本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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映画「英国王のスピーチ」を見た。木曜日に見た。この日は女性が1000円といとい日のためか、満席だった。次に日は違う用事で名演会館に行ったが朝10時一回だけの上演ということなのか、やはり満席だった。ここは席の段差がすくないために、自分の座っている席の前に座高が高い人が座るとスクリーンの下が見えないのだ。この映画の字幕は下にでるのだ。前に座高が高い人が座らなければよいと思っていたら、予想に反して、座高が高く頭がでかいひとが私の前に席に座ってしまった。

他に席はあいていないし、その状態で映画を見たのだが、字幕が見えにくく、映画を楽しむことは出来なかった。座りなおして高い姿勢に見たらよいのだろうが、そうすれば私の後ろの人が見えにくくなるのだ。座高が高く、頭がでかい人には悪気はないが、その人が邪魔だからといって姿勢を高くしてみると、私の後ろの人の迷惑となるという思いがあるのだ。気にすると何もできないという典型的な例なのだ。

字幕が見にくい状態だったが、いろいろ工夫をして映画を見た、だいぶん疲れた。混んだ映画は、このように見えにくいので嫌いだが、しかたがないことだろう。この「英国王のスピーチ」よく考えられ出来ている映画だということが分かった。吃音という欠点を持つ英国王の苦悩がよく表現されていた。吃音になる原因があり、それを克服させようとする人物が登場する。ジョージ6世の性格もよく表現されていた。象徴としての王が国民に、象徴だからこそスピーチをしなければならない。そのスピーチが吃音のためにできない、したいのに出来ないという苦悩、その苦悩を克服させようとする言語療法者との関係、国王の苦悩、涙が出そうだった。

国民のために、自分の欠点を克服しようとする国王の姿は立派なものだ。チャーチル役の人物もそれなりに面白い。ヒトラーとの戦争が始まり、国王は国民に戦争遂行の勇気を与えるための演説をするのだが、この演説で吃音を克服する姿は感動を与えるのだ。国王としての気品と人間としての尊厳が実のよく表現されていた。見るべき映画ということには間違いがないという気がした。
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by qzr02421 | 2011-04-30 19:01 | 劇,映画その他
金曜日から、つまり4月29日からゴールデンウイークが始まる。4月29日はみどりの日かと思っていたら、昭和の日だったことに気がついた。祝日の名前などはどうでもよいので、ともかく長い休みの期間に入る人もいるということだ。日本人は休むことに罪悪感を持つようだ。休みますということができないのだ。パチンコ店の休みは、公休日などというのだ。公休日とはどのような意味なのだろうか。

欧米の人は、労働は神から与えられた罪なのだという意識なのだそうだ。アダムとイブが楽園を追放され、アダムは労働という罰を与えられたことになっている。イブには出産の苦しみが与えられたという。いずれにせよ、働くことは罪に対する罰なのだ。日本人は罰としての労働という意識はないようだ。労働とはいわないで勤労というのだ。謹んで働くのだ。自然が豊かな日本人の精神ということなのだろう。

日本国憲法では、日本人の義務として労働、教育、納税を規定しているが、労働と教育は義務であるが権利でもあるのだ。マルクスは「サルが人間になるにあたっての労働の役割」などという本を書いたらしい。働くことは人間らしい行為というのがマルクスの考えだったのだろうか。働くことによって人間として成長するということは素晴らしいことだ。

人間は遊ぶ存在という定義もある。ホモルーデンスといったのはホイジンガーだっただろうか。働きそして遊ぶということが人間としての存在を規定しているに違いない。8時間働き、8時間遊び、8時間休息をとるというメーデーの精神は素晴らしいことがだということを改めて感じている。私自身は5月2日には授業があるが、それ以外は休みなのだ。たくさん本を読んで、よりより講義や授業の備えようとを思うのだ。本を読むのは仕事は遊びがどっちなのだろうか、それが疑問なのだ。
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by qzr02421 | 2011-04-29 19:27 | 日常
高校の授業で「ボランティア」とはもともとどのような意味かということを話した。「ボランティア」という単語をなぜ日本語の訳さないのかという問題もある。外国語で日本語の訳さないのは日本にその外国語に対応する日本語の単語がないからだという説がある。「ボランティア」という単語はもともとは「義勇兵」という意味だそうだ。自分たちのランドを自分たちが守るということだろう。

その「ボランティア」のもともとの意味からは被災した人たちが自ら自分たちの生活を立て直すということ意味していると解釈することが出来る。被災地以外からくる「ボランティア」は被災者の自立を助けるための活動をすることが求められているのではないのだろうか。テレビのニュースを見ていると、「ボランティア」が食事を作る、被災者が食べる人という感じという映像が流れる。

被災者の自立という意味では、被災者自身が自分たちの食事をつくるということが必要なのだと思う。料理をつくる被災者をたすけ、食材などを用意するのが「ボランティア」の役目だと思う。人は親切にされるとその親切に慣れてしまう。親切にされてしまうことに慣れてしまった人は親切にされないと、「ボランティア」という存在を恨むようになるのだ。

人間は自立することが一番大切なことなのだ。人間は一人では生きていくことは出来ないが、一人で生きようとすることを追求しなくてはいけないのだ。ひとりで生きようとする人を助けるのが周りの人の役目なのだ。まずは、ひとりで生きようとする人間になるような手助けが、「ボランティア」の活動で一番大切なことなのだ、ということを高校で話したら、結構共感を得られた。高校生の捨てたものではないということを実感した。
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by qzr02421 | 2011-04-28 22:38 | 日常
手術後初めて映画を見た。どうして8ヶ月も映画を見なかったのか不思議だ。芝居とちがって見たい!と思う映画が少なくなったということかもしれない。映画の題材が犯罪とは殺人あるいは二重人格など、見て楽しい気分のする映画が少なくなったような気がする。映画にしても演劇にしても、見て元気が出るものがよいと思う。この間まで音響をしていた「お勝手の姫」は認知症のような人物を扱っているが、暗い劇ではなかった。劇がはじまり、見合いをしている男の女の会話では結構笑いがあった。人間は笑うことが大切だ。笑うことが出来る劇が映画を見たいものだ。

「お勝手の姫」ではちょっと変な人が実はまともで、まともな人が実は変なのではないかというメッセージだったような気がした。女がよく言うセリフで「普通って何」、「また普通か」というものがある。普通というのはどのようなことなのかを考えさせられた。ところで見た映画というのは「ダンシングチャップリン」だ。周防監督と草刈さんが番組宣伝しているので、チャップリンとバレイを見たいので見に行った。

映画のメイキングと本編という二部構成となっていた。メイキングはこの映画をどのように作製したのかという苦労がよく理解できた。周防監督の苦労と草刈さんのダンスの素晴らしさを感じることができたが、お金を払ってみるほどのものかという疑問は残った。本編のダンスは素晴らしいが、劇場ではなく映画ということで、感動があるようでないような感想を持った。

「ダンシングチャップリン」は周防監督が自分の妻である草刈さんをいかに美しく撮ったのかというドキュメンタリー映画と理解した。周防監督の草刈さんへの愛を感じたが、そのような映画をなぜ見せるのかという疑問は残る。それでも草刈さんのダンサーとしての才能を見たことはよかったというのは最終的な感想だ。音楽が心地よく、目をつむると眠ってしまうのではなという恐れも感じた映画だった。
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by qzr02421 | 2011-04-27 21:19 | 劇,映画その他
『わたしの取材余話』吉村昭著を読む。取材をして、小説にするかしないか決めるという瀬戸際みたいなものがあるようだ。戦艦武蔵が出航する姿を見た人物がいて、その人物に取材をするのだが、この人が自分のそのことを話すことによって、憲兵に捕まるのかを恐れるというのだ。今の時代に憲兵などいないのだが、トラウマとして残っているということだ。本当のことを話したらつかまってしまうという時代があり、その時代のことを思い出す人たちがまだ存在するということだ。

日本初の心臓移植手術をとりあげ、その手術の不可解さを解明しようとする話も面白かった。脳死というルールが確立していない時期の心臓手術の話だ。心臓を提供する男性の不可解な死、移植される男性の、移植が本当の必要なのかということなど、興味深い話だった。心臓を提供する男性は本当に死んでいたのか、心臓を移植する男性は本当に移植が必要な症状だったのか、疑問にの頃手術だったのだということが分かるお話が掲載されている。

この心臓手術の話以外にも、牢獄から何回も脱獄した男の話である『破獄』などを書くにあたっての取材のようす、取材の苦労などが分かる本だった。吉村昭さんの人となりも分かる本で、楽しく、短時間で読むことができた。取材をするときに、話をしてもらうことが出来る環境をつくることの大切さを学んだ。人は簡単に当時のことを話そうとはしない。そこを聞き出すというか、聞くことができるようにすることがこのような小説を書く人の苦労なのだということがよく分かる本だった。
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by qzr02421 | 2011-04-26 21:21 |
森毅の『森毅の置き土産』を読んで、印象に残ったことをまたまた記す。学問は、わき道の効用がある、目的に一直線より寄り道をするいとで幅が広がるのだ。誤りを味わうことも大切だ、間違えないようにするより、間違いに気がつくようになることのほうが大切だ。無駄な道草こそ楽しいし、真理に近づく近道なのだ、最短距離で行って何の意味があるのか。トコトンやることも大切だ、熱中することも大切なことなのだ。頭より心と体が大切だ。知識や知恵を自分の心と体になじませる努力をすることのほうが効果的なのだ。

週単位で動くことがどういう意味があるのか、自分のリズムで生きることはできないのか。役にたつことが大切なのか、好きにやることのほうが大切なのではないのか。その昔教師は放浪の芸人のごときものだった、教師と生徒の縁は浅く学校を通り過ぎればそれまでだ、たかが学校なのだ、国家のために教育があるわけではない、教室という空間で教師がパフォーマンスをするのはそれが芸のだからだ、教師の熱演につきあう必要はないのだ、つまらないものはつまらないのだ、チンドン屋のような気分で授業をすることがよいのだ、チンドン屋こそ教師の適性の第一だ、道化が大切ということだ。

人間はいつか死ぬものなのだから、なるべく生きているほうが面白い、楽しもうということが大切なのだ、いやなことを楽しむ能力が必要となる、物事は楽しんだほうがよい結果をもたらすと信じている、人間は病気になろうとその翌日死が迫っていようが、その一日を生きるしかない、メメント・モリつまり死を忘れるなということだ。

すべてのことは人間の生活の上に成立しているという実感が大切だ。のんびり思考すること、のんびりすることは勇気がいる、我慢がいる、知恵がいる、賢いとは頭が器用ということなのだ、器用ということは上滑りで理解が表面的ということでもある、ニブイとは手間がかかるけれど分かることのコクがあるといことでもある、分からないままに抱えておくことができるのがニブイといこと、それは悪いことではないのだ。
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by qzr02421 | 2011-04-25 19:32 |
森毅の『森毅の置き土産』を読んで、印象に残ったことをさらに記す。個人は組織に優先する。組織と個人の関係で日本は組織が優位にたっているようだ。たっているようだ。たっているようだ。組織とは個人が自分の都合で利用するもののはずだ。自由と競争は並存する問題か。競争をするためにはルールが必要だ。ルールがあるところに完全な自由があるのだろうか。自由とはなにかともう一度問い直すことが必要だ。

怒りより笑いが大切だ、けしからんと怒るより、アホやなと笑うほうが心が健全となるはずだ。政治などは怒るより笑いのしたほうがよいのだ、笑いは自分が楽しむための道化として相手を利用しているだけのことなのだ。世の中は人間の予想以上の変化するものだ。想定外が世の中なのだ。想定外などという言葉を使うのは、世の中を知らないということにすぎない。

人間にとって自分のいる場所をよく生きるだけが自分の生きる場所なのだ。人間も社会も変わるのだから、その場所は移る変わるものだ。青い鳥をよそに求めるより、いまここで生きることのほうが人間にとって大事なのだ。自分の場所を固定しないで、ありのままの場所を自分の生きる場所とすればよいのだ。

分かるときは突然分かるものだ。今まで難しいと思っていたことが、突然簡単に見えてくるのだ。分からないものの風景を眺めていることが大切なことだ。問題を解くことを急ぐことはない、分からないことに対してどのように付き合っていくかが重要なことなのだ。解き方を覚えても、次の問題は解くことができないものだ。
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by qzr02421 | 2011-04-22 09:38 |

楽しめる劇だと思う

小川未玲作「お勝手の姫」の音響を依頼され、その本場が明日から、つまり4月22日から3日間あるのだ。少し古いようなフレンチのレストランでお見合いとしてる若い男女、この劇団は年配者中心なので、若くしている男女といったほうがよいのだが、見合いは、女性中心で進んでいく。女は結婚するつもりで見合いに来たのだが、男は無職で結婚を断るつもりできているという設定だ。

この女が積極的に見合いを展開している。男と女の関係を楽しめるとよいのだ。そこのタキシードを着た中年の男、中年というより老年なのだが、それとドレスを着た女性が入店する。二組が織り成す不思議なドラマ、そこのこのレストランの怪しげなギャルソンが加わるのだ。

レストランなのでバックグランドミュージックということだ。いろいろな音を考えることができるが、今回は演出家の希望でクラシックということになった。クラシックといっても交響曲では重くなりすぎるので、ピアノ曲やバイオリンなどの曲を選曲してみた。フルートの曲もよいかもしれない。フルートと琴の合奏もよいかなど、結構選曲に悩んだのだ。一曲だけビバルディーの四季を選んだ。

4月22日18時半、23日14時と18時半、24日14時の四回公演だ。場所はひまわりホールという人形劇を主に行う劇場だ。100人も入れないこじんまりした劇場だ。劇というのはこじんまりしたほうが風情があると思う。不思議な男女の会話を楽しむことが出来る作品だ。クラシックの曲をどれくらいマッチしているのか、お楽しみなのだ。
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by qzr02421 | 2011-04-21 22:06 | 劇,映画その他
森毅の『森毅の置き土産』を読んで、印象に残ったことを記す。冒頭「くせにとだから」が面白い。「子どものくせに」批判されても、子どの時代にしか発言できないことがあるはずだ。子どもだから発言できることを否定するための言葉が「くせに」というのだ。「くせに」という言葉は差別の源泉となる。「おんなのくせに」がその差別の例なのだ。人間はどのような条件にあっても自分の意見を主張する権利を持っているはずだ。子どもだから発言するということの重要性を指摘している。

関東と関西は文化がちがう、関東は建前を重視し、関西は本音を重視していた、戦時中の空襲に思い出で関東は火を消そうとむなしい努力が語られ、関西ではあきらめて逃げ出す話が中心となるそうだ。空襲の一連の行動である消火とじで重点の置き方が関西と関東とはちがうのだ。脱税についても関東ではそのよう許せないという反応だが、関西では上手いことがやっていたのか、つかまったのかあほやなとなる。

人間は10年先を予測する能力はないという。現在を生きていて、その現実を批判してもそれは抽象的批判にすぎない。批判していても苦もなく生きているのだ。10年先にリアリティを感じることはできない。現実は変化しても、人間の心は文化だから、なかなか変わらない保守性を持っている。体はぼろくなっても心はなかなか変われないのだ。社会に伴って変わるのは心ではな人の体だというのだ。

人の気をつかえというが、本当は自分に気をつかうことが大切なことだという。他人の心を想像する前に自分の心を見つめることからはじめることが大事なのだ。他人を気にすることと自分を気にすることのバランスをとることを考えることを実行することが大切だ。愛を問題とするなら、自分を愛することからはじめることが大切だ。自分をいとおしむことなしに、他人を気にすることはできない。
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by qzr02421 | 2011-04-20 21:02 |

400点の浮世絵は壮観だ

法然上人は八百回忌だったが国芳は没後150年にあたるのだそうだ。今回の展示はそれを記念して開催しているとのことだ。代表作ははじめとして新発見や初公開の作品を含めて400点あまりが展示してある。浮世絵だからそれほで大きいわけではない。それなりの大きさの作品がずら~と並んでいるのは壮観だが、じっくり見ると疲れてしまう。

小さくてたくさんあるということは、展示の間隔が狭いということだ。ということは並ぶということだ。確かに並んで見ていた。何故並ぶのかといったら、背が低いからとの意見があったが、400点あまりあると、並ばずに、所々人がいない作品を見たほうが疲れないような気がした。しかし多くの人たちは、最初から並んでいた。各部屋の最初では行列となっていたが。途中ではゆっくり鑑賞できるスペースもあった。

並ばなくてよいように展示の配置を学芸員が考えるべきではないのだろうか。それにしても400点は多い。じっくり見るだけのエネルギーがない。水滸伝の武者絵、役者絵、美人画、戯画などの中で、興味を引いたものを中心にして鑑賞した。クジラや骸骨、猫など動物など面白い作品が多かった。パンフレットには史上最大級の規模で開催しているとあったが、その通りだと思った。

それにしても国芳人気はすごいものがある。13時頃行ったのだが、このときもこんでいると思ったが、ざ~と見て、14時頃もう一度最初から見ようとしたら、13時よりもっと人が多くなっていたことに愕然とした。列も長くなっていた。いちどざ~と見ているので、気になった作品を中心にもう一度見たのだが、国芳人気にもう一度びっくりした次第だったのだ。
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by qzr02421 | 2011-04-19 19:42 | 劇,映画その他