。目から鱗が落ちる(取れる)という瞬間だ。これは最も嬉しい。疑問を持ち続けていてよかったと思える瞬間だ。今日読んだ『漢字道楽』という本で自分の「自」という字の象形文字が「鼻」だということを知った。どうしてあんな(あんなといっても書けないので残念)形かと思っていたのだ。もう一つは、漢字の由来が流行しているようだが、この本によれば、「これはこの方法で作られたのではなく、出来上がった字を見て、あとの時代に作られ方を類推しているだけ」という文章があった。

 漢字の由来は一つの説ということだ。当たり前のことなのかもしれないが、このように書かれていると、安心するというものだ。

 メモする3つ目は、上手い文章だと思った時だ。文というのは言葉に出して、読むということが大切だと思う。家に一人で、気に入った文章を朗読するというのは気持ちのよいものだ。本来本を読むというのは、声に出すことを言うのだ。家族はいやな目で見るが、気にせずに、朗読しているのだ。

 メモする4つ目は、私は某カルチャースクールで教えているのだが、そのネタになるだろうと思える話だ。いつか話しぞという感じでメモするというわけだ。

 最後は、このブログののせる為のメモするものだ。メモすると記憶に残るので、ボケ?防止になるような気がする。
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# by qzr02421 | 2008-03-06 19:47 | 評論
 「不登校の生徒のイメージは20年前は変っている、弱い、甘えている、自己中心的というものだった。その後学校刺激(登校を促すことなど)はよくないという説が出現した。」現在でも不登校や引きこもりはという現象があるのだが、そっとしておくというのが主流なのだろうか。結局、学校に行くことがよいという選択肢しかないという一元的なことであれば、どのような説でも同じように思う。AかBかという選択肢対しては、どちらもという選択とどちらもいらないという選択があるのだ。

 この不登校や引きこもりに関して、読んだ本には「引きこもりの子や、引きこもりの子を持った親はどういう気持ちで一日一日を生きているか考えたことがありますか」という文章がある。自分が体験していないことには、むやみに意見を言わないほうがよいのだろう。

 統計的には不登校は昭和30年代を境に上昇する、それに逆にそのとき減少してくのが殺人だそうだ。人を殺さない代わりに自分の心を殺しているということだろうか。

 「若者は15歳から45歳までだ」若者はいつからいつまでだろうという問の答えだ。モラトリアムという言葉が流行した。大人になるということは、たくさんあった希望や夢をつぶしていくことだと思う。大人になるにつれて、希望がプシュ、プシュと音をたててつぶれていくのだろう。自分探しをしている間は夢を抱えているので、それは青年ということだと思う。

 「成長する為には秘密を持つことが必要だし、それは大切なことだ」大人になるということは希望がなくなり、秘密が増えることなのだろうか。秘密と人間の成長の関係というのは面白い視点たと思う。私は分からないことは、分からないもまま抱えているのが好きだ。いつか分かるときが来るというように思っている。20年前に持った疑問が今、分かるとそれは感激するものだ。そのために本を読むのいだ。疑問と発見ということだ。

 「文明や合理主義を疑ってみることも大切だ」常識や当然と考えていることを疑うということは大切なことだと思う。疑問から全ては出発するのだろう。問いを立てることができれば、半分解決できたようなものという言葉もある。問いを立てるためには、疑問を言語化する必要がある。言葉にならないでいることを、言葉にするということだ。言語能力を高めることが、全ての道の第一歩ということなのだ。

 「孤独の臨界点とはそれはハゼル、キレル寸前のことだ」孤独臨界点という言葉は重要な単語だと思う。自分の気持ちの臨界をしるということ、相手の気持ちに臨界をしるということは人間関係構築の基本のように思う。

 「私のうちなるモノを大切にして、それを子ども開示することが必要である」わかったようで分からない言葉だが、うちなるモノとは何で、それを開示すると子どもはどうなるのだろう。うちなるモノとは、子どもに対して素直に持っている感情だろうか。なかなか帰ってこない子どもに対して「交通事故でもあったのか」と心配していても、子どもの顔を見た瞬間の言葉は「何時だと思っているの」だったりするものだ。「おかえりなさい、心配してたよ」という打一声でよいということだろうか。自分が本当に思ったことを喋ればよいのだろうが、なかなかそのようにはいかないよね。

 自分の本当の気持ちを相手にいうことを自己開示というのだが、それば出来れば人間関係は上手くいくということだが・・・次回は「ねぎらう」ということを考えてみよう。しかし「ねぎらいの言葉」というのは最近聞かない言葉のように思いませんか。
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# by qzr02421 | 2008-03-06 14:47 |
 「人は過去を降り返りたくなるものだ」未来は未定だから、未来を見るためには過去を見て参考にするならよい。しかし過去を懐かしんではいきないのだろう。養老猛は「人は100%死ぬ。死なない人はいない」なんということを言っている。今と生きるという姿勢が重要だろう。そんなこと出来ないというあきらめではなく、ともかく今の興味を大切にして、進みということだ。

 「思春期の子どもは大人に対する関心が高くなる」関心が高くなる時期なのだろう。将来の不安もあるはずだ。そんな時疲れ果てた大人を見ると、生きる希望がなくなることだろう。大人は疲れていても楽しそうに生きることがよいのだ。何かの番組ではないが「そうやって日本は平和になった」といものだ。

 「犬や猫は面白い、しかし人間はもっと面白い。人間に対する興味があれば生きていことが出来る」街角で人を観察するのは面白いことだ。先日東大寺に行ったのだが、南大門の真ん中に敷居の木がある。結構高いのだ。敷居とは畳の縁は踏まないもんだ。これを跨ぐのか、踏んでいくのかとういう観察をした。多くの外人は跨ぐのだ。ガイドブックの跨がないようにとでも書いてあるのだろうか。女性の2~4人のグループは跨ぐ人もいれば踏んでいく人もいる。子どもをつれた家族は、親が跨ぐと、子どもも頑張って跨ごうとする。その姿はかわいいものだ。親が踏むと、子どもも踏んでいく。文化の継承が何処かで切れているのだろう。年配の人でも踏んでいく人もいる。踏んではいけないということは知っているのだ、足が上がらないので踏むわけではないが足を着いてしまうというのは微笑ましい。人間観察は飽きないものだ。

 「心は見えるものか、操作できるのか。見ようとすること大切なことだが、見えるものではない」人間観察は出来るが、心の仲間では見えない。人の心はわからないから、人間は面白いのだと思う。高校のとき授業がうるさいときがあった。先生は怒っているらしく、小出しの注意するのだが、なかなか静かにならない。何回か軽く注意したあた、「うるさい静かにしろ」と大声で先生は怒鳴ったのだ。先生はそのあと「トリスの宣伝ではないが、私が起こっている度合いが色で区別されると、怒りの度合いが分かるのですが」と言った。足まで赤かったら怒り度が中くらい、のどまで赤かったら起こる寸前、前線赤かったら危険ということだ。人の心が色で分かれば喧嘩もなくなるのだろうか。

 「拒絶する自由ある。私の話が嫌なら退出してもらってよい。それくらいの自由はある」人生は退出する自由はあるよういで、ないもんだ。

 「大人はなぜ子どもが嫌がる言葉を発するのか。大人は言葉にナイフを隠した持っているのだ。教師の言葉もナイフが隠れている。家庭にも言葉のナイフが一杯ある」言葉を発することには注意が必要だ。相手を傷つけるつもりがないけれど、ナイフになっているかもしれない。人間関係全般に言えることだ。文章もおなじだろう。気をつけてもナイフが・・・
 
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# by qzr02421 | 2008-03-05 16:45 |
  『日本人の老後』は長山靖生著の本だ。老後をどのようにとらえるのかが書かれている。若者の切実な問題は「生きることの意味、リアリティの不在」でありそれに対して高齢者は「老いるという実感の不在」だそうだ。そして老けない秘訣は「過去ではなく、今を生きること、常に関心があるのが過去ではなく現在そして未来ということ」で、不老不死のにはならないので若さや現役に価値をおくのはまちがっているというのだ。

 サルトルの晩年は印税収入のみで平均的労働の月給の半分しかなかったらしい。企業年金も現役時代の半分ということだから、サラリーマンの老後はサルトルの収入と同じか。サルトルは気がめいると「葬式は出せるか」ということが不安だったそうだ。

 ところで、私は奈良大学通信教育部で学んでいるのだが、スクーリングに行くと、一時間以上前から教室は席を取る為に受講生が来ているのだ。それも最前列から埋まっていく。通学部の学生なら最前列は空席だろう。年配の人が多い。日本人の老後はお金が心配なければ、大学やカルチャーセンターで学ぶというのがこれからの生き方のようだ。
  
 その大学も今年度で卒業できそうだ。3年もかかったのか、3年で卒業なのかはよく分からない。来年度は学芸員の資格を取ろうかなと考えてはいるのだが。資格を取ったからといって博物館に就職でできるわけではない。しかし奈良大学の学芸員の講座は実習が魅力的のように思う。

 団塊世代が退職を向かえ、60歳から85歳?までの25年間の生き方というもの真剣に考えいることが必要だろう。通信教育の大学はいくつかあるので、大学で学ぶという選択肢は魅力的だと思う。
 
 スクーリングに行ったとき、年配の女性が「死ぬまでに卒業できるかしら」と言っていた。卒業していほいいものだ。今を生きる、過去を懐かしまないということが若さの秘訣のようだ。

 本の話題に戻ると、老後の不安ベスト3は①健康不安、③経済不安、それでは②は何でしょうそれは孤独不安(家事が大変など)だそうです。さらに④の不安はボケだそうです。瀬戸内寂聴さんは「ボケて困るのは周りのひとだから、心配ない、まだらボケではなくしっかりボケよう」といっている。

 三田誠広は『団塊老人』で高齢者の夫が妻から嫌われない方法を①家の中で小奇麗にする②毎日ヒゲをそる③命令口調で話さない④家事を分担する⑤子どもとちゃんと話をする⑥無意味な教訓を垂れない⑦自慢話をしない⑧くだらない駄洒落を言わない⑨妻との間に距離をとり積極的に外出する⑩夫自身が生きる目標をもつ、つまり基本は夫婦も他人ということを意識することであり、夫婦のなかにも礼儀ありということなのだろう。
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# by qzr02421 | 2008-03-05 15:36 | 奈良大
 歴史は現代と過去との対話なんというが、現代から見るとどうしても過去で業績を残した人物は悪人に見える。しかし歴史上の人物によい人悪い人ということを考えることは変なのではないか。その時代を生きのびた人は、それなりのことをしてるが、しなければ死んでたかもしれない。現代に価値判断をしないように歴史を見るということが大切なような気がする。

 浅田次郎の三部作というのは『蒼穹の昴』、『珍妃の井戸]『中原の虹』のことだ。最初の作品は西太后と光緒帝、次は珍妃という光緒帝の妃、最後は張作霖を、それぞれ主人公のした作品だ。浅田次郎さんは(ここでさんをつけるのはおかしい?)歴史上の人物を善悪では見ていないようだ。

 中国最下層の出身で一代軍閥に上りつめた張作霖は悪い人ではなかったらしい。やはり過去の人物を善悪で判断するのはおかしいことが分かる。

 西太后の評価は、俗説では権謀術策めぐらせた悪女という、ラストエンペラーでは、『爪がながい~いという映像だった」。本当は(浅田さんが描くには)庶民から親しまれ、アヘン戦争で衰退した清を半世紀存続させた有能の為政者である、偉大の母らしい。

 西太后を悪役にしたのは、列強が中国を侵略する口実だというのだ。あんな悪女なのだから滅ぼしてもいいよねという感じか。

 歴史を見るときには、誰が言ったのかなど考えることが重要のようだ。そういえば世界三大宗教といえばキリスト教、イスラム教、仏教というのが一般的だが、どうして仏教なのだろうか。儒教、道教、ヒンズー教などではだめか?たぶん世界三大宗教を考えたのはヨーロッパ人なのだろう。19世紀のヨーロッパは東洋趣味が強いから、仏教でも入れておけなんてノリでいれたのだろう。
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# by qzr02421 | 2008-03-04 18:51 |

アルプの記事より

 「アルプ」(劇団四季の雑誌)に美しい日本語の話し方講座という記事が紹介されていた。「発声がよわい、声が細い」ということに対して「言葉を伝えるということはどういうことか」「文章(本)が明確であり、そしてセリフが明晰に聞こえることが重要」「呼吸法、母音法、フレージング法が重要、呼吸法とは複式呼吸のこと、母音法では聞こえやすさは声のボリュームではなく一音づつの分離が大切とのこと、フレージングとは語句を区切ることらしい、適切な区切りというものがあるのだろう」

 話をしいても相手の伝わらないという思いはあるものだ。相手に言葉が届かないのはなぜだろう。大きい声で話せばよいというものでもない。ぼそぼそ喋ったことが印象に残ることもある。相手の伝えたいという思いと、相手に伝えるべき内容かどうかとういこと、思いと、内容が重要なのだろう。

 話し方の練習で、相手の後ろから「こっちにふりかえって」という言葉をかけて、、その相手がふりかえる気持ちになるかどうかというものがある。そのような練習をすれば、相手の言葉が届くようになるのかもしれない。

 その練習をすると自分の言葉の軌跡が見えるとういう話もある。言葉の軌跡が見えるとおもしろいものだ。

 アルプは「内容によって意識が変るということ、深刻な内容、うれしいニュース、緊急の話などによって話し方が変るが、そのとき聞いている人がどのように感じているのかを考えることが大切、聞いている人の意識の流れに沿ったフレーズの仕方をするということ」「話が伝わらないのはなぜか、自分の考えか伝わらない、大きな声を出せばよいというものではない、きちんと話すということは難しいということを意志することが大切」と結んでいる。

 話すことを、もう一度考えてみるきっかけになる内容だと思った。
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# by qzr02421 | 2008-03-03 22:13 | 劇,映画その他
『歴史とはなにか』岡田英弘著、この人は勝手な説を唱えているように思えるが、それが独断と偏見で面白のかもしれない。歴史とはなにか、それは何を歴史と認識するかということ、歴史の本質は個人の範囲をこえた認識ということ、また人間のいる所に限定される、人間は直接時間を認識できない、時間に本来目盛りがない、周期運動している物体を利用することで認識する、天体の運動がなぜ時間になるのか、地球の自転、月公転、地球の公転で日、月、年を作ったのが暦だ。

 人工的な始まりを作成して年代にする、西暦、紀元、ヒジュラなど、アボリジニーは夜お祭りをするが、時間が決まっていない、人々が暗くなって集まって、なんとなく気分が盛り上がった始まるというのだ、日記をつけないと自分が何歳かもわからない。

 歴史に残っているのは、玄宗皇帝が729年自分の誕生日を祝ったのが始まりと言われている、この日を千秋節、748年には天長節と改称した、時間の感覚は文明が作り出したもの、時間の観念は文化ということ、暦を作り時間を管理する、文字が発明される、記録をとる、事件と事件の間に因果関係を考えるという文化が歴史を生むということ、インド文明は輪廻するので時間の概念がない、インド人が歴史を意識したのはムガール帝国が滅亡しインド帝国が1858年だ、インドで日付けがある記録はイスラム教徒によってもたらされた、13世紀以降である。

 イスラム教は過去・現在・未来とが因果関係によって固定されない、一瞬一瞬が神の創造、過去の出来事によって現在はしばられないし、未来は神の領域となる、未来のことを語るときには「イン・シャー・アッラーー(神の意志あらば)」という語句が付け加えられる、イスラム教徒は未来のことをいう西欧人を奇異に思うらしい、神の言葉は普遍だが人間は変るものという認識、「一貫している、まったくかわらない」ということに価値を置かない文化、未来のことは神の領域、約束を守ることが出来ないのは神がそれを望まなかったからという」、歴史は武器である、文明と文明が衝突するとき歴史は自分の立場を正当化する武器としての威力を発揮する。

 歴史のない文明のアメリカは現在と過去にしか関心がない、アメリカの本屋で歴史というコーナーはヨーロッパの歴史書と古典古代の書物しかない、アジアやイスラムの書物は地域研究であり、アレクサンダー大王の征服の範囲が歴史の舞台という感覚だろうか、アメリカ史はアメリカ研究のコーナーだ、アメリカ人には移民によってなるとういう感覚だろう、過去の遺跡に日常接することの出来ないとところでは歴史は実感できない、アメリカで歴史というのは「誰でも知っているはなし」くらいの意味でしかない、アメリカ人はさまざまな交渉のとき歴史的経過という感覚が分からないらしい、現在を見るとき過去にさかのぼって考えるという感覚がアメリカ人にはないという。

 中国で歴史文化を作り出したのは司馬遷(BC2世紀末から1世紀はじめ)正史のはじめ、ヘロドトスは前5世紀の人、司馬遷の作った歴史の本質は正統の観念、歴史には物語りがないと叙述できない、神話の黄帝と現実の武帝をつなぐのは正統の観念、革命は革は取り去るという意味で天命を引っ込めること、中国の歴史観には発展はない、正統の観念では漢→魏→晋となる、中国史で理想の世は武帝の時代ということ、中国の正史の特徴は①分量が多いが内容が貧弱知りたいことは書いてない②皇帝の都合の悪いことは書いてない③皇帝制度の内側から見た中国史ということ、外の勢力は朝貢する存在としか書かれない、元もモンゴル人が中国で正統の観念で建国した。

 ヘロドトスはペルシア戦争を調査して叙述したもの、調査研究の原語がヒストリアイ、ヒリトリーというのは知っているという意味、歴史という意味はヘロドトスが与えたもの、史は中と又の組み合わせで中は帳簿のこと又は右手の形であるから右手で帳簿を持つ人の意つまり帳簿係、司馬遷は太史令(宮廷占星術師長)で著書は太史公書で、史である司馬遷が記したことで史記となり、歴史という意味が与えられたのだ。

 ヘロドトスは①世界は変化するもので変化を語るのが歴史②世界の変化は政治勢力の対立抗争によって起こる③ヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力とした、ヘロドトスの歴史はペルシア帝国史で最後にギリシアポリスが勝利して終了するという形式、地中海文明史の書き方の原点で二つの勢力が対立して最後の一方が勝利して対立が解消し歴史が完結するのが歴史という形式だ、ツキジデスはこの歴史観でペロポネソス戦争を記述した、アテネの民主制とスパルタの独裁体制が対立闘争を描くが完結する前に殻は死んだ。

 日本の場合は中国文明に対抗するために歴史を持とうとしたこれが日本書紀である、古事記偽書説、日本は王朝の中国のように王朝は交代しないで万世一系の建前をとった、それが正統とういことで関心は正統、主流ということ、明治に入りランケの歴史学が入った、西洋の歴史観には正統の観念はない、変化の観念、中国史の歴史用語を無理やり西洋史に当てはめた、日本人は天命史観で天命の順を次のように考えた。

 メソポタミヤ→古典古代→カール大帝(ローマの正統を継ぐ)→フランクの分裂で英独仏の原型が出来たとなる、歴は物語で科学ではない、歴史は一回しか起きないし、実験できない、一般の人は古代の歴史の真実を求めてはいない、求めているのはピクチャーであり図柄である、考古学は歴史学の代用品にはならない、字がないと歴史にはならない、考古学はモノでしかない、歴史時代のイメージでものを見ることになってしまう。

 世界は一定方向に進んではいない、現代史は細部が問題になるが現代以前は細部に入り込まないようにして全体に流れをつけて理解しやすくする、現代史は国民国家の時代の歴史で国民国家は18世紀末まで存在しなかった、歴史に善悪はない、異なる文明との対立ではどちらが善かはわからない、道徳的価値判断や功利的価値判断(どちらが役にたつのかということ)はさけるべきだ。

 「朝貢」の本来の意味は「中国国外国内を問わず、首都の地域の外の実力者が皇帝に贈り物をしてそれによって皇帝への支持を表明する行為を朝貢とよぶ、朝は朝礼のこと貢はみつぎもののこと、友好関係の表現、朝貢は貿易ではない、国家・国民という枠組みをつかって18世紀以前の歴史を叙述してはいけない、また歴史の集団も観念的なものだ、集団というのは同じ集団と思っている人の集まりというくらいの意味でしかない。

 史料は嘘とつくというのが前提だ、史料には個人の好み、立場、文化などが入るものだ、また細部まで書かないし、当たり前と思っていることは書かないものだ、書く動機もある、記録するという価値があるというものが史料だ、よい歴史とは史料のあらゆる情報を一貫した論理で解釈できる説明のことでこういう説明を歴史的真実という、誰の立場で論理を一貫させるかという問題がある、神の立場か、普遍的な個人の立場か、よい歴史は都合の悪いことも書くので人々から喜ばれることは少ない。
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# by qzr02421 | 2008-03-03 21:44 |