本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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6月も終わりだ、4月始まりという仕事なので3ヶ月しかたっていないということだが、1月から見れば半年過ぎたということにもなる。毎朝散歩をしているのだが、1月の雪の中の散歩から、3月末の桜の下の散歩、そして6月末は太陽の光の中での散歩だ。日本は四季があるというが、それを実感させられるのが散歩だ。1時間手を振りながら歩くのは気持ちがよいのだが、夏に近づくと暑さが倍増してくる。朝の6時でも太陽がまぶしい。散歩を始めた昨年の8月中ごろは朝5時スタートだったの、その太陽のまぶしさは感じなかった。

昨年は手術をしたので緊張感もあったのか、暑い夏というイメージがないのだ。それだけ緊迫した日々だったのだろう。今年は、6月末からこの暑さだ。福島の原発が原因ではないし、地震が原因でもないだろう。日本列島が活動期に入ったことと暑さとの因果関係もないようだ。それでも地球が活発化しているために暑いのかもしれないと思ってしまう。

経済成長と電力は比例関係にあると思っていた。電力利用が増加すれば経済成長も増加するということだ。資本主義は電力を使用するのが基本ということでもある。GNP、GDPと電力は比例関係にあるのだ。電力を控えるということは生産が減少するということだ。つまり経済成長が鈍化するのだ。経済が成長すれば税収も増える。税収が増えれば消費税増税は必要なくなるということになる。

結局民主党政権が税と社会福祉の一体改革と言っているのは、経済が成長する可能性がないので、税収が増えないので消費税を上げることが必要ということか。消費税を上げれば経済が発展しないので、また消費税増税ということになりはしないのか。今求められるのは経済成長ではないのか。しかし電気を使わずに経済成長はないのだ。未来に明るい展望が持てない時代のようだ。電気の問題は奥が深いということでもある。原発を止めろというのは簡単だが、それで・・・悩ましい問題だ。
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by qzr02421 | 2011-06-30 15:45 | 日常
大学でマンガを教えている学部がある。それは京都精華大学マンガ学部マンガプロデュース学科だ。マンガが学問なのか、マンガを教えることができるのかという疑問が残るが、そういう学部があるのだから、教えることができるのだろう。ここでは商品として、つまりマンガとして生計をたてることができるかどうかではなく、純粋にマンガを教えているということのようだ。

ここでマンガを教えているという六田登著の『まんがのねた』を読んだ。この本によると、マンガは時間を遡ることができる唯一のもの、二次元の世界を三次元から眺めている、さらには神の視点に立っているのがマンガということだ。映像もアニメも不可逆的な時間の流れから逃れることができないが、マンガのコマ割という技法が時間を遡ることを可能にしているのだという。起承転結をコマ割で知ることができ、そのコマを自在に移動できるのがマンガということだ。

マンガの原点は「自分と向き合う」ことだという。事件の当事者として現場にいるということ、作中の人物に成りきることでストーリーが出来上がるのだ。マンガの主人公の感情移入することができるのは、同じような体験を自分自身がしていないとだめらしい。自分をよく見ることからはじめるということだ。絵を上手く描くという才能だけではマンガを描くことができないということだ。自分の体験、自分と向き合うそのことがマンガ以外にも重要なことのような気がする。

「漫画家という職業はない、あるのは漫画家という生き方があるだけだ」という言葉にはビックリさせられた。生き方という選択で職業らしきものを選択するという発想だし、漫画家では生計を立てることができないということでもある。俳優もおなじようなものだと感じた。ところで関西では芸人が育つという。関東では芸がつまらないと客が帰るが、関西では芸がつまらなくても、払ったお金の分だけ客が楽しもうとする。つまらない芸人をいじるのだ。そのいじりに対して芸人が反応して、そのやり取りで芸が育つというのだ。観客が寄ってくる、寄って「寄席」になるという。なかなか面白い話だ。
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by qzr02421 | 2011-06-29 21:51 |
『ひとりではいきられないのも芸のうち』(内田樹著)を読み終える。読みやすいが、内容を忘れがちな性格の本だ。面白いのだが、なぜ印象に残らないのだろか。あまりに奇抜すぎるアイデアのため常識というフィルターがかかるからか。あるいは私の思考と似通っているため、自分が考えたかのように錯覚するからだろうか。

内田さんは学校や役所や企業を批判する人は、批判された人が恐れ入って反省して、よりよい仕事をするようになると信じているのだろうかというようなことを書いている。批判された人のモチベーションが高くなるとは考えることはできない。マスコミも同じような批判をしているが、批判をすれば現実がよくなると考えているのか、批判してもよくはならないだろうということは当然想像できる。

授業で菅首相を批判しているが、この未曾有で想定外の出来事の処理で誰がやったら上手くいくのか、批判しているマスコミがやったら上手くいくのか、とりあえず菅首相がやっているのだからやってもらえばよいのではないないのかということを言った。リーダーシップというのはリーダーのために働こうという人がいて成立するものだ、菅首相のために働こうと考えればよいのだろと思うのだがとも言った。このような内容が内田さんの思考と似ているのだろうか、そのための印象に残らないのか。

仕事についてはやりたい仕事より、できる仕事でよいのではないのかとも話している。仕事をしているうちの仕事の中身がついてきて、中身がついてきた上体が人生なのだろうと語る。自分探しはやめよう。今そこにいるのが自分だということから出発することが大切だとも語るのだが、このあたりの内田さんに似ているようなきもする。まあ似ているのはどこかで影響を受けているのかもしらない。人間オリジナルな発想などというものはそんなにあるわけではない。

新大陸を発見した白人が原野を発見して驚いた、その原野という自然を破壊してきたのがこの200年の歴史だったのだ。今になって破壊してしまった現実に気がついて環境問題を言っているだけだという意見は面白かった。白人が先祖が新大陸に来たことが間違いだったというのだろうかという言い方も実のよいと思った。自分にない発想の場合は記憶に残っているようだ。
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by qzr02421 | 2011-06-28 19:00 |
内田さんの本の話を一回休憩したが、また続ける。「私の責任はみんなの責任」といって肩の荷を降ろした後、次には「みんなの責任は私の責任」という発想で今度は人の荷物をかつげばよいというのだ。他人の荷物は重くて、自分の荷物は重いと思いがちだが、実際は逆だというのだ。つまり自分の荷物は重いが、人の荷物が軽いというのが現実なのだ。

自分の荷物の重みは他人の荷物を代わって担ぐという決断をしたときに消えるというのだ。また、人間一番大切なのは「胆力をつける」ことだそうだ。「胆力をつける」ということは「びっくりしない」ということだそうだ。びっくりしないためにはどうすればよいのかというのと「いつも驚いていればよいというのだ」内田さんの言うことはいつも逆説的だということだ。

いつも疑問を持って暮していることがたいせつだというのだ。いつもびっくりしていれば、びっくりする状態が平常になるので、びっくりしたことがおきても、日常なのでびっくりしないということだそうだ。見るもの聞くもの体験するものに対して疑問を持つ生き方の方が素敵だという気がする。見るもの聞くものすべてが疑問の対象というのが普通のことなのだろうが、その疑問を抱かないような感動のない人生を人間は選びがちだということでもあるのだ。

なぜ女子高生がセーラー服を着ているのかという疑問がある。これは海水浴が19世紀の流行し(ヨーロッパで)この海水浴という健康法に利用する海浜着として英国海軍のセーラー服が流用され、さらに日英同盟締結で、その流行が二本の上流階級に波及して、女子高校生の制服がセーラー服になったそうだ。驚かない人生より驚く人生のほうが楽しいことは間違いがないとおもう。
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by qzr02421 | 2011-06-27 14:14 |

原発への徴兵制?

燐光群という劇団の芝居は重い。思いもこもっている。セリフが機関銃にように飛び交う。油断をすると何を言っているのか分からないこともある。しかし、その機関銃のようなセリフが燐光群そのものだと思う。楽しい劇を演じる劇団ではない。劇作家の坂手さんの台本は重い。思いがこもっている。3月の震災が多くの劇団に与えた影響は大きい。それは劇団の多くが関東を拠点にしているからだろう。自粛という文字が重く文化ののしかかったのだ。

燐光群の「推進派」という芝居を見た。いつものカラッとした切れ味がない。それは3月の震災を経た芝居だからだろう。そのほど影響を受ける必要はないと思っても、感受性の強い人たちは大きな影響を受けたのだろう。フクシマという言葉は震災前と後ではインパクトが違う単語になった。フクシマ後の世界に住んでいるという現実を直視することが大切なのだろう。

この芝居は架空の島「サチノ島」にいろいろな事情を抱えた人たちが非難してくることから始まる。その人たちは自分語りは止めようという。自分の過去を語っても未来が変わるわけでない。これからが大切なら過去を語らないという生き方があってもよいというのだ。別のその人の過去を知ったからといって、関係が変わるわけではない、それでもその人の過去を知りたいと思うのが人間だろが。それを封印して島での生活を始めるのだ。

フクシマの原発事故、劇の中でこれからは徴兵制のように、フクシマの原発の処理のために国民全員が順番で行くことになるというセリフがある。国民が自分の受けることができる放射線量まで働かないと原発事故の終息はないということだろう。沖縄の基地問題は、自分の県のアメリカ基地が来なければよいということでよいのかという問を提起して言うように感じた。原発も基地も自分の居住区域になければよいという問題意識ではダメということなのだ。この劇は見て楽しい劇ではなかったけれど、いろいろなことを考えさせられる劇だった。人間答えは分からなくても考えることが大切だということだろう。
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by qzr02421 | 2011-06-26 19:01 | 劇,映画その他
内田さんの本の話を続けよう。フランス語にゴルジュという人間の部位に当たる単語があるが、この単語に当てはまる日本語がないらしい。ゴルジュが痛いという場合は日本語「のど」を意味し、美しいゴルジュをしているという場合は日本語で「乳房」を意味しているというのだ。フランス人は人間の体をどのように認識しているのだろうか。丸いものがゴルジュということなのだろうか。

一方日本語の「腰」の相当する部位が英語にはないという。ウエストと腰が違う部位なのだそうだ。腰はまげたり、伸ばしたり、ためたり、落としたり、浮かしたりすることができるが、ウエストはそのようなことができないというのだ。

腰の動きが日本人は独特なものがあるということになる。腰の動きを日本人は理解をすることができるが、外国人は理解をすることができない、ということは腰をためるという動作を外国人は理解することができないということになる。これが武道で言うところの「見えない動き」ということなのだそうだ。相手が理解できない動作をすれば、武道では勝つことができるということになる。

スズメバチを撃つときとハエを撃つときと、どっちの動作がより速くて強いかという話がある。スズメバチの撃つ場合はさされる可能性があるので躊躇する気持ちがでるが、ハエの場合は刺されることが想定されないので、無意識の手がでるというのだ。スズメバチを撃つときの「一瞬さされるのではないのか」という気持ちが動作を遅くするという。武道の心得はハエを撃つつもりでスズメバチを撃つということだそうだ。この話も分かったようで分からない話だった。
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by qzr02421 | 2011-06-25 15:03 |
内田樹さんの本は読みやすい。本人がいうには段落が多いからだという。余白が多い文章の方が読みやすいということだ。文章が多ければ内容が多いということではないのだろう。中身があれば、ワンフレーズでも人々の伝わるのだ。ヒトラ-と同じ考えのようだ。大衆は愚かだから、簡単なことを何回も言わなければならないというようなことをヒトラーが言ったと思う。

今回の本は『私の身体は頭がいい』だ。内田さんが合気道を通じで考えたり感じたりしたことを書いた本だ。この中で「弟子が師匠に救いを求めてはいけない」という文章がある。師弟関係にはギブアンドテイクやリターンはないということだ。人間関係でリターンを求めてはいけないということでもあるようだ。ギブアンドテイクの人間関係では人間としての成長がないということかもしれない。子どもを育てる親はリターンを求めない。育てている瞬間に子どもとの関係で喜びを十分に感じているはずだというのだ。

以上のような考えを、その考えを持っていない人の説明するためには、いくら定義を説明しても分かってもらえないという。そういう時には「お話」を一つすることが大切だという。お話を聞いてもすぐには分からないかもしれないが、いつかわかる時がくるというのだ。人間はお話を思いつく存在ということだが、なかなか分かったようで分からない話だ。

そのお話の中で、弓を上手になりたければ弓を上手に射ようと思わないことという話がある。弓を上手に射ようという心と弓を射るという動作を分離するということだそうだが、この話も分かったようで分からないものだ。弓を上手に射る極意は弓を射ることをしないことだともいうのだ。心と動作の分離ということは考えることが必要なテーマのような気がした。
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by qzr02421 | 2011-06-24 17:32 |
『こまやかな文明・日本』『ヒトラー語録』を読む。前者は千田稔著でNTT出版だ。この本では日本の文明を考えるとき、カミをカミと訳したことはよくないという、それはそうかもしれないと感じた。ゴッドを神と訳したこともあわせてダメだったのだ。ゴッドは唯一神で、絶対的な存在なのだ。神はたくさんいそうだ。八百万の神というくらいだ。

絵画や絵解きをもっともっと評価したほうがよいなどと日本の風土に合わせた学問の理解が必要というような参考になる話が多かった。こまやかというのが日本文化理解のキーワードのようだ。さらには、災害列島なのだから、想定外という言葉はつかるべきではないという、その通りだと思った。人工的なのだろうが、その人工的な感じを極力排除しようとするのが日本文化ということだろう。

二冊目は、アイバンホー・ブレダウ編で原書房出版の本だ。この本を読むと、ヒトラー研究をしっかりしないと、第二のヒトラーが出現する可能性があることが実感した。ヒトラーの言っていることは支離滅裂かもしれないが、十分に人をひきつけるものがある言葉を話していることを感じた。語録を読んで感じるのだから、その場で聞いたら影響を受けることは間違いない。ヒトラーを狂人扱いして馬鹿にして研究しないのは危険だということを感じた。

ヒトラーのことは普通『マインカンプ』というような本で理解しようとする。そうすると表面的で浅はかなイメージを持つことができるのだが、この語録を読むと、ヒトラーの魅力を感じることができる。ヒトラーの魅力を感じてもしかたがないことなのだが、だまされることがないと思いながらドイツ人がだまされていく過程が、この語録を読むとよく分かる。結構ヒトラーは人たらしの人物だったのだろう。同時代にいたらだまされたかも知らないと思った。この本は本当のヒトラーの言行録をあつめたものなのかという疑問は最後まで残った。出典があきらかにされていないのだ。しかしヒトラーが言ったような文章になっているのは、もし偽書だとしてもすごい本だと思う。
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by qzr02421 | 2011-06-23 15:51 |
内田樹サンの『知に働けば蔵が建つ』を読んだ。外交問題についてもふれている。アメリカのアジアにおける外交戦略は日本と中国と朝鮮が仲良くなりことを防ぐこととしている。この三国が適度の仲が悪いのがよいのだそうだ。三国は儒教国家として共通した要素があるから、キリスト教をベースにした欧米諸国よりは、本当は理解しやいとのことだ。日本が儒教国家かどうかは私には分からないが、漢字を共用していることは事実だ。

漢字は日本が一番古い字体を守っていると思う。中国はずいぶん簡略字体になっているし、韓国はハングルだ。儒教は中国と韓国では内田さんの言うとおりだが、日本は儒教というより、イザヤ・ベンダサンではないが日本教という特殊な宗教ではないだろうか。それでも西欧諸国よりはこの三国が近い関係になるのは事実だ。日本が明治維新以後西欧かぶれしているので、中国や韓国を見下したような現実が生まれているが、それも100年ほどの歴史しかない。

北朝鮮はキムジョイル一行が突然夜逃げしてことの終わりを迎えると書いているが、どうなのだろうか。夜逃げした後に中国と日本と韓国で仲役処理をして、統一朝鮮を樹立するのだそうだ。そうして中国・朝鮮・日本三国体制ができるのだそうだ。それを一番おそれているがアメリカとのことだ。そのためにはアメリカは北朝鮮がこのままの状態でいることが望ましいらしい。

外交というのは自国の利益のためにするものだということは分かっているが、日本は外交というものを歴史的にしたことがないように思う。江戸時代までは鎖国状態かアジアの文明を輸入していただけだし、明治以降の西欧列強のまねをしていただけだ。このまねをすることと協調外交とよんでいるのだ。まねをするということは自分で決めることができないということだ。日本の国内なら横並びの政策でよいのだが、外国はそうはいかないものだ。今後のアジアとくに北朝鮮問題は注目に値するということだ。
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by qzr02421 | 2011-06-22 15:44 |

努力すれば成功するのか

内田樹サンの『知に働けば蔵が建つ』を読んだ。ニートという現実があるのは、金がないのが人間の不幸の主因でとりあえず金さえあれば問題は解決する、もしくは問題を先送りすることができるという考えが引き起こしているという。ニートは彼らを扶養している人がニートさしておくだけのお金があるから、彼らは問題の解決を先送りしているだけだそうだ。扶養者のお金がそこをつくときに問題が発生するということか。それとも扶養者の生命保険が切れたときの問題が発生するということか。悩ましい問題だ。

努力すればなんとかなるというのが教育界でよく言われることだが、努力しても出来ないことが多いのが現実だ。頑張れば出来るという思想を持つ人もことをカツマーというそうだ。自分で問題をみつけ、その問題に向って努力すれば道が開けるというのは素晴らしい言葉だが、その道が開けた人がいうだけだ。頑張っても道が未知な人は、さびしく去っていくだけなのだ。去っていく人の言葉は残ることがないのだ。

自分の能力の限界を知ることが大切だと思うのだが、かつては「俺はこんなもんよ」という言葉を生徒からよく聞いたが、最近は明るい顔で「頑張ります」などいう。頑張ってもできることとできないことがあるのだと言ったほうがよいような気がするが、なかなか言えないものだ。成功して人の話は参考にならない、参考になるのは失敗した人の話だという言葉は有名だ。成功した人の通りの行動をしても、成功することなどはないということだ。自分の能力の限界知ることが重要ことなのだが、このことはなかなか分かってもらえないことのようだ。
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by qzr02421 | 2011-06-21 18:52 |