本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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文化人や知識人は映画というものを尊崇するがテレビドラマを軽視するのはなぜか、映画マニアはて、通ぶるのだが、テレビドラマの通は軽蔑される。映画の方が伝統があるからだろうか。映画の方がお金がかかっている場合が多いには違いがないが、お金がかかっているから高度な文化ということにはならないはずだ。

映画「フーテンの寅さん」はなぜタバコを吸わないのかという疑問がある。寅さんは女性とよい仲にもならない。寅さんがタバコを吸うと二枚目になってしまうからという説もある。テキヤとタバコは相性がよいということだ。タバコを吸うと知的に見えるというとはない。ソクラテスも孔子も仏陀もタバコを吸ってはいなかった。タバコは近代に入り世界中に広まったものだ。

村上陽一郎は17世紀の聖俗革命とタバコとの関係性を指摘している。かつて聖なるものが分けていた時間をタバコによって時間を分節するということだ。渥美清は若い頃結核で片肺を摘出しているので、物理的にタバコを吸う意ことがないという事実はあるにせよだ。

タバコとは関係がないが、戦国から江戸時代の映画やドラマで武将が「攻撃は来週あたり」などと言っていたら、それは間違いだそうだ。来週という言葉は明治以降に出来た言葉だそうだ。そういう観点で戦国から江戸のドラマを見るとおかしなことが多いことに気がつくのだ。
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by qzr02421 | 2011-03-31 22:22 |

事実と真実のちがい

事実ではないが真実がある、感動つまり人の心を動かすこと、感動は変化の瞬間を見たとき起こること、人の行動のきっかけは動機が必要、リアリティとは人間の真実だということ、必然がない変化は無意味ということ、世阿弥が言ったように「新しきこと、珍しきこと、面白きこと」が大切、説明ではなく描写するということ、視点が大切ということがシナリオを書く秘訣だそうだ。

書くのではなく描くということ、新井一の『シナリオの虎の巻』より印象に残ったことを書いてみた。動機というのは必要なことだ、動機がないと舞台では動くことができないものだ。動機がなくて動くとその動きは段取りか、うそっぽく見えるのだ。動機というのは心の動きなのだが、それが客に見えるということなのだ。心を見ることができるということはすごいことなのだ。

劇のセリフは説明になってはいけない、テンポとリズムが大切、シナリオと戯曲はちがう、正直なセリフは面白くない、つまり説明になったセリフは人を感動させないということ、質問が人を進歩させる、素朴な質問とは自分がやってみたとき感じる疑問のことだ、突然かけなくなるのは才能がないのではなく思考のプロセスなのだ、意外性のある題名が人をひきつけるのだ。

よい悪いではなく使えるか使えないかという発想、完全を求めないこと、完全と思ってもそれはいつも不完全なのだ、面白さの要素はディテールにある、外国の漫画は横位置で日本の漫画は縦位置なのだ、二人が向かい合うのが横位置で一方の視点で描くの縦位置なのだ、文章を上達させる秘訣は本を多く読む・多く書く・推敲を何度もすること、遊びが大切、桃太郎でおばあさんが桃を拾えないとき「あっちの水は苦いぞ、こっちに水は甘いぞ」といって桃をこちらに来させるというのは遊びというものだ、ストーリーを遊びでふくらませるということ、人間は優越感を感じたとき笑うということ、ヒストリー・ロマン・音楽・女・風景画の五つがポイントなど何をするときにヒントになる言葉満載の本だった。
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by qzr02421 | 2011-03-30 18:09 |
小谷野敦の『軟弱者の言い分』に「自分を見つめても何も見つからない」、「自分探しをする」ということは「生きていることが面白くない」ということの裏返しだ」と書かれている。今の現状が楽しければ、それで満足していれば、生きる意味や、自分を探すことはないというのは真実に思える。お腹がすいていなければ、食事のことなど考えないはずだ。

この本には「口が上手い奴は信用できない」と書かれている。ただし「芸としての落語」は素晴らしいともある。立て板に水のように話しているセールスマンはうそ臭いとうことだろうか。セールスマンでもとつとつと説明しているほうがまじめそうな感じがする。この間、名芸の「烟突のあるオアシス」では、二人の新人を迎えての劇だった。この二人の新人のうち男性の方が、とつとつとセリフを言うのだが、せりふを忘れたのかということと、一生懸命セリフを言おうという間の状態だった。

劇を見ていて、その男性の演技に思わず頑張れと言いたくなった。女性の方の初々しい演技で、まだ怖いものがないという演技も面白かった。段取りがあるのだろうが、その段取りが段取りらしく感じらなれないものよかった。ストーリーは働く人が労働者と呼ばれていた時代で、コーヒーが60円の時代を舞台として、電気メーカーで働く人々の出会い、その出会いを心配する組合活動家などが登場する。

45分という短い劇だったが、労働者の青春を感じることができるものだった。男と女が出会い、夢を語りあうということは素晴らしいことだ。現実は分かっているが、それでも夢を語り合うのが若さというものだ。現実の厳しさをじゅうぶん分かっての夢というのは、誰しもが持っているものだろう。
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by qzr02421 | 2011-03-29 18:29 |
小谷野敦の『軟弱者の言い分』に「やりたいことが見つからないのはやりたいことがないだけだ」という文章がある。やりたいことがどこかにあって、それを探すということはありえないということだ。やりたいことが自分以外のどこかにあるわけでなない。みつからないということはやりたいことがないのだ。

そういうときには何でもやってみればよいのだ。やっているうちに、そのやっていることが面白くなって、それがやりたいことがだと思えるはずだ。自分探しも同じだろう。自分以外のところに自分があるはずがない。自分を自分以外のところに探しに行っても、そこには他人がいるだけだ。自己を表現するということも同じだ。

表現すべき自己が存在しなければ、表現できるはずがない。英語ができないというのも同じだ。英語で表現すべき事柄が自分になければ、英語は上達するはずがない。受験英語で高得点を得る秘訣は、英語の単語や構文を覚えることではない。国語力と社会科力を身につけることだ。英語の文章の内容は社会的事象や国語的な文章のはずだ。

自然環境の知識や、文学の知識がないのに、その分野の英文が理解できるはずがない。公害について書いている英文を読むとき、社会科で学ぶ公害の知識が役立つのだ。英語が社会などを理解する道具ということを知ることが、英語力アップのすべてなのだ。
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by qzr02421 | 2011-03-28 19:19 |

友に持ちたくない人とは

小谷野敦の『軟弱者の言い分』に吉田兼好が「友に持ちたくない者」として「体が丈夫で病気がないもの」と書いていることに共感している。病気がなく元気な人が体が弱くて、すぐに疲れてしまう人の気持ちが分からないということだ。現在では花粉症についてもそのことが言えるだろう。花粉症でない人は「かわいそうだね」とは言ってくれるが、実のところ花粉症の苦しみは理解できないものだ。

頭が痛いとか体がだるいということも同じだ。元気な人から見れば、だらけているとしか見えないはずだ。花粉症も、花粉症でない人からは、頑張れば出来るのにとしか見えないはずだ。病気を体験した人が、病気にかかっている人をやさしく見ることができるはずだ。そういう意味で、いつも元気な人というのは始末が悪いのだ。体調が悪いということを頑張りが足りないとしか見ることができないからだ。

心臓の手術をした後の、あのつらさを考えると、体調が悪くて横になりたいという気持ちがよく分かる。丈夫な人は自分が丈夫であるという認識がないようだ。丈夫な人でないと出来ないことがあるということは分からないのだ。「へとへとになる」ということが分からない人が友達だと、付き合うほうは疲れるだろう。人によって感じ方がちがうということが分からない人もいるが、このような人が付き合うことも疲れる。

最近テレビコマーシャルで金子みすずの詩が流されているが、彼女の「みんなちがってみんないい」という『わたしと小鳥とすずと』が好きな人が多いようだが、みんなちがうということが分からない人が多いのも現実だ。多いからこそ彼女はこの詩をつくったに違いないのだ。
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by qzr02421 | 2011-03-27 17:08 |
三菱東京UFJ銀行貨幣資料館で「雙筆五十三次」を開催している。雙筆というのは一枚の浮世絵を三代豊国つまり歌川国貞が人物を描き、風景を歌川広重が描くというものだ。合作の浮世絵ということだ。当時人気があった浮世絵師の二人が、自分の得意分野で勝負したという作品だ。各宿場あてに一枚ずつ、宿場に関係する風俗・戯曲・故事・説話などを題材に描いている。

当時の人がどれくらい風俗・戯曲・故事・説話というものを知っていたかが分かる。本歌取りというようなものだろう。各地の風景を文学的な関心で見ていたことを示しているようだ。知立では在原業平のかきつばたを題材にしているようだ。当時の人というか、日本人の教養を示している作品が多い。人物画と風景画という組み合わせがよい。

3月8日から5月8日までなので、いつか行こうと思っていると、終わってしまうものだ。入場無料なのだから、時間を見つけて見ることだ。行くんだという意気込みが大切なのだ。浮世絵は地味な感じがするが、奥が深いような気がする。じっくり見ると、また新しい発見もあるはずだ。五十三次のそれぞれの作品は味わいがあると思った。

じっくり見るもよいし、ざ~と絵を見るだけでもよいものだ。よいものをたくさん見るということが教養を高めるということだと思う。教養などなくても生きていくことは出来るが。それでは生きることの面白みがない。いろいろなことを体験していくことが生きるということなのだ。何でも体験することが生きるということだと思っている。
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by qzr02421 | 2011-03-26 21:43 | 劇,映画その他
大学は入ることが重要で、出ることはあまり重要視されない。東大中退といわれると、東大に合格することが出来た能力があると評価されるのだ。東大を卒業できなかったことは不問なのだ。不思議なことだ。50歳過ぎても、どこの大学ですかと聞かれるのだ。
大学を卒業してからの30年間は評価されないのが現実なのだ。大学で授業、卒業してからの30年は無駄な人生ということだ。

大学中退ということは高卒ということなのだが、東大中退は高卒でありながら、社会ではある一定の評価をもらうことができる。このような評価を社会が与えるのなら、カンニングをしてでも東大や京大に入学したい思う受験生がいても当然だろう。カンニングをして入学したら、大学生活を楽しむことができないし、成績も悪いとコメンテーターが言っていたが、東大・京大に入学したことが評価されるのだから、そのようなことは関係はないのだ。

ところで、テストとつくるとき思うことがある。知っていたら解答が書けるが、知らなかったら書けないという問題の意味があるのだろうかということだ。知識を問うのはクイズと同じだ。記憶力があれば成績がよくなることが当然だ。しかし、記憶力がよい生徒だけを評価してよいのだろうか。人間の能力は記憶力だけではない。想像力、構成力、対応能力などをもっと評価できないものだろうか。

テストの問題は正解があるが、世の中の問題には正解があるのかないのか分からないことが普通だ。未知の問題に取り組み、必要なら書物やネットを利用して、限られた時間である程度の成果をあげることが出来る能力を持つ人間を育てることこそが、いま求められているような気がする。このような問題を解くときにはカンニングなどは存在しない。あるとすれば知的作業の窃盗とういうものだろう。著作権侵害といってもよいのだ。未知の問題に果敢にチャレンジする人間がいまこそ必要と言うことだ。
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by qzr02421 | 2011-03-25 22:41 | 日常
地震のニュースで流れなくなったニュースがたくさんある。カンニングのニュースもそのひとつだ。東北地方の災害に比べれば些細な事件に思える。しかし、京都大学でのカンニング事件も組織的な犯罪ではなく、単なるケイタイを使用した単純なカンニングということだった。あれだけ大騒ぎしたマスコミはきっとガッカリしたにちがいない。カンニングをしたことがないという人が少ないのか、カンニングは悪いことですという識者の歯切れが悪いのが面白かった。テレビ番組で、「カンニングをしたことあるでしょ」とふられたコメンテーターが「ないとしか言えないじゃないですか」などと白鵬のようなことを言っていたのが印象的だった。

カンニングは何故悪いのかと改めて問う人がいないのにもびっくりした。カンニングは不正行為で、正しい競争が出来ないからダメというのは建前的な発言だろう。人の能力は平等ではないのだ、努力すれば京大や東大に入ることができるわけではない。もともと人間の能力は平等ではなく、不平等な競争をしているのがテストというものなのだ。平等幻想があるので、頑張れば出来るなどと励ますが、頑張ったってできないものが出来ないのだ。

イチローになることが出来ないということがわかっている。運動能力の差があることが分かっているのなら、知的能力にも差があることが分かるはずだが、分かりたくないのが現実だろう。能力の差があるテストに、カンニングの能力を持った人がその能力をしようしたということ過ぎないのだ。見つかるカンニングはダメだということに過ぎない。

大学に入ると定期テストがある、持ち込み可能という試験も多いし、問題があらかじめ分かっているような試験もある。何を持ち込んでも、問題が事前に分かっていても、能力の差があるので、成績の差が歴然と出るのだ。実力のある人間の答案というものが存在するのだ。ダメなやつは何を見てもダメと言う残酷な現実があるのだ。これが残酷な現実と言うものなのだ。
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by qzr02421 | 2011-03-24 14:36 | 日常
だいぶん前に共同購入サイトグルーポンで購入した居酒屋の予約をした。土日は使用できず、金曜日も予約しにくいということだったので、火曜日ならと電話した。東北の震災前に電話したときには満席との返事だった。そこでいつなら予約できますかと聞いたら、次の日の水曜日ならオッケーとのことで、水曜日を予約した。その後この水曜日が都合悪くなり、今一度予約を取り直した。

今回は震災後だったのでキャンセルがあったかもしれないと思い、前回満席との返事の火曜日は?と聞いたらあいているとの返事、そこで火曜日を予約した。18時からの予約をした。店の名前は「鉄生」というマグロづくしのコースだ。4400円のコースが半額、二人で4400円、飲み物は一人三杯までというものだ。

18時すこしすぎの店についた。名古屋駅の西側でスーパーホテルのより西側にある。スーパーホテルを西に曲がった次の道に到着すると、そこの「鉄生」の店が見える。このあたりは世界の山ちゃんなどがあり、飲み屋が多いようだが、名古屋駅から5分ほどの距離だが、ここまで多くの店があるので、ここまでたどり着くためには、この店の魅力を高めることが必要なのだろう。

店には客はいなくて、私たちは最初の客だった。そのご三々五々とお客さんが来店した。マグロづくしコースの量は決して多くはないが、上品な味で満足した。最初ビールであとの二杯は日本酒の冷酒を飲んだのだが、これも美味しかった。マグロの刺身やマグロのしゃぶしゃぶ、マグロの焼いたものなど、マグロが好きな人にはお勧めだ。量が少ないのでヘルシーでもある。たくさん食べたい人には向かないと思うが、味はよいと思った。共同購入はお得なのだが、予約を取るとき、希望する日に行くことができないことがあるという欠点がある。しかし半額で食べて飲むことが出来るのはよいことだ。店の経営はどうなのかと心配にはなるが・・・
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by qzr02421 | 2011-03-23 17:47 | 日常

日常をしっかり生きたい

伊那での二日目、綿半というスーパーのような、いろいろ売っている店に行った。プレハブ、苗木、花、石、工具、最近は食料も売っている店だ。伊那に行くと必ずといっていいほどよく行く店なのだが、いつもはそれほど混雑していないのに、今回は、地震の影響なのか、人人人だった。灯油やトイレットペーパーは購入制限があった。

購入制限というものは人に不安感を与えるものだ。製品はあるのだが、物流でたまたま品不足になることがあるのだろう。棚に商品がないと、人間は焦るものだ。いまは彼岸なので、彼岸に関係ある商品が多く並べられていた。品物はきちんと並べられていたが、それにしても、モノを買おうとする人が多いのにはびっくりした。

中央自動車道で往復したが、道路は結構すいていた。名古屋から伊那に向うときには東北に向う緊急自動車を見た。サービスエリアのガソリンスタンドは一般車に給油制限を実施していた。そういう光景を見ると、災害の雰囲気を感じた。伊那から名古屋に帰ったときに給油したが、そのときには給油制限がなかった。地域によって今回の地震の被害の影響がちがうということが分かった。

テレビも日常の番組に戻りつつある。今後は復興に向けての作業に移っていくのだろう。多くに人が亡くなっているが、生きている人は、悲しみを乗り越えて生きていくしかないのだ。いよいよ春になっていく。明るい気持ちを持って、これから一年生きていきたいものだ。
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by qzr02421 | 2011-03-22 12:26 | 日常