本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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長野では氷点下10度になったという。昨夜は水道管が破裂した夢を見たので、長野にある家は大丈夫だろうかと心配した。心配が実際になった。長野に家の隣にある人から、水道管が破裂したようなので元栓を締めたという電話があった。予想が当たったのだ。くじはあたらないのだが不幸があたるのだ。妻のそのことを言ったら、交通事故で死ななかったのだから、その程度で済んだことに感謝しましょうといわれた。太っ腹な妻に感謝しなくては・・・

早速水道を治そうと水道屋さんに電話したら、すぐに修理にいってくれた、ありがたいことだ。隣の人は破裂して水浸しになった部屋を雑巾などで拭いてくれた。これもありがたいことだ。自分自身もそのようにしなくてはという思う。明日は長野に行こうと思い、車の様子を見に行った。見に行かなくてもよのだが、これもいやな予感があったのだが、なんとパンクしていた。

これもすぐに修理のために電話をしたのだが、今のスタッドレスは古いのでこれを機会に買い換えようと思って、相談したら、4本で10万円を超すとのことだ。水道は破裂して水道代を払い、配管と蛇口を修理をして、さらには水浸しの床の修理、長野への往復など年末の多大の出費となった。妻に言わせれば、その程度で済んだのでよいのだという。

人間万事塞翁が馬という、今日の不幸が明日の幸になるのかもしらないし、そのように思わないと生きていけないということかもしれない。その程度で済んだのだと思う妻に感謝しなくていけないと思うのだ。その程度、実にすばらしい言い方だと思った。それにしても年末どうしてこのような目にあうのか、僧思ってはいけないということが分かっていても、やはり思ってしまう。これが人間の業ということなのだろう。
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by qzr02421 | 2012-12-29 19:04 | 日常
カレンダーもあと一枚となり、さらには今年もあとわずかとなった。この一枚が終われば、来年となるのだが、日常は続くし、年度はあと3月あるのだ。それにしても年末というのはいくつになっても年の瀬ということで、それなりの思いがある。紅白歌合戦を見るわけではないのだが、大晦日という言葉に対してはある種の感慨を持ってしまうのだ。今年も終わりですねと言われれば、そうなんだ今年も終わってしまうのだと思ってしまう。

時間や暦が実際に存在しているわけではない。時間経過というのは人間が考えた幻想のようなものだろう。人間はいろいろなものに頼らないと生きていきない存在なのだ。時間などというものは存在していない。時間は人類の滅亡とともに消滅する運命のものなのだ。暦というものも支配者が住民に与えたものだ。明治時代の太陽暦とした民衆に与えたのだが、民衆は月との生活を優先した時代が続いていたようだ。それが大安とか先勝とか言うものがその名残となっている。

人間の生活にとって一番大切なものは人間関係に決まっているのだ。人間関係の基本は人を知るということだ。人を知るためには他人の考えを知ることだ。他人の考えを知るためには、他人の会話をしっかり聞くことが必要となる。ということで、電車がなどでは他人の会話を聞くことにしている、人はこれを盗み聞きというのだが、盗んでいるのではなく、聞こえてくる会話をただ聞いているだけのことなのだ。

聞こえてくる会話はそれなりの面白いものがある。話している人たちは、聞かせようとしているわけではないのだろうが、聞かれてもかまわないという意識はあるようだ。最近多い会話形式は、会話になっていないというもんだ。それぞれが自分の意見を言っているだけというものだ。聞いているとこれは会話ではないと思うのだが、それをその人たちの言うわけにもいかないので、結構ストレスがたまったりするのだ。これが現代の特徴かもしれないと思う。
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by qzr02421 | 2012-12-27 11:49 | 日常
冬型の気圧配置で寒く、風も冷たく強い、歩いていても風で飛ばされそうだ。というのが大げさでないほど風が強く吹いている。風が強いと体感温度も下がるのでよけいに寒く感じる。年末から年始は今年一番の寒気が南下するそうだ。どのような寒さになるのか。ロシアは氷点下25度まで下がり、シベリアでは氷点下50度だそうだが、シベリアの氷点下50度の一部が日本にくるということか。

一方では地中海では24度の気温だそうだ。これを異常気象とよんでいるのだが、短い人類の歴史で、人間が体験していることなどは、たいしたことがないのだろうが、大げさな言い方だ。人類が文明化してから気温が上がったり下がったりしている。下がったときには北方の人々が南下して混乱を招いた。ゲルマン民族移動や匈奴の南下も気温の低下が原因とされている。現在は国境があるので簡単に南下してこないが、南下したい気持ちはあるのだろうと思う。

気温が上がったときには農業生産が増大して、それとともに人口が増加する。人口が増加すると、その地域ではその人口を養うことができないので、増加した分は、また移動をすることとなる。気温が上昇しても下降しても、結局人間は移動するものだ。11世紀から12世紀にかけた気温が上昇して人口が増加してので人々の移動が激化したと考えられる。それが十字軍であり、日本の関東を中心とする鎌倉幕府の発展なのだろう。

14世紀になると寒冷化してくる、増加して人口が邪魔になって、人口を減らすために戦争が起こるようだ。これがヨーロッパでは百年戦争、日本では南北朝の動乱となっている。16世紀に入ると気候も安定化してくる、ヨーロッパでは絶対主義国家が、日本では江戸幕府が成立する。17世紀後半また寒くなるとまた戦争や一揆がおこることとなる。結局人間も動物なので、気温の影響されて安定したり不安定のなったりするようだ。
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by qzr02421 | 2012-12-26 16:21 | 歴史

長野は雪だった

20日から長野へ行っていた。20日の夜の長野は寒いなという感じだったが、21日の朝はマイナス5度くらいだろか、布団の中にいても寒さを感じた。25日に最低気温がマイナス9度らしいので、それよりは暖かかったのだ。長野から名古屋に帰ってきたら、名古屋がとても暖かく感じた。以前北海道のニセコに行ったとき、ニセコスキー場の上のほうはマイナス10度という表示があった。12月からこれほど寒いというのは、久しぶりのことだろうか。

21日は終日曇りで今にも雪が降りそうな一日だった。雪が降らないのでよかったと思いながら、温泉に入りのんびり過ごしした。お酒も飲み、本当にのんびりした12月の暮れを過ごすことできた。夜中にトイレのおきて、トイレの窓から外を見たら、雪だった、3センチほど積もっていた。朝起きて外を見れば見渡す限り雪景色となっていた。10センチ以上積もっている感じだった。土曜日なので通勤の車もなく、静かな午前中だった。

昼前には除雪車が通り、道の雪はなくなったが、駐車場は雪、車も雪に覆われている。駐車場の除雪をしていたら、腕は痛いし汗びっしょりとなった。たった10センチほどの雪で、しかも雪の少ない南信なのにと思った。雪の多い地方の除雪は大変だということが少し分かった。雪はやんで雨になった。そこいらを散歩して、また温泉につかり、雪景色を眺めた。眺めるだけに雪なら、それはそれで風流なものだ。

「香爐峰の雪はどのように見るのか」と問われたのは清少納言だった。清少納言は白居易の『白氏文集』にならって「簾をかかげてみる」ということで、御簾をあげたというのだが、何だが教養を鼻にかけたいやな話だ。それを『枕草子』に書いているというところももっといやな話だ。紫式部の清少納言のことをいやなやつと書いているので、やっぱり教養をひけらかすいやなやつだったのだろう。
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by qzr02421 | 2012-12-25 13:53 | 旅行
朝鮮人参の話の続きなのだが、朝鮮人参の栽培は日本でおこなわれ、それが朝鮮の輸出されたらしい。もちろん苗か種は朝鮮からきたものだが、それを江戸幕府が栽培して独占したとのことだ。各藩もそれが欲しいのでスパイつまり隠密か忍びを使わした種か苗を盗みこっそりと各藩も栽培し、それを朝鮮に輸出して儲けたということなのだ。秘密にされたことなので日本史の教科書には出てこないことになったのだ。

各藩が盗んだのか、あるいは松平一族には分け与えたのか、詳しいことは分からないが、「八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植の後各地の大名に「御種」を分け与えて栽培を奨励した」という記録もあるらしい。だから松平不昧公は松江で朝鮮人参など栽培した財政再建を試みたという記録もある。

朝鮮人参と皮をむいてしまったので白い根があるのだが、本来の朝鮮人参とは皮があり黒っぽいものだという。皮に栄養があるとのことで、栄養のある皮を向いて白っぽくして効能があるように見せかけるという手法を朝鮮の誰かが発明して今日に至ったというのだ。朝鮮人参というネーミングで効能があるように見せかけただけで、朝鮮人参は日本を多く栽培されているそうだ。7割は日本で栽培され朝鮮の輸出され、朝鮮で加工され。つまり栄養のある皮をむかれ、薬らしくなり日本に輸入され、それをありがたく頂戴したのが江戸時代の人々だったのだ。

世の中、それらしく広まっていることは嘘が混じっているということでもある。朝鮮人参の皮からできたエキスが一番効能があるのだ。薬などの人工的なもので健康を維持しようすると、人間が本来持っている健康を維持しようとする機能が衰えるそうだ。人間は自然に、それほど自然に生きることができないが、それでも自分の力で自分の健康を維持しようとする機能を大切のしながら生きたほうがよいように思えるのだ
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by qzr02421 | 2012-12-20 10:40 | 日常
朝鮮人参は本来はお腹の病気の効果があるそうで、つまり蹴りや便秘に効能があるということだ。腸を調整して下痢を便秘を治すのだ。現在はこの朝鮮人参の成分を分析して、下痢に効く薬と便秘に効く薬と二種類作っているようだが、もちろん腸を調整する薬もあるのだろうから、3種類あるのだろうか。

朝鮮人参の成分分析のとき下痢に効く成分と便秘に効く成分を取り出し、効果が分からない成分は廃棄するそうだ。ところで人間は朝鮮人参の飲んで、どのようにして身体は便秘に効く成分と下痢に効く成分とは選り分けていくのだろうか、それは身体自身が判断しているのだろうか。下痢をしている下痢を止める薬と飲んだほうがよいのかどうかは、分からないものだ。悪いもの排泄するという意味では下痢がそこそこ続くことが必要なことかもしれないではないのか。

現在の薬はある症状の特化してそれを治そうとする。それはそれでよいのだが、もっとぼや~とした薬というものがあってもよいと思う。今はいろいろなことが特化されている。特化していると効率的なのだが、それではその特化したものしか利用することができない。昔の学者はあらゆるものを研究した、いわゆるスーパーマンのような学者が多かった。レオナルドダビンチやアリステレスのようの人物のことだ。

学者が「それは専門ではないから」とよく言っているのだが、これも専門に特化しているからだ。これでは総合的に世の中を見ることができない。歴史研究者は多く存在するのだが、歴史家は多くは存在しないということでもある。漠然といろいろなものの興味を持ち、それに関する本を読み、自分なりの考えを持つということが今こそ必要なときのような気がする。「それは専門ではないから」という言葉を封印したいものだ。
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by qzr02421 | 2012-12-19 16:29 | 日常
科学と哲学は何がちがうのか。科学は測定可能なものが対象となるものだ。速さ、長さ、重さは測定可能なので、それは科学となる。それに対して愛は測定できるだろうか。あなたの愛は何センチとは聞かないものだ、つま愛とか善とか正義は測定ができない。つまりこの測定できないものが哲学なのだ。測定できないものを考える意味はあるのだろうか。きっと意味はないのだろう。しかし考えたいと思った人々が歴史上の多く存在するのだ、それを人は哲学者と呼ぶのだ。

測定可能にするためには、その対象を単純化することが必要となる。条件を減らしていくということだ。また合理的に考えることも必要となる。合理的とは結果があれば必ず原因があるという考えだが、この考えを維持するためには偶然を排除することが必要となる。偶然を嫌うのが近代科学の特徴だ。中世では偶然は神と意志とされた。それはそういう考えが成立するのだ。

哲学とは言葉の問題であり、生き方の問題だ。そこには信じるということが基本となっていう。プラトンの「イデア論」を信じ、デカルトの「われ思う故にわれあり」信じ、カントの「もの自体」を信じることが哲学の始まりだ。これらは知識ではないのだ。これらは世界観を現していること理解することが必要となる。信じるという意味では哲学と宗教は隣り合わせに存在しているといったてもよいのだ。

カントは形而上学、つまり「もの自体」を人は知ることはできないといった。それは形而上学を否定したということでもある。ニーチェはこれを「神が死んだ」という言葉であらわしたのだ。ベルクソンはさらに意識と脳の関係を研究して、意識は脳には存在しないということをあきらかにした。意識はあるのだが、それは存在していないということなのだが、この考えは実に分かりにくい考えだ。仏教の「空」と同じようなものだ。色即是空ということなのだろう。
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by qzr02421 | 2012-12-18 19:09 | 日常

未来は予測可能なのか

未来は予想できるのだろうか。予想するとそれを変えようとするので未来が変わってしまうので、結局未来を予想しても、その予想は間違ったものになるだろう。過去の経済学者の経済予測はことごとくはずれとということだ。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊、サブプライム不況などを予測した人がいなかった。人間は今のままの状態が続く、あるいは続いてほしいと、また続かないだろうというバイアスがかかって判断する。だから現在の数字で判断する未来は決してこないということだ。

コックのアリスは「どんなよい時代でも私たちの寿命は限られている。だから、いつの世であれ、世界の危機をあまりにも深刻に受けとめ、本来楽しむべきことを後回しにするのは自然の摂理に反する。よい仕事をする、恋をする、友とのつきあいを楽しむ・・・それが人生だ」を言っている、その通りなのだ。未来のことを憂いても、意味がないことなのだ、今の人生を楽しむことこそが大切なことなのだ。

人間は偶然というものを嫌う、何か物事が起こると、そこに法則性を見つけたいという習性があるようだ。あるいはパターン化したいということでもある。しかし世の中は偶然の塊なのだ。世の中は偶然のかたまりだということを理解することが大切なことだ。また、人間は不幸な未来予測の方を信じやすい習性もあるようだ。悲観的な未来に引かれるというのも不思議なものだ。未来を予測する人は自信たっぷりに話ハリネズミ型と謙虚で疑い深く未来をいろいろな可能性で予測するキツネ型がいて、人々は自信たっぷりなハリネズミ型に引かれ、それを信じやすいのだ。

テレビを見て、そのコメンテーターや経済学者がハリネズミ型かキツネ型が考えるのも楽しいものだ、自信たっぷりな人の意見は信じない方がよいということだ。あるいは人をだましたければ、身なりのよいカッコウをして自信たっぷりに話せばよいということでもある。わかりやすく自信たっぷりの話をする人はハリネズミで警戒しろということを意味している。私もハリネズミになって講義をしようと思っているところだ。人々はわかっていても、いつもだまされるものなのだ。以上『専門家の予測はサルにも劣る』(飛鳥新社)を参考にして。
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by qzr02421 | 2012-12-17 16:24 |
劇団燐光群の「星の息子」を名古屋芸術劇場小ホールで見た。公演は12月15日と16日の二日間だ。渡辺美佐子と円城寺あやの演技が印象的だった。沖縄の配備されたオスプレイに反対し、このオスプレイの基地となるヘリパット建設反対する人々とそれに賛同する人たちを描いたものだ。沖縄北部にある高江という集落が舞台だ。やんばるの森が残っているので、アメリカ海兵隊はそこをジャングルの想定した訓練ができるのだ。

星の息子というのはその反対運動を指導している「星児」という人物を探すことを主題としているからだ。その星児を名乗る人物が多く登場する。住民が平和に暮らすことができるところには必ず星児が出現し、しかもツイッターで支持し、誰も星児と直接会ったことがないのだ。その星児を探しているの渡辺美佐子演じる人物なのだ。美佐子の子どもが星児なのだ。

この劇の中で、住民が人間として暮らすために東北の震災の現場や原発反対、沖縄での基地反対をしようとしても、国が干渉してくるのだ。国は住民が安全に暮らすための政策をしなければならないはずなのに、電力会社やアメリカ軍に協力する政策しかとらないと描かれている。この劇の中で「見えないものは遠いから見えないのではなく、上にあるのだ、世界は水平方向に広がっているのではない、垂直方向の広がっているのだ」というセリフが印象的だった。

また、「沖縄の基地と原発を一緒にすることはできない。沖縄の基地は政府から押し付けられたもので沖縄は望んでいないのだが、原発は誘致した地方の有力者の存在がある、つまり原発は誘致してそこの存在しているのだ」というセリフだ。原発を反対することはそれはよいのだが、原発で生活をしている地域が存在しているということなのだ。2時間強の劇だが、その長さを感じさせない劇だった。
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by qzr02421 | 2012-12-16 14:52 | 劇,映画その他
山崎哲さんの『俳優になる方法・増補版』読んだ。俳優になるのは誰でもできる、特に演劇にことを知らない人ほどよい演技をするそうだ。保育園や園児の演技で感動するのは、演じているところが、劇の核心に触れているからだ。その役になりきることなど必要ないし、相手をその役だと思わなくても、その生身の人に話しかければよいのどいう。人間は変わることができないのだから、その役に変身することはできない。演技とは人間を演じることではなく、空っぽになって、そこに存在してせりふを言えばよいだけのことだ。それができずに、こ根繰り回すから、存在しない不自然な演技となってしまうのだそうだ。

樹木希林が「あなただれにしゃべっているの、ちゃんと私のしゃべりなさいよ」と相手役の人を怒ったという。相手役が樹木希林に話しかけばよいものを、自分が作り出した架空の人物に話しかけていたのだという。樹木希林に話しかければよいだきのことなのだ。自分勝手の空想の世界を作り、そこで一人芝居をしているだけだったのだ。演劇で一番大切なことは、相手の話を聞くことなのだ。演劇で一番多い演技は人の話を聞く時間なのだ。自分がセリフを言う時間などは多くはないのだ。

故三木のり平は「覚えたセリフは忘れなさい」と言ったそうだ。言いたいセリフがあるのではなく、相手のセリフを聞いたときに、思ったことを言えばよいだけのことなのだ。相手のセリフを聞いて、聞いたセリフで気持ちを作ろうとすることではなく、セリフを聞いたときの気持ちで、思いついてこと話せばよいだけのことだ。いつもの会話は台本がないのだから、台本がないという状態でセリフを言えばよいということえだ。

相手のセリフで気持ちを作ったり、その気持ちでセリフを言ってはいけないのだ。会話で一番大切なことは「聞き分ける」ということと「話しかける」ということなのだ。俳優は舞台に上がった、聞き続けていかなければいけないのだ。聞き分ければセリフは絶対でてきるのだというのだ。相手のセリフを聞き分け。、つまり何を言いたいのかを理解して自分のセリフを言えばよいのであって、言い方の上手い下手は関係ないないことだという。ぎこちなくても、そればそのときの気持ちであればそれでよいのだ。

相手の言葉を聴きながら、普通は相手の言いたいことや、今日は顔色が悪いなとかを考えているものだ。これを内語というのだそうだが、内語をしていればよい、これを聞き分けるということなのだ。「おい、ちょっと、そこのタバコを取ってくれ」というセリフで自分が呼びかけられた感じがしなければ、「誰にいっているの」というセリフを言ってもよいのだ。また。「そこって」」どこというセリフがあってもよいのだ。そういうセリフが出てくることを「聞き分ける」というのだ。セリフは「呼吸がすべてだとも書いてある」、セリフはぶつぎれでもよいということでもある、それが自然ならということでもある。
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by qzr02421 | 2012-12-15 16:17 |