本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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サルトルを取り上げ話をしているのだが、サルトルの思想が分かれば、サルトルになることができるわけでから、サルトルの思想を分かったような気になるだけで、本当は分からないのではないのか。サルトルは自由を重要視した。人間は自由なのだ。自分の人生をどのように選択するという自由を持っているという。ダメな自分を選らぶ自由もあれば、優秀な自分を選らぶ自由を持っているというのだ。サルトルはエリートだから、そのような自由を持っているともいえる。

ダメな自分を選択するということは、自分はダメな人間を思って行動することをいうらしい。自分がダメと思うということは、それを選択したということを意味するのだ。自分で選んだのだから、責任を取れと、サルトルは迫って来るのだ。自由というのは恐ろしいものなのだ。フロムは『自由からの逃走』という本を書いた。大衆は自由から逃げて、ヒトラーみたいな人物に従った方が楽になるということを言っている。

学校での自由作文というのはつらいものだ。課題があったほうが楽ということはよく分かる。自分で課題を見つけ、その課題を研究するということは大変なことなのだ。卒業論文のテーマがなかなか見つからない、見つけてもそれでよいのか不安になるということでもある。自由にしてよいということは、とても大きな責任を背負うということなのだ。

大阪で劇団イキウメのミッションという劇を見た。人間の行動には意味があるのではないかという提起劇のようだった。無意味な行為と思っていても、それはなんらかの意味があるのだ。人間が生きて行動しているということは、自分以外の人たちに何か影響を与えている、あるいは全世界に影響を与えているのではないのか。自分に与えられたミッションとは何かを探る劇だった。人間は生きているということは、何か意味がある、意味が欲しいということでもあるのだろう。
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by qzr02421 | 2012-06-08 18:29 | 劇,映画その他
大阪市立美術館で「契丹」展を開催している。契丹というのは10世紀頃中国北方にいた遊牧民族だ。遊牧民族は文書史料を残さないから、詳しいことは分からないのだ。有名なジンギスカンの墓でさえ分かっていないのだ。史料は農耕民族しか残さないので、遊牧民族は農耕民族の財産を奪うという悪という存在で描かれることになる。

近年、契丹の墓が発掘されたので、その成果を展示している。金や銀を使った副葬品は見る価値があると思う。歴史が農耕民を中心に書かれていることは間違いがないことだ。農耕民が立派で、遊牧民がダメということはない。農耕民の歴史は、農耕民が立派という歴史観で書かれていることは間違いはないのだ。

契丹が作ったものは、中国の王朝が作ったものよりは完成度が高いとは思えないが、つまりゆがんでいるということだが、それはそれで風情があると思う。歴史は農耕民族中心で書かれているので、遊牧民族はたいした文化を持たないとされるが、それは農牧民族の見方でしかない。歴史は書いている民族の歴史観があるので、それを考えることが大切だ。日本の歴史は日本人が立派ということを示すために書かれているということを理解することが大切なのだ。

契丹展をゆっくり鑑賞することができた。美術品を見たあとはランチをするのが一番だ。大阪市立美術館の付近にはいろいろ食べるところがあるのだが、今回はビックリドンキーで食べることにした。11時半ころだったが、満席だった。土曜の昼食は混むということだろうか。ランチを食べ、その後は天満天神で落語を楽しんだ。有意義な一日だった。
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by qzr02421 | 2012-06-04 22:46 | 劇,映画その他
やっと引越しもすんで、新しいところでの生活ができるようになった。人はゴミに囲まれて生活していることがよくわかった。旅行のときに持っている荷物程度で生活はできるのだ。何枚かの下着と上着はあればよいのだ。衣食住というのだが、住むところ、つまり夜寝るところがあれば、人間の生活は上手くいくのだ。食べ物のバランス、一日30食品というのだが、夜、しっかり寝ることが出来なければ意味をなさない。

命と健康とどちらが大切かといえば、命に決まっている。健康を重要視して命を粗末にしているのが現代の健康論のような気がする。人間は何かしら病気を持っているはずだ。病気と上手くつきあうのが生きるということだと思う。あるいは病気とか健康とかいうことを考えないで生きるのが理想ということかもしれない。

デカルトは「我思う故に我あり」といった。つまり人間は理性を持っているので、考える存在ということだ。考えるということは疑うということでもある。当然と思っていること、本当のそうなのか疑って考え始めるということだ。当然と思っていることをほじくりかえして、人間は幸せを獲得することができるのだろうか。幸福とは何かということを考えもしないことが幸福なのではないのか。幸福を追求するということは、幸福を獲得するという目標を持たないことと言った哲学者がいたはずだ。だれだっけ?

健康を考えるということは健康を疑っていることだ。愛を考えるということは愛を疑っているということでもある。何も考えない生活は案外健康的で幸福なことだと思う。哲学者の経歴を読んでみると、結構悲惨な生活をおくって来た人が多いし、早死にもある。早く死なないと立派な哲学者ではないといことでもある。立派な文学者も早死にだ。しっかり考える人はキリストのように、考えない私たちのような凡夫の代わりに、しっかり考えて早死にするということにような気がする。
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by qzr02421 | 2012-06-02 08:57 | 日常