本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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道徳を学校を教えたほうがよいという話がある。道徳を教えることができるのだろうか。道徳というのは人の生き方の問題だ。過去に生きた人の例を示すことはできるが、過去の人は過去の時代で生きたので、現代でそのように生きることができるかどうかはわからない。人に親切にした人を示して、人に親切にしたほうがよいといっても、言われた人が、親切な人になるのだろうか。

定時制で教えているのだが、定時制高校には遅刻や欠席をする生徒が多い。遅刻や欠席が悪いという意識がないようだ。もちろん、遅刻や欠席をしないようにと指導はするのだが効果はないようだ。自分の欲望を優先して、自分の快楽を追及する生徒が存在する。一方では遅刻も欠席もしない生徒も存在する。この差はどうしてできるのかが、実はよく分からないのだ。

遅刻や欠席が多い生徒でも、成績がよく、決められた出席をすれば定時制高校を卒業をすることはできる。しかし、就職は進学ができるかどうかといえば、それは無理なようだ。企業では遅刻や欠席をする人を採用しようとはしないのだ。もっと人間性を見て欲しいといっても、その場にいないひとは対象外となるのだ。結局遅刻や欠席が多い生徒はフリーターのようなものにならざるをえないのが現実なのだ。

道徳を教えることはできないような気がする。もちろん、過去で道徳的に生きた人を教えることができるのだが、それは知識でしかないのだ。正直に生きた人がいました、それで終わりなのだ。正直に生きて得をしなかったいう現実を生徒は知ることになるかもしれない。正直に生きることと幸福になるということは次元が違う問題だ。不幸になることがあってとしても、正直にいきることが大切なのだが、それを教えることが難しいことなのだ。基本的人権とどのような関係になるのが問われることとなる。日本国憲法で人は幸福を追求することができるとあるのだが、幸福と正直とどっちを取ればよいのだろうかということを考えることが道徳だと思う。
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by qzr02421 | 2013-02-21 20:59 | 日常
蜷川幸雄演出の「祈りと怪物」を大阪で見た。6時半に始まり終演は10時50分という大作だが、その時間を感じさせない面白さだ。楽しい話ではない。この芝居を見たハッピーになることはできない。ハッピーな気持ちなどとは異質な芝居だ。それでも長時間見ることができるのは、原作と演出が素晴らしいのだろと思う。

舞台は単純なものだった。大きな平台があるだけだ。これでどうなるのかと思ったのだが、コロス、ギリシア劇で登場する歌を歌い、この場面を説明する人たちが登場する。このコロスのラップによる芝居の説明が印象的だった。耳に残るラップだった。それ以外のセットとしたは、島舞台、墓石、教会などだった。墓石が動くのが印象的だった。客席側両袖にモニタがあり背景説明や台本のト書きや曲名を表示するのだが、二階の客席からはじっくり読むことができなかった。もっと大きなモニターだったらよかったと思った。

ストーリーは単純なものなのなのだが、見ていると実の複雑に感じるのが不思議だった。暴君ドン・ガラスと3姉妹の恐怖政治が行なわれるウイルビルという町の話だ。その恐怖政治に捲き込まれる人々と町の顛末で、人が死んでいくという話だ、死ぬ人がいれば生き残り人もいる。どうしてこの人が死んでしまった、この奴は生き残るのかという疑問を感じる。正義が勝つわけではないということがわかる。理不尽な暴君が最後まで生き残るということが、現代社会を皮肉っているような気がした。

話は単純なのだが、考えさせる作品だ。役者がどのような考えて演技しているのがが分かるような気がした。矛盾だらけの話の中で、役者と演出家が考えて、そして稽古したのだということが分かるものだった。単純な話なのだが、それでいた奥が深い話なので、それなりの深さを感じることができた。席が二階の後ろのほうだったので、大きく劇は見ることはできたのだ。それでもできれば最前列で水かかかる恐怖を味わいながら見たいものだと思った。
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by qzr02421 | 2013-02-20 19:50 | 劇,映画その他

落語は楽しい

大阪は食い倒れといわれる。京都は着倒れ、神戸は履き倒れといわれる。名古屋はなんだろう、八兆味噌、味噌煮込みなどだから名古屋は味噌倒れだろうか。落語は大阪と東京にある。名古屋にも大洲演芸場があり、落語家はいるようだが、本場ではないのだろうか。東京は寄席がいくつかあるのだが、大阪には常設に寄席が長いことなかった。数年前から天満天神に寄席ができたようだ。

難波には大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」という施設がある。橋下さんが以前に廃止をしようとした施設だ。博物館のような文化的施設の運営は難しいものがある。それほど人が来るわけではないのだが、それでも文化の維持ののためには必要な施設ではあるのだ。来る人が少ないから文化的施設を廃止するといのは、合理的に見えるが、長い目で見れば、文化を破壊する行為としか思えない。無駄なものが文化なのだから、無駄を無駄として楽しむことが大切なことだと思う。

この「ワッハ上方」は難波花月の前にある、ジュンク堂書店がある建物だ。この建物の4階にある。久しぶりに行ってみた。私以外はほとんど人がいない、これでは廃止といわれても仕方がないという感じがする。しかし展示は工夫がありとてもすばらしいと思う。このような文化的施設は、人が訪れないから廃止してよいというものではない、文化というのは人が訪れないかもしれないが、それでも、そういう施設が必要となるようなものなのだ。合理的では文化を語ることはできない。

この「ワッハ上方」の入場料は400円(学生は250円)、映像や音声を楽しめば3時間はあっという間過ぎる施設だ。4階のフロアのみだが。エンタツ・アチャコなどの漫才1分楽しみことができる「ミルクホールスタア」、横山やすき・西川きよしなどの漫才を楽しみことができる「居酒屋こいさん」などがある。じっくり楽しむのなら「演芸ライブラリー」がある。楽しみ気があるのなら、400円で1日楽しみことができるところだと思う。楽しもうという気持ちが大切なのだ。
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by qzr02421 | 2013-02-19 19:17 | 旅行

旅は楽しいものだ

は楽しいものだ、知らない土地に行くのはワクワクするものがある。かつて行ったことがある場所も、もう一度行ってみればまた新しい発見があるものだ。また新しい観光地ができている場合もある。あるいはニューリアルしていここともある。大阪や京都などは何回も行っているので、だいたい分かっているような気がしてしまうが、もう一度行ってみるとまた新しい発見があるものだ。

旅行が趣味だから、日本中旅しているような気がするのだが、もちろん行ったことがない場所あるに決まっている。あるいは一回しか行ったことがないところもある。何回も行ったところもある。その都市には行ったのだが、その都市のその場所には行かなかったということもある。鹿児島に行ったことはあるのだが、鹿児島市に宿泊したことはない。鹿児島に行っても、泊まるのは指宿あたりになってしまう。温泉は魅力があるものだ。

温泉がよいのか都市のビジネスホテルがよいのか、それは旅の目的によるだろう。温泉に泊まりながら、博物館などを見るのがベストだと思う。東北地方はその意味では最高の場所だ。ただし移動が大変だ。観光地や博物館・美術館の場所が離れていることが多い。歩いていくことができる場所のあるのならよいのだが、歩くことができる距離は限界があるのだ。

旅に出て電車の乗るのは容易なことなのだが、バスに乗るのは容易ではない。バスで移動ができることができたら旅の達人ということになる。旅行に行ったとき、電車に乗ることは多いが、バスに乗ることが極めて少ないこととなる。自分が住んでいる地域でもバス移動は難しいのだ。いわんや知らない土地おやということだ。バスを利用した旅ができる達人になりたいものだ。
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by qzr02421 | 2013-02-18 22:07 | 旅行
グアムで信じられないような惨劇があった。秋葉原であった事件と似ているようだ。殺したという欲求にかられた人物の犯罪のようだ。どうして殺そうとしたのか不明なようだが、ときにそのような人間が出現するのだろう。昔エジプトでも殺人事件があったが、オリエント世界の犯罪はテロとか宗教のにおいがするので、事件が悲惨だが、なぜそのような事件が起きたのかは理解ができる。

日本でもたまにそのような殺人事件があるのだから、地球上のどこでも起こりうる事件のな気がする。死ぬか生きるかはちょっとした時間の問題のようだ。交通事故でも、その事故の1分前にその現場を通過してれば、事故にはあわないのだ。中央道のトンネル事故の悲惨だが、あれも天井が落ちてきたとこたまたまそこを通っていたに過ぎないのだ。誰でも死ぬ可能性があるということだ。中央道の中津川から飯田までのトンネルも天井があるので、あれがおちてくる可能性もあるということだ。

卒業旅行など3月は海外旅行の季節だ。海外はどこが安全だろうかと考えたと、どこも安全ではないような気がする。学生がどこが安全ですかとたずねたので、もちろんグアムだといったら、先生冗談ですかといわれた。これは冗談ではないのだ。今回このような時間がおきたのだから、グアムでまた起きると思うようだが、グアム観光のことを考えたら、今後しばらくは厳しいパトロールが行なわれるの違いないのだ。そういう意味で今一番安全なのはグアムなのだ。

人は事件が起こるとその場所が危険と思いがちだが、そのようなことはないのだ。無論現代社会なのでこの犯罪を模倣する人が出現することは考えることができるし、心配する必要があるのだが、その犯罪が起きるのはグアムではない。違う地域に決まっているのだ。同じ地域で同じことが起こると思い勝ちなのが人間の思考パターンのようだ。
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by qzr02421 | 2013-02-16 21:12 | 日常
ヨーロッパの人はお風呂の入らないのでオーデコロンが必要という説がある。ヨーロッパの人がお風呂の入らなくなったのはペストの流行以降ということだから14世紀以後のことだろう。ペストの流行によってヨーロッパの人口の三分の一が減少したといわれている。それまではお風呂の入っていたのだ。古代ローマではお風呂が大切な社交場だったのだ。それはテルマロマイで明からだ。

しかし何のためにお風呂の入ったのだろうか。現代人は衛生、清潔ということのためにお風呂の入るのだ。しかし衛生という概念は病気は細菌で発祥するということが分かった19世紀末以降の減少だ。古代から中世前半の人は衛生・清潔のためのお風呂に入ったわけではないのだ。古代から中世半の清潔という概念は外から見ることができるところを見苦しくないようのするというのが基本だったそうだ。だから顔を手をきれいにするのが清潔だったのだ。

ペストと梅毒の流行によってお風呂の入ることがなくなったという。お風呂の入ると皮膚の穴が開いて、そこから悪いものが入っていくると信じたのだ。細菌とかウイルスという概念は存在しなのだが、それらしいものを想定していたのだろうか。何は皮膚から入って病気になると考えていたのだ。昔の人の直感というものは鋭いものがある。それでもその鋭さがその時代の人すべてに及ばないのが問題なのだろう。

古代から中世前半の人がお風呂に入った理由は男女の関係にあったらしい。シャワートイレにはビデというスイッチがあるのだが、それがその時代の風習のなごりということだ。あそこだけ清潔にすればよいという考えのようだ。幕末にヨーロッパに行ったサムライが、このビデというものに関心を持ったようだ。何に使用するのか分からなかったようだが、やがて隣の音を盗み聞きした結果分かったという。あそこをきれいにしてそれで・・・というわけなのだ。このような話は奥が深いものなのだ。
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by qzr02421 | 2013-02-14 20:03 | 歴史

小森さんの話の後半だ

細川さんはよい人というイメージがあるが、最悪の政治をした人ということを認識することが大切、この内閣の時に「自己責任」という言葉が出現し、これが若者の思考停止をもたらしていると指摘した。若者が何かをした失敗すると、それは自己責任と言われてします。それでは創造性のある活動ができるわけがないのだ。その原因の一端は細川内閣のなるのだという

その後第一次安倍政権の本質を語り、この内閣は従軍慰安婦を否定し、さらには戦前の政治家とつながっている人物なので、戦前の政治に対して郷愁があるのだという。日本国憲法はアメリカから押し付けらものという考えをもって、憲法改悪を企てようとした。そのため憲法を守ろうと保守や革新を乗り越えてできたのが「九条の会」なのだ。

そして、この内閣を倒した「九条の会」の運動を語り、さらに第二次安倍内閣の本質を語り、私たちは「9条と日本国憲法と人の命を守る運動をしなければならない」と結んだ。集会休憩後再開したあとに、どのように運動を進めたらよいのかという質問に対して「正しいことを訴えるのを草の根の運動だと思っている人が多いが、折伏するために運動をしているわけではない。不満を持っている人は正しいことを訴えても聞こうとはしない。不満を聞くことから運動を始めることが大切、若者が集える場所を作ることが求められている。訴えるのではなく、話を聞く場所と機会を作るのが運動だ」と答えた。その通りで運動は正しいことを主張するのではダメなのだ。正しいことを人が受け入れてくれることは少ないということが真実だと思った。

集会決議の採決、そして閉会挨拶では新婦人の人が「9条、憲法、命を守る運動を、つまみとビールまたはお菓子とお茶で進めましょう」と語り、熱気たっぷりの集会は終わった。参加者は年配の人が多かった。若い人が少ないのが心配だ。年配の人はやがて死んでいくのだが、これからの日本で生きていくのは若者なのだ。若い人が歴史を学んで、だまされずに、幸せな人生をおくってほしいものだ。
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by qzr02421 | 2013-02-13 21:58 | 日常

小森さんの話を聴いた

建国記念の日の不承認集会で小森陽一さんの講演を聴いた。講演のテーマは「この『くに』はどこに行こうとしているのか、そしてわたしたちの希望は」というものだった。この国はどこにいくのだろうかではなく、自分たちで決めるのが主権者たる国民の義務のような気がした。どこの行こうとしているのかというテーマ設定が間違っていると思う。政治はひとごとではないということを理解することが大切だと思うのだ。

小森さんは、私のことを知っている人が集まる集会というのはいいのだろうか。私のことを知らない集会で話してこそ運動が広がると思うし、今の日本の状況にぴったりの講師だと言ったが、最悪な状況で私が必要ということは、それでよいのかという思いがあると言った。なるほどという思いがした。小森さんの話の話の前に主催者の挨拶があったのだが、隣にいたおばさんが小森さんの話を聞きにきたのだから、早く挨拶は終われとブツブツ言っていた、そのような態度では日本はよくならないなと思った。誰の話でも聞こうと思う態度が大切なのだ。

小森さんは、民主党から自民党へ政権が移ったことについて、決して自民党が圧勝したのではない、得票数を見ればそれが分かる。さらに民主党が議席を減らしたのは、マニュフェストにない「消費税増税」を「自公」でやろうとした。民主党は日本国憲法前文にある「正当に選挙された」代表ではなくなり、国民を裏切った。主権者の声を代表していない。小選挙区制で民意は無視された。さらに反原発の声はかき消され、経済成長路線をマスコミが報道している。マスコミは正しいことを報道をしていない。

「思考の民意」と「感情の民意」がある。「感情の民意」で「維新の会」が議席を伸ばしたのだ。「思考の民意」がなければならない。このあと「小選挙区制を導入したのは何と言う内閣ですか」と質問したが、答えがバラバラだった。小森さんは「私たちは過去を忘れてしまう。これはよくないことだ、過去をしっかり思い出し、どんなひどいことをされたのかという怒りを持つことが大切」と述べ、小選挙区制を導入した細川内閣前後の政治を丁寧に語った。
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by qzr02421 | 2013-02-12 20:31 | 日常

未来に向かって歩こう

2・11「建国記念の日」不承認の集会というのがある。日本の建国を祝うのはよいことだろうが、日本の建国の日とはいつなのだろか。日本ができたのはいつかということだ。近代日本ができたのは明治維新だとすれば、王政復古の大号令だろうから1月3日ということだろう。明治維新はいつからいつまでかはいろいろ意見がある。以前は天保の改革以後で、江戸幕府が衰退し始めたこと始まりをとしていた。最近は江戸幕府は衰退はしていないので、ペリー来航以後ということになっている。

明治政府の官僚の多くは江戸幕府の役人だったらしいので、江戸幕府は崩壊したのではなく、薩長だけでは政治をすることはできないので、薩長ととともに明治政府を運営したということになっている。明治維新の終わりは西南戦争の終了ということになっているようだ。歴史はある日を境に変化するわけではない。ある程度の年数が必要となるのだ。この日から新しい時代と思いたいのだろうが、そんなに簡単に時代は変わらないのだ。

資本主義が生まれ変化しているのだろうが、いつ生まれいつ変化し、いつ崩壊するのかは誰もわからない。資本主義は成長を基本にしているのだが、いつまでも成長ができるとは思われない。成長が止まるとこがあるはずだ。人は今が永遠に続くように思うようだが、今は永遠に続くことはない、成長を続けていた資本主義が成長をやめるときがくるのだ。人はそれを信じようとはしないのだ。知らないうちに変化して、知らないうちの時代は変わっていくのだ。それは高校で習う歴史で明白だ。鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政も崩壊し、室町幕府は応仁の乱後戦国時代となるのだ。織田信長は暗殺され、朝鮮出兵は失敗し、石田三成は敗北するのだ。

建国記念の日を祝うことのどれほどの意味があるのだろうか。意味はないと思う。過去を知ることは大切だが、過去を賛美しても意味はない。未来に向かった歩くことが大切なことなのだ。建国記念に日を祝おうという精神はどこから生まれるのだろうか。なぜ過去を祝う必要があるのか。過去のすがりつきたい勢力の陰謀ではないのか。ともかく未来を信じ未来の向かった生きることが大切だとすれば、過去の日本がいつできてもそれを祝う必要はないような気がする。
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by qzr02421 | 2013-02-11 21:37 | 日常
ヨーロッパの中世とは、日本の中世を同じだろうが、多様がということが特徴だ。近代は中央集権的なのだ、理解がしやすい。しかす多様というのはバラバラということだから、理解は容易ではない。ヨーロッパ中世といっても4世紀、つまりゲルマン人の大移動からルネッサンス、つまり14世紀から16世紀までだから1000年以上の時代のことだ。1000年を同じような性格を持った時代だということはできない。

中世はゲルマン人の移動で混乱した時代、フランク王国の時代、フランクの分裂の時代、十字軍の時代。十字軍以後の王権が延びる時代、近代の始まりの時代と6つの時代の分けることができるのだが、この歴史観だが絶対王政の時代はどのような時代がよく分からなくない。中世は多様ということだから、一筋縄ではいかないこということでもある。

フランス革命において倒すべき対象はアンシャンレジームということになっているが。アンシャンレジームと中世はどのような関係にあるのだろうか。アンシャンレジームとは専制的な政治をしている人を意味していると思われる。中世は多様性という定義なのだから、いつからアンシャンレジームはできたのかという疑問が生じる。歴史というのは分かってるようで、実は何も分かったいない例でもある。

高校の世界史で習うことは、疑問を持てば、違う世界を見ることができるのだ。疑うことが大切なのだ。孔子は質問しないと答えてくれないのだ。歴史もそのようなものだと思えばそのような歴史が現れてくるのすぎないのだ。疑問を持った過去の対峙しなけらば、過去は姿を現してはくれないのだ。これは簡単そうで難しいことだ。疑問を持つということはとても難しいことなのだ。
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by qzr02421 | 2013-02-10 20:23 | 歴史