本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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プラス指向が大切なのだ

人はポジティブに生きることが大切なようだ。悪いことがあったら、ここで悪いことがあって良かったと考えるということだ。人の人生、上手くいくことばかりでではないし、上手くいかないことが多いはずだ。それでも順調な人生を望むのだが、その通りになることが少ない。順調なときが例外と考えるということだ。他人の幸せは大きく見え、自分の幸せは小さく見えるものだ。

披露宴で突然、どういう理由か仲人が怒り出し、新郎もびっくりし新婦は泣き出したそうだ。ついに仲人は途中退席してしまった。主賓だった人が泣きじゃくる新婦に近づき、一言「よかったね、ケーキ入刀を終わり、夫婦なり、このようなトラブルにあった、これからの人生は万全だね」と。聞いた新婦も「よかったね」という言葉でこれまでの緊張が取れて、笑顔が戻ったというのだ。

あとから仲人を止める方法を考えたそうだが、その時は仲人をほめることがよいのではないのかという結論を得たというのだ。つまりおこっている仲人に対して「あなたの怒っているのはよく分かる、素晴らしい、その怒りこそ本当の新郎新婦を心配しているということだ、もっと怒っている理由を話と欲しい」」といえばよいということだ。ほめることで怒りを吸収するということだ。

マイナスで考えてもプラスで考えても、人生の結論は同じではないのだろうか。同じだとすればプラス指向で望んだほうがよい結果をもたらす可能性があるのだ。どうせ失敗するかもしれないのなら、気楽な気持ちで、相手も褒めながら、相手もけなしても気分が悪くなるだけなの。気楽な気持ちで、相手を褒めながらその場を切り開くということが大切なことだろう、笑顔を忘れてはいけないということでもある。笑う門には福来るとはよく言ったものだ。
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by qzr02421 | 2011-10-31 20:10 | 日常

おせっかいもよいもんだ

名古屋の円頓寺商店街を舞台にした映画を見た。「WAYA」という映画だ。「わや」というのは名古屋便で「台無しになる」というとだ。いままでの計画がだめになるということだ。この映画は円頓寺で下駄屋主人にたいしてびっくりさせるプレゼントをしようとすることから始まる。この主人は大学時代演劇をしていたのだ、ある事情で仲たがいした親友がいるのだ。その親友と仲直りさせようとするのだ。その仲直りの手段として演劇を利用するのだ。演劇は自分自身の心が解放されていないと上手くいかないのだ。それを利用しようというのだ。

もう一つの言葉は「おせっかい」というものだ。親友と上手くいっていないのに、わざわざ演劇をしようというのだ。下駄屋の主人にとっては迷惑な話なのだ。その迷惑を考えなくてこの作戦を実行しようとするのだ。つまり人に親切にすることがよいことだが、その親切が度を過ぎると、あるいはその人のとっては余分なこととなった場合にはおせっかいということになるのだ。円頓寺商店街の人はおせっかいかもしれないが、それが人と人を結びつける大切なものという意識を持っているのだ。おせっかいはよいことだということだ。

人に対して無関心で嫌われるのなら意図に対して十分関心を持って十分付き合って、さらには十分に関かかわって嫌われようということだ。どうせ嫌われるのならその人のためのなると思うことをしようとする意気込みが凄まじいのだ。スピードワゴンの井戸田が中心となったおせっかいとやいている。おせっかいをやくことにより人と人との関係が深まることがよく分かる。

人は人との関係なにしに生きることができないのだ。人と関係をもってこそ生きているということでもある。人を信じ、人を許すことによって、自分自身も活かされるということだ。映画はたいした内容があるわけでもないが、人と人が関わることの大切さを実感できる映画ではある。生きているということはよいことだ、しばらくは頑張って生きていこうと思うようになる映画だった。
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by qzr02421 | 2011-10-30 15:39 | 劇,映画その他
情報と知識は何が違うのだろうか。情報化社会というのはインターネットで情報を検索するということだろうが、ネットでの情報をどれだけ信用することができるのだろうか。ネットで得た情報を取捨選択して自分の頭の中に取り入れたものが知識ということになる。知識はたくさんあったほうがよいのだ。雑多な知識があってこそ、思い出すことができるのだ。

無からは何も生まれない。テストの問題を見たとき、知らないことや覚えていないことは分かるわけがないのだ。テストの問題を見たとき、かつて覚えた知識が浮かんでくることが大切なのだ。テストの問題を見た答えが浮かばないのはたぶん覚え方が間違っているのだ。テストの答えは思い出そうとして思い出すものではないのだ。答えは浮かぶものなのだ。

頭がよいとはたくさん溜め込んだ知識と知識を融合させることだろう。知識がなければ融合することはできない。まずは本を読むことだ。年をとると覚えが悪くなるというが、若いころだったいろいろ工夫をしていろいろなことを覚えたはずだ。努力いないでものごとを覚えることはできないのだ。老人と若者のちがいはそれほどはないのだ。少し能力がないかもしれないが半分以下になっていることはない。

若い人と老年とのちがいは、回復能力をないということだ。若い人が怠けていても、やる気のなればできるのだが、老年は怠けるどんどん力が衰えるのだ。回復力のなさが老年の特徴だ。若い人がスキーで足を骨折し一ヶ月ほど寝ていてもそのリハビリ期間は短くて回復するだろうが、老年の人が転んで一ヶ月寝るようなことがあればその後一生歩けなくなる可能性があるということだ。これが回復力のちがいという意味なのだ。年をとると何が原因で病気になるのか分からなくなるそうだ。ボケない秘訣が唯一つ学び続けることだそうだ。人に何かを伝えるということもボケ防止になるそうだ。頭がよい人ほどボケないそうだ。頭がよいとは学び続けているということなのだ。
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by qzr02421 | 2011-10-29 21:07 | 日常

徒然草の精神でいこう

購入して、使わないものがあるのだろうか。調理道具では圧力なべなどがあるだろうか。使いやすそうではあるが、いざとなると使用しないものかもしれない。最近はすり鉢やすりこぎなどは見ることがなくなった。とろろ汁など美味しいだが、汁がないとろろで我慢することとなる。フードプロセッサーも便利なようで、これも宝の持ち腐れだ。ジューサーなど最近は見たこともない。子どものころはバナナジュースを飲んだ記憶がある。

断捨離というのが一時はやったが、これも無用の長物だったのか、一次のブームだったのか最近は見ることがない。人は物を捨てられないのかもしれない。あるいは捨てることができる人と捨てることができない人の二分されるのかもしれない。私は捨てることができない人間のようだ。物にはその時の思い出が宿っているような気がする。

本をブックオフに売ることができない。栄の丸栄にブックオフがあるが、結構年配の人が本を売っている姿を見る。どのような本を売るのか興味がある。ブックオフに並んでいるような本だろう。ビジネス書だろか、小説だろうか。読んでしまった小説をもう一度読むことがないだろうが、やはり捨てるあるいは売ることができない。最も私が死んだら、私の本はどこかに散逸するのだろう。

本は実に重い、思いもあるものだ。図書館で借りればよいようだが、調べ物そするときには手元の実際の本が欲しいのだ。最近は昭和史の話しをすることが多いので、昭和史の本が結構増えた。本を読んでも、その読んだ本の中の話題の二つ三つ使うだけだ。使うというよりアイデアをもらうほうが多いのかもしれない。本というのは知識を得るという面もあるが、発想をいただくという面のほうが強いように感じる今日この頃だ。ぼちぼちとした文章でこれからも続けよう、これが徒然草の精神なのだろう。
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by qzr02421 | 2011-10-27 21:30 | 日常
やる気がしないのはボケの始まりということらしいが、ブログを更新する気持ちがなくなってきた。文章を書くのがめんどくさいということかもしれない。高校での授業やカルチャーでの講座はノルマでお金の問題もある、行かないと迷惑をかけるという面がある。ブログは更新しなくても、特にノルマがあるわけではない。アイデアが浮かんで、どんどん書けるときもあるが、何も書きたくないときもある。

本を読んでいないわけではないので、本の感想を書くことはできるのだが、800字程度の本の感想を書く気がしないのだ。今日読んだ本は「チェルノブイリ」に関する本だ。チェルノブイリという地域は人が住んでいない、その地域にカメラともってバイクで旅をした女性の手記のようなものだ。福島の原発事故もひどいものだが、チェルノブイリの被害は凄まじいものがあることがわかる。

人が住むことができない地域が、100年以上住めないらしい、住むことができるのだろうが、放射線の被曝があるのだ。チェルノブイリでの事故では、爆発して飛び散った放射線を出す物質を素手で取り除いたそうだ。その作業に従事した人はもちろん死んだのだ。福島でも作業をした人たちの一部は消息不明という記事が週刊誌にある。

放射線は目に見ないし、臭いもしない、どこに危険があるのかわからないのが怖いのだ。さらにどれだけ被曝したら危険かも分からない。被曝してすぐに癌になるわけでもない。じわじわと影響してくる危険ほど怖いものはない。人類はとてつもないもののトビラを開いてしまったとしか言いようがない。パンドラのトビラを開いたということだと思う。気分がすぐれないのは、この本を読んだためかもしれない。
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by qzr02421 | 2011-10-26 21:50 |

天然は安心か?

『民間療法のウソとホント』蒲谷茂著の話を続けるのだが、健康雑誌や健康番組で登場する人は効果があったという体験談を持つ人だ。健康のよいとされることをして健康になる人がいることは事実だろう。健康になった人の体験談を採用するのがあたりまえだ。効果がないという体験談を掲載しても商品が売れるわけがないことは当たり前のことだ。

体験談がどれだけ信用できるかという問題もある。試供品を送り、効果があった人だけを取り上げればよいのだ、症状によって効果があるかどうかの違いもあるはずだ。全ての人の効果がある健康食品というのは存在しないのだ。効果がなかった人の調査はしないそうだ。効果があった人と効果がなかった人の調査をしてこそ、本当の効果が分かるのだろうが、そのようなことをしている会社はないそうだ。

薬を使わず、民間療法で治ったほうが簡単でよいという人を対象にしているのが健康食品ということだ。アガリスク、黒酢、グルコサミン、ウコン、コンドロイチン、コラーゲン、ヒヤルロン酸などいろいろな民間療法で使用されるものがある。健康な人がより健康の、そうでない人はそれなりの効果がある可能性があるらしい。薬は医薬法があって成分が一定だが、このような民間療法などは法律の縛りがないので成分が一定ではないとのことだ。ようするに副作用がある可能性があるということだ。

天然のものが安全ということはない、天然なものがあり、そこから人工的なものがつくられるのだから、天然な毒というもの当然存在するのだ。人工的なものが危険で、天然なものは安全などとうことはない。民間療法は皆保険が普及している日本でこれだけ広がってるという現実を医者はもっと考えることが大切だという。医者は病気には関心があるが、病気を抱えている人の人生には関心がない人が多いようだ。人生を相談したい病人という存在を医者は考えることが大切だということだろう。
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by qzr02421 | 2011-10-25 20:47 |
『民間療法のウソとホント』蒲谷茂著を読む。この人はかつて『壮快』という雑誌の編集をした人だ。『壮快』という雑誌、健康雑誌の先駆けらしいが、健康ブームをまきこした雑誌でもあるのだろう。命がなくなるかもしれないという戦争が終わり、戦後の生きることができるのかという不安もなくなったころに健康ブームが訪れたのだ。明日もしくは今夜空襲であるいは空腹で死ぬかもしれないという時に健康については考えないだろう。

死ぬことがなくなったので、健康について考えることができるようになったのだ。健康を扱う雑誌の対象とする読者は「健康な人」だそうだ。病気はないけれどなんとなくからだに不安を感じている人、もっと健康になりたい人、健康診断でとくに影響がない、つまり経過観察でよいのだが、その数値が心配な人が対象なのだ。本当に病気の人が対象ではなく、その人は病院の行くことが必要なのだ。この雑誌が取り上げ、爆発的なブームとなったのが「紅茶きのこ」というものだ。

国会でも紅茶きのこは問題となり、その時の厚生大臣は、田中正巳だが、答弁で「非常にはやっていますが、たんなる酢酸菌であるといわれていますが、厚生省としても分析したいと考えています」など言ったらしいが、結局は何もなさないうちに、雑菌が繁殖するといううわさが広まり、そのブームは終わったとのことだ。とくに体の具合が悪くなったということもなくこの紅茶きのこのブームは終わったのだ。

健康が大切ということは分かっているのだが、健康とはどのような状態かと問われると困ってしまう。病気ではない状態だろうが、人間は何かしら病気をかかえて生きているものだろう。体が少しくらい調子が悪くて、医者に行っているほうが長生きするかもしれない。病気もなく元気で、突然死を迎えるということもあるのだ。病気がないから死なないということでもない。健康、健康ととなえていても健康のなるわけでなない。健康問題は難しい問題なのだ。
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by qzr02421 | 2011-10-24 20:01 |

水戸黄門も終わるのだ

最近、水戸黄門の再放送の時間に家にいるので、何とはなしに見ているのだが、印籠を出すと、恐れ入ったようになるのが面白い。水戸黄門は旅をしたわけではないが、徳川家の権威が黄門の時代には確かにあったことが分かる。水戸黄門が、「あなたは誰」と聞かれて、「私の名を聞いたら震えがきますよ」というセリフがある。それだけ身分の差があったということだ。初期の水戸黄門は天領や松平家の領地をまわっているようだ。天領なら代官がいるので、悪行をしている代官を懲らしめるとうのは筋が通っている。

江戸時代は名分という時代で、能力がなくても長男なら跡目を継いだのだ。長男が跡目を継ぐというルールが徳川時代の安定をもたらしたのだ。毎年同じことが続くのなら、能力よりは権威をもった領主が支配したほうがよいのだろう。能力があると、改革したいと思うだろう。安定期には改革が必要ないのだ。徳川200年はそのような安定した時代だったのだ。それが幕末、18世紀に入ると激動の時代の入り、実力の時代になったのだ。福沢諭吉が「学問のすすめ」で学問こそが立身出世の道と説くのは、実力の時代の到来を示しているのだ。

水戸黄門だが、最終回の12月にはこれまで出演した人たちが記念にでるということだ。由美かおるの入浴シーンも台本にはあるとのことだ。由美かおるはまだこの入浴シーンを承諾してはいないらしい。それでも最終回は、それなりの視聴率が予想される。日本人は終わりとなると、妙に哀愁を感じて、それを見るものだ。

東海道新幹線ものぞみの古い車両がそろそろ引退するとのことだ。なくなると思うと、それに乗りたくなるのが人情なのだろう。水戸黄門も放送が終了するとなると、それなりの人気がでるのだ。水戸では水戸黄門存続の決起集会が開かれるそうだ。存続の運動があるなかで、惜しまれながら放送が終了するというのは、すばらしいことだと思う。水戸黄門はたいした番組ではないのだ、なくなるのはさびしいことだ。
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by qzr02421 | 2011-10-21 19:06 | 日常

京都はいいねえ

京都へ行くというとお寺見物ですかと聞かれることが多い。京都というと京都市を思うためだろう。確かに京都市に行くことが多いし、新幹線で簡単に名古屋からは行くことができる。のぞみなら40分もかからない。山科を過ぎ、トンネルを抜けるとそこは京都市だ。ロウソクのような京都タワーが迎えてくれる。京都タワー建設計画の時には、景観を台無しにすると反対意見が多かったと思うが、今では京都の景観に定着したようだ。

京都もそろそろ紅葉の季節になるだろう。京都には紅葉の名所はたくさんある。永観堂や嵐山が印象にある。嵐山は桜もきれいだった。紅葉といってもさまざまな色がある。赤だけでなく黄もよいものだ。奈良からのほうが近いだろうか。浄瑠璃寺もなかなか風情がある。紅葉とはちがうが、仏教美術を堪能するのもよい。京都駅から北西にある龍谷ミュージアムでのベゼクリク石窟の大回廊の原寸大の復元展示には圧倒される。

京都には,海もあるのだ。京都府はサツマイモのような形をしていると思う。さつまいもの下の方に京都市があるとすれば、上には宮津市がある。「丹後に宮津でピンと出したよ」で有名だ。何を出すのかは知らないが、ここには天の橋立がある。福井県から行くことがおおいので、京都という感じはしないが、ここは京都なのだ。福知山線で北上するのも風情があるだろう。鳥取に行くときに通り過ぎただけだが、海の京都を味わうのもよいものだった。

宮津に行く途中には福知山があり、ここには福知山城が復元されている。この城は丹波を平定した明智光秀が築城したものだ。明治の初めに取り壊したそうだが、昭和の終わりごろに復元されたのだ。郷土資料館になっている。郷土資料館はどこでも同じようだが、この城からは城下が一望できるのがよい。戦国時代の城は城下が一望できるのが特徴のような気がする。のんびり紅葉をみながら旅をしたいものだ。
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by qzr02421 | 2011-10-20 17:35 | 旅行
言葉の意味を調べるときに一番使ったのは、かつては辞書だった。現在では電子辞書が中心だが、電子辞書では足りない分はネットで調べている。電子辞書はその言葉を書いた人が署名入りで存在するのだが、ネットで調べたものは署名がないことが多い。どこまで信じたらよいのかという問題が残ってしまう。鎌倉時代は彫刻の時代と言われているのだが、なぜ彫刻の時代とよばれるのかを調べようとすると、ネットでも辞書でも壁が存在するのだ。

単純な言葉の意味は分かるのだが、ネットなどで調べることによって疑問が解決することが多くはない。自分の知識を再確認することもあるのだが、その再確認ができないことも多いのだ。自分の知っている知識の出典を知りたいのだが、それが分からないのが歯がゆいものだ。授業などで話すときは、出典の確認は重要なことなのだ。自分だけが言っているだけでは権威がないということだ。この説をとなえている人物を特定することが大切なのだ。

鎌倉時代にはどうして素晴らしい彫刻が存在するのかはよくは分からないのだ。教養がない武士の存在と関係があることはわかるのだが、教養がないことだけを理由にはできない。平安時代は抽象的な文化を理解できる貴族存在した。鎌倉時代の中心的存在の武士は教養がないので、具体的な彫刻を愛してという説を立てることが可能なのだが、それを証明することはきわめて困難なことなのだ。それにしても鎌倉時代だけが、ミケランジェロに匹敵するような彫刻が生まれたことはすごいことなのだ。すごいことなのだが、その理由が分からないのはもっとすごいことなのだ。

何も疑問を持たないで歴史を見ると、その程度の歴史しか見ることはできないのだ。歴史を見るときには、疑問を持つことが大切なのだ。当たり前と思っていることを疑うことから歴史研究は始まるのだ。当たり前のことを疑うことが実に難しいことなのだ。疑問を持つことが出来れば、歴史の扉は開かれている
思った間違いがないのだ。
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by qzr02421 | 2011-10-19 21:06 | 歴史