本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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難しい哲学書を読むのは好きでないのだが、授業で話さなくてはいけないので読むのだ。朱子学について語る必要があるので、朱子学と陽明学の本を何冊が読んだ。朱子学は難しい。理気二元論、世の中は気で出てているという。気の集散で物体などができるというのだ。これはアトムのことか。アリストテレスの質料かなのか。昔は朱子学の理と気を質料と形相になぞらえたが、最近はそのようなことはしないようだ。

気の背後には理が控えているのだ、気の秩序を与えているのは理なのだという。分かったようで分からない話だ。哲学とか宗教というものは信じることが大切なような気がする。理や気は見ることができないのだ。朱子学で気は見ることができるという。気が行動の表れるからだそうだ。基本的に儒学は性善説を取っているので、仁義礼智は人間の本性らしい。気と理がシンクロしていれば、人間は本当の生き方、朱子学風にいえば本性の生き方ができるのだ。シンクロといえばエバンゲリオンのようだ。性即理となるのだ。

シンクロというのはキーワードになるような気がする。人と人もシンクロすることが大切だ。人とモノとはシンクロすることも大切なことだろう。出会いとか相性とか赤い糸というものもシンクロの結果のような気がする。シンクロという言葉を大切にしたいものだ。朱子学では人間は知ることができれば変わることができるという。シンクロということが納得できれば人生が変わるのだ。朱子学の場合はまず学習が大切なのだ。

陽明学の場合は知ることが行動が一致することが大切だととく。学習して時間をかけて納得して行動をおこすのは遅いらしい。教員は学習が好きだ。課題があるとまず学習という意見がでる。まるで行動することを嫌がっているようにも見える。陽明学は学習して行動しろというのだ。学習イコール行動、これを知行合一という。江戸時代後半の大塩平八郎がどの代表だ。原発は危険だと知れば、原発即時廃止というようなものだろうか。知行合一というのは正しいように感じるが、世の中そんなに簡単に変わるものなのだろう。変わるためには時間がかかるような気がするのだが・・・
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by qzr02421 | 2013-02-09 18:16 | 日常
立川談志の『人生、成り行きー談志一代記』を読んだ。立川さんの生き様が分かる本だった。高校を中退して落語家になろうとし、小さんに入門したが、入門したとたん後悔をしたという。落語家になって「しまった」と思ったというのだ。その理由は落語家の世界が理不尽な世界だったからだという。つまり世間の常識が通じないのだ。落語家の世界は裏ばっかりの世界で面食らったからという。

世間は「正しく生きなさい」とか「人には親切に」という価値観があるのだが。それが落語家の世界は逆転しているという。「八時の来なさい」といって八時に行くと「なぜ七時半にこないのか」と怒られるのだ。何か言おうとすると「言い訳をする前にまず謝れ」といわれ、謝ると「謝るならなぜそんなことをしなのだ」と怒られるのだ。

談志の妻は変わった人だという。彼も変わったいるのだから変わった夫婦ということでもある。彼の妻の言ったことがメモされている。「談志の十八番の野ざらしをあざらしが出てくる話だった思っていた」「競馬の八百長事件を知って馬がどうして八百長できるのと聞いたという、談志は旗手がやると答えたという」「私はペットなの、でもいいペットでしょ、トイレも自分で行けるし、ラーメンも自分で作れるし」ということだ。

この本の最後は談志と志の輔の対談で終わっている。志の輔は「師匠を見ていると凄いなと思うことは高座で言っていることとプライベートの時に仰ることや行動に違いがない、つまりブレないことで、それが素敵だし凄いことだと」思うと言っている。高座と私生活の一致、人生と落語の一致をしている。「一致できない芸人はニセモノだ」というのだ。談志は「落語の登場人物のように生きている」ということなのだ。それはすさまじいことだとは思った。談志は「おれが偉いのは正直なところ」だといっているのだが、それが彼の人生というなのだろう。55年体制について談志は「多勢にあぐらに自民党、何でも反対社会党、力の足りない民社党、みんなロボット公明党、日本にゃ向かない共産党」と言ったそうだ。そうすると石原慎太郎が、「あるかないのか社民連」を付け加えろといったということだ。よくできた話だと思った。
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by qzr02421 | 2013-02-08 21:36 |
町文化を教えようと、高校の日本史の授業でですが、茶道や能が始まったのはこの時代だという話をした。茶道を「さどう」と言おうとしたのだが、ふと教科書のその部分、つまり茶道のところだが、茶道にふり仮名がふってあった。そのふり仮名には「ちゃどう」とあった。以前の教科書に、あまり教科書をみないから覚えていないので、最近の変化なのか、昔からなのか分からない。

NHKの茶道関係の番組ではこれを何と発音するのか聞き耳をたてたら、なんと「茶の湯」と言っていた。「ちゃどう」と言っていた番組もあった。どういう訳なのか疑問になり、調べたら「裏千家はチャドウ、武者小路千家ではチャドウ、さらに表千家はさどう」と読むらしいことが分かった。なおNHKは公平公正がキャッチフレーズなので、どの流派のも属さないお茶の作法という意味で「茶の湯」と読むのだそうだ。

お茶には作法があり、その作法を知らないと無作法になるとのことだ。しかし作法も流派によって違っているのだから、何が正解ということはないはずだ。だから自分で流派を新たしく作れば、その飲み方でもよいということにもなる。普通抹茶の入った茶碗は主人が正面を決めて、茶碗に最初から正面などはないのだから、客はその正面で飲むことを避けるために、ぐるぐると茶碗をまわすこととなる。風流だといえば風流だ。阿吽の呼吸と行ってよいだろう。客を思い正面で茶碗を出し、客は正面を避け飲むという思いやりの文化なのだろう。

能の奥義を示す『風姿花伝』、奥義書だから当時の人は限られた人しか読むことがなかった本だろう、今では誰でも読むことができる。これには「秘すれば花」という言葉がある。要するに大したことでないことも秘密にすることに芸術性が高まるというような意味だろう。茶碗をまわすなどということは大したことでないのだが、別に正面で飲んでもよのだろうが、このような作法を流派の秘密として、価値を高めるということが文化というもののようだ。そのような文化を気にしないという文化があってもよいとおもう。
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by qzr02421 | 2013-02-06 08:32 | 日常