本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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不健康ではだめなのか

昭和の初期は「健康」という言葉がキーワードだ。健康が大切というのは当たり前のことだが、健康というのはどのような状態だろうか。生きていて健康な状況がどれくらいあるのだろうか。不健康な状況が普通で、たまに健康な状態があるのが現実だろう。頭が痛かったり、便秘だったり、二日酔いだったり、腰やひざがいたいのが当たり前の状況なのだ。

自分の体の調子が悪いのが日常で、それをだましだまし生活するのが生きるということなのだ。健康志向は「いのちの序列化」を生むのだ。不健康な人は生きる資格がないといことにつながる。当時、「らい予防法」や「土人保護法」でハンセン病の患者やアイヌを差別していったのだ。健康で天皇制を守る日本人こそ生きる資格があるというのだ。

日本人は素晴らしい民族で、この日本こそ楽園だと信じていたのが当時の人々なのだ。山川菊枝さんもそのように感じたといっている。教育の効果は絶大なのだ。日本は楽園、優秀な民族と信じた日本人がはじめたのが侵略戦争なのだ。どうして戦争への道を歩んだのかという疑問がいつも頭の中にある。4つの恐慌でボロボロになった当時の日本人はどのような選択をしたらよかったのか。

カルチャースクールの講座では浜口雄幸内閣の金解禁、産業合理化、デフレ政策という内政、外交的には協調外交ということでどのような選択が日本にあったのかを読み解こうとした。昭和の初期の日本は貧しかった。その中での選択なのだ。貧しさを忘れてしまった現在の日本人には分かりにくい時代なのだ。
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by qzr02421 | 2011-02-28 13:34 | 日常

地震は怖い

ニュースはニュージーランドの地震とリビアのデモを放映している。リビアはカダフィー大佐が徹底抗戦を決意したということだ。天安門のようにするといっている。天安門を出された中国は困っているだろう。中国でも同じような民衆の動きがあるのだ。リビアは安泰と思っている人が多いようだったが、混乱するときには混乱するものだ。中国も他人事ではないということだ。

リビアでの死者は800人を超えるということだ。傭兵という言葉を久しぶりに聞いた。カダフィー側は傭兵で市民を攻撃しているとのことだ。軍隊と傭兵はちがうのだろうが、今後は兵器を持っている人たちがどのような動きをするかがポイントとなる。リビアの動きがさらに広まることを、あの地域の支配者は心配していることだろう。どの時代も支配者階級は枕を高くしては寝る事ができないようだ。

リビアは800人の死者というニュースにたいして、ニュージーランドでは地震に被害が伝えられている。外国語学校の倒壊で日本人の被害が報道されている。被害が少ないことを祈るのみだ。日本政府が日本人の救出、救済に乗り出すのは当然のことだ。民主党にしては対応が早いという印象を持った。現地に行かないとどのような援助がいるのか分からないが、日本人を含めて被災者の援助に力を尽くすのはよいことだ。日本人だけ助けようとしないのが、日本人の信頼を高めるのだろうが、ともかく日本人の救出をして欲しいものだ。

日本政府の対応は邦人の保護でよいのだが、マスコミは日本人だけでなく、ニュージーランド全体を心配している記事を出すべきだと思う。日本人の命も大切だが、日本人以外の命も大切だ。命に日本人も外国人もないのだ。日本人ばかり流しているのは、グローバル化した世の中に対応しているようには思えない。さまざまな角度から被害を伝えるべきだと思った。
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by qzr02421 | 2011-02-24 21:43 | 日常

世界は大変だ

上野動物園の中国からパンダが来るという平和なニュースがあった。東京都知事の石原さんは「僕はパンダが嫌いだ」と言っていた。石原さんの言うことは反対なことが多い、中国と支那といったりするからだが、このパンダの発言には賛成だ。中国のパンダ外交には賛成できない。パンダのリース料を考えたら、中国との関係を考えたら、ノー天気に、パンダの来日をよろこぶ気にはなれない。よろこんでいる人とマスコミはどういう神経をしているのだろうか。

尖閣であれほど怒った報道をしたマスコミが、パンダ歓迎をする神経が分からない。パンダのニュース以外では小沢さんの問題だ。この問題もよく分からない。政治とお金の問題は政党政治に付きまとう問題だ。お金に群がる国民にも問題がある。小沢さんだけ取り上げて攻撃することもよく分からない。こういうリンチみたいなものは好きにはなれない。小沢さんが好きではないが、小沢さんを攻撃する人たちは嫌いだ。

菅内閣は情けないかもしれないが、これを攻撃する自民党はもっと情けない。財界が国会議員は政局ばかりで国会で真剣に論議していない、税権泥棒というのはその通りだろう。リビア問題、農業問題そしてニュージーランドの地震など、政争をしている場合ではないのだ。民主党が弱っているときに政権奪回をもくろむ自民党は、政権が欲しいだけとしか見えない。国民のことを考えているようには思えない。

リビアなど中東からアフリカがどうなるのかも心配だ。石油はどうなるのか。こういう危機に投機で儲けようとする人たちを批判しているけれど、資本主義は儲けようとする人たちが作り世界なのだ。そういう世界に生きているということを確認したほうがよい。儲けることが大切ということなら、儲けるために政争をしている場合ではないことは明らかなことだ。日本が沈没することを防ぐためにも、政争をやめて、景気回復、これが難しいことなのだが、それでも真剣に、自民党や民主党は取り組んで欲しいものだ。されに言えば、文句ばかり言っている「みんなの党」は好きにはなれないのだ。
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by qzr02421 | 2011-02-23 19:48 | 日常
カルチャースクールで20世紀を話している。結構受講生が多くなって、教室が狭いためにもうこれ以上はいることが出来ない。満員でよいのだが、歴史では「最高」「全盛期」「領土が最大」「絶好調」という言葉は没落の始まりと考えるのが一般的だ。そこで「この講座もこれが最高ですね、これからは受講生が減少するでしょう」といったら。「歴史通りにはならないともあります、考えすぎですよ」といわれた。考えすぎならよいのだが・・・

20世紀、大正から昭和に移る時代だ。1926年から昭和だ。男子普通選挙法と治安維持法が制定されたのが1925年のことだ。当時の政治家が考えたのは、大衆を信じることができるかということだった。大衆は世論によって右往左往して正しい決断ができないのではなのか。そのような大衆に選挙権を与えたよいのかと考えたようだ。だったら、政治家が正しい判断をすることができるのか問いたいものだ。

当時の体制は天皇制の維持と私有財産制の堅持を目的として治安維持法を制定したのだ。この時代のキーワードは『無産階級』というものだ。有産階級と無産階級という階級が当時の日本にはあったのだ。階級というものが存在した時代が日本にもあったのだ。無産階級は有産階級がつくる当時の日本の体制の絶望していたように思う。戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌そして昭和恐慌と、庶民の暮らしはどん底だったのだ。

そのどん底から見えた明るい世界が満州だったのだろう。満州は日本の生命線という言葉が生まれる。そして戦争への道を歩んでいく。疑問としては、なぜおろかな戦争への道を歩んだのかということだが、未来から過去を断罪することはできないと思う。当時の人は、最良の道として最悪の道を歩んだということに過ぎないのだ。いま私たちが洗濯しようとする道が最良とどうしていうことができるのか。
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by qzr02421 | 2011-02-22 18:58 | 日常
高嶋哲夫さんの自然災害三部作は『M8』、『TSUNAMI』、『東京大洪水』だ。地震があれ、沿海部では津波の危険性があるのだ。突然の大雨では、洪水の危険性があるということだ。自然の驚異は人間の予想を超えているものだ。100年に一度の災害に備えるという言葉があるが、そのような対策では何ともならないのが自然災害なのだ。防災などできるはずがないと言っている人もいる。災害は防ぐことはできない、災害が起きたとき、どのようにするかということを考えることが必要というのだ。

富士山が噴火する日もあるかもしれない。地震後の復興対策は万全のようだ。マニュアル化しているのだが、マニュアルにあるように簡単に復興できるとは限らないのだ。マニュアル通りにはいかないので、臨機応変に対応することが大切だという。計画通りにはいかないことを念頭に置くことが必要なのだ。地震はいつか起こる、しかも防ぐことができない。「100パーセントおこることが分かるが、いつおきるかはできないのが地震なのだ」

原子力発電所の事故もあつかった小説も書いている。『原発クライシス』と『冥府の死者』だ。原発は危険なものという基本認識が必要だ。危険だけれど、エネルギー問題の中で、必要だし、この問題は危険ということだけで避けるわけにはいかない問題なのだ。浜岡原発が壊れる地震がもしあれば、その時は東海地方全体が壊滅的な被害を受けたときだそうだ。

この原発をこれから世界では300基作る計画があるそうだ。中国では53基、ロシアでは16基計画され、ベトナムやUAEの原発はロシアと韓国が受注したそうだ。これだけの原発を作り、本当に安全に運転することが出来るか心配だそうだ。中国で原発事故があれば、黄砂と同じように放射能を含んだ物質が飛んでくることは間違いがない。現在のこういう問題はグローバルに広がるということなのだ。いずれにせよ、怖い時代が来たものだ。
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by qzr02421 | 2011-02-20 19:44 | 劇,映画その他
高嶋哲夫さんの講演を聞いた。演題は「いま、そこにある危機」だった。高嶋さんは『メルトダウン』や『M8』など原発事故や巨大地震など、ある種の危機を体験する人々を書いた小説が書いている。本人は別に危機を扱う小説家とは思われたくない。たまたまそういう依頼が多いだけだという。高嶋さんは神戸に住んでいるということで、阪神淡路大震災を体験したので、巨大地震に関する小説を書きたいと思っていたが、友人なのにも被害を受けている人がいるので、なかなか小説化できなかったそうだ。

『首都感染』では鳥インフルエンザを扱った。鳥インフルエンザやブタインフルエンザだけであれば人間の被害は少ないのだが、「殺処分」という言葉には恐ろしさを感じると言っていた。鳥インフルエンザが広まると周囲何キロの鳥が殺処分されるというニュースが愛知県でもあった。もし人間に適用したら、それは恐ろしいこととなる。インフルエンザで死んだ人がいたら、その死んだ人の周り何キロの人間を殺処分するということになるのだ。そうしないと被害が拡大するなら、人間の殺処分がありうることとなるのだ。これは怖い話だ。

鳥インフルエンザが本当の人間の間で感染したら、世界中で54億人が感染し、11億人が死亡するというのだ。世界の人口は65億人くらいだから、ほとんどの人が感染するということだ。少なく見積もると、世界で6億人、日本では3200万人が感染し、死亡する人は世界で4000万人、日本では64万人になるというともいう。推計なのでよくは分からないが、64万人という数字は怖い数字だ。

フランス革命では490万人、第一次世界大戦では2600万人、第二次世界大戦では5300万人、朝鮮戦争では300万人、ベトナム戦争では235万人が死んだといわれる。20世紀初頭のスペイン風邪では4000万人、14世紀のペストでは3000万人、明治時代の日本でコレラが流行したが、これでは23万人ほどが死んだそうだ。底辺となる世界の人口を考えると、新型インフルエンザの流行は怖いものがあるのだ。鳥の段階ですんでいるが、これからどうなるのだろうか。
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by qzr02421 | 2011-02-18 19:55 | 劇,映画その他

花蛍がでない!

井上ひさし原作の「頭痛肩こり樋口一葉」は花蛍という幽霊が主人公だと思う。この花蛍が復讐しようとするのだが、その復讐相手が分からない、そこで一葉が手助けをするのだ。結局復讐相手が皇后様ということで、復讐をあきらめるというような話だったような気がする。因果がめぐりめぐって世間全体を恨まないといけないということだ。不幸の原因は、誰でもなく世間全体が原因ということだ。

その「頭痛肩こり樋口一葉」の話を花蛍なしでやってみようという劇の音響を頼まれた。音は以前演じたものを借りたので、実際には音響オペレーターということだ。花蛍なしでどのようになるのか興味津々で稽古場に出かけた。稽古風景を見ると、花蛍なしでも結構よいという印象を持った。ともかく音を編集して、再び稽古場に足を向けた。

花蛍がでないので「頭痛肩こり樋口一葉」ということにはいかないようで「夏子を悩ます女たち」ということになった。名古屋シアターアーツ「シアターアカデミー」の終了公演ということで3月12日と13日におこなわれる。入場無料なので、花蛍なしの「頭痛肩こり樋口一葉」を見てみるのもよいと思う。まだ稽古中なので、どのような出来になるか分からないが、楽しいことは間違いがない。

場所は名演、映画館の地下の劇場だ。舞台と客席が近いのもよい。演じている役者の息遣いが聞こえるという経験もよいものだ。映画とはちがって、生身の人間が目の前で演じているのは、それなりの迫力がある。どこでセリフを忘れるのかというスリリングな体験もある。3月12日は14時と18時半、3月13日は14時という三回公演だ。花蛍なしの「頭痛肩こり樋口一葉」を是非見てはどうでしょうか。
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by qzr02421 | 2011-02-17 14:47 | 劇,映画その他

インフルエンザは怖いね

職場ではインフルエンザにかかった人がいるけれど、家庭でインフルエンザの人はいままでいなかったように思う。毎年自分自身が39度ほどの発熱をするのだが、しかも11月から1月くらいにかけてが多いのだが、一晩39度体験すると、もちろん抗生物質は飲むのだが、次の日には熱が下がることが多い。次の日がだいたい日曜日が多いて、月曜日に病院にいくときには熱が下がっているのだ。

病院で検査をするとインフルエンザではない、どういう発熱でしょうねなどということで終わってしまうのだ。結局原因が分からないまま発熱を一年に一度ほどするということとなる。今回は妻が熱があるといっていた。耳鼻科にいったら、インフルエンザではないという診断だった。それが火曜日のことだ。火曜日の夜、妻の顔を見たら真っ赤だった。熱があるという感じだ。耳鼻科の薬を飲んでいたが、熱は39度を越してしまった。

次の日、つまり水曜日、今日だが、内科に行って検査をしたら、インフルエンザと診断された。火曜日にはインフルエンザ菌が検出されなかったのだ。少し検査が早かったということだろう。インフルエンザの予防接種は毎年受けているのだが、昨年は新型ということで、予防接種が順番とかで、それならいいやとうたなかった。今年は例年通りうったのだ。妻もうったのだが、感染してしまった。

妻は神経質なのか、消毒をしていた、トイレや玄関のドアノブなどをだが、もう遅いのかもしれない。うがいと手洗いをして、家族は様子をみるしかないのだ。感染するときには感染するのだ。それにしても、長い夫婦生活だが、インフルエンザと診断されたのは初めてだ。夫婦の歴史の新しい記録ができたということだ。感染というのは気をつけていても防ぐことができないことがあるのだ。それは鳥インフルエンザも同様のことなのだ。
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by qzr02421 | 2011-02-16 22:01 | 日常
新劇100年を記念して俳優館が朗読・リーディングのよる連続公演をしている。朗読と劇のちがいとは何かということがいつも頭から離れない。演劇の基本が朗読だという人がいるが、別なものとしか思えない。何か基本かということはいえないジャンルのような気がする。発声は同じかもしれないが、体を動かす劇と、体を動かさない朗読とは、どう考えても別ものとしか思えない。

朗読の場合は体を動かさないということで、演劇とはちがう工夫が出来るという意見もある。それはそうだろう。役ということをある意味考えなくてもよいということだ。13日、秋田雨雀原作の「国境の夜」の朗読・リーディングを見に行った。名古屋舞台芸術協会スタジオでの公演だ。地下鉄伏見駅から南へ行ったところにある、小さいスタジオだ。小さいスタジオは臨場感があって、それはそれで雰囲気はよい。

「国境の夜」の舞台は北海道の十勝平野だ。時代は大正時代。葛湯を飲むシーンから始まる。葛湯とは懐かしい飲み物だ。体が温まる飲み物だ。冬の夜、雪が嵐のように吹く、音響はMDを使用しないで、生音を使っていた。こだわりを感じた。大正時代は男は乱雑な言葉を使用するが、女は男に対して敬語を使う時代だ。男尊女卑そのものの会話が続く。明治から大正は家制度があった時代なので、そういう会話が普通なのだ。この会話は現代の女性から見ると、封建的の見えるようだ。

雪の夜、旅人が一軒の家に近寄り、一晩泊めてくれと頼むのだ。一家の主人はその旅人を家に入れようとはしない。盗賊の恐れがあるからだ。主人の妻と子は、家の中に入れてあげればというが、主人は頑として入れない。結局旅人は雪の中で死んでしまうことになる。朗読を聞いていると、家に入れればよいと思うが、この旅人が盗賊の可能性は
あるのだ。宅急便を装った強盗が現代ではあるのだ。道徳と現実の間の国境ということのようだ。理想は美しいが、現実はそれほど美しくないということでもある。
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by qzr02421 | 2011-02-15 19:26 | 劇,映画その他

相撲はスポーツなのか?

江戸時代には相撲は庶民が楽しんだ娯楽だったようだ。歌舞伎など同じ娯楽だったのだ。娯楽だから、楽しくしなくてはいけない。ガチンコで強い力士がいつも勝っているのは面白いようで、面白くないものだ。弱そうな力士が、強そうな力士をやぶるというのも楽しいものだ。娯楽という相撲というのが原点ではないのか。中日新聞の世論調査では以前から八百長はあると思っていた人が76%もいるのだ。相撲協会は八百長はないといっているのだが、ずいぶん認識のずれがあるものだ。

スポーツという概念がヨーロッパ発の考えだろう。正々堂々という概念はそもそも、日本にあったのだろうか。時代劇で、「正々堂々と戦おう」などと武士がいるが、そういう言葉を発するということは、そういう現実が少なかったということではないのか。ともかく勝てばよいというのは日本の思想ではないのか。

娯楽としての相撲が、明治以降の西欧のスポーツの正々堂々、ガチンコを取り入れて、国技としての地位を確立したように思っている。娯楽にスポーツを導入したことが間違いだったのだろう。八百長という言葉がよくない。見ている人を楽しませるのが相撲なのだから、娯楽的要素が強くてよいのだ。あれだけ大きい人間がガチンコで戦ったら、体がいくつあっても足りなくなってしまう。

きっと、江戸時代の相撲の風習が残っていて、つまり娯楽的要素が残っていて、今の相撲になっているのだ。外国力士が入って、スポーツ性が高まったということもあるのだろう。相撲は原点戻って、娯楽になればよいのだ。たのしいことが一番、それが江戸の精神だ。これを浮世というのだ。楽しんでナンボという精神で相撲の復活をしていけばよいと思う今日この頃なのだ。公益法人として存続する必要がないという人が62%なのだ。プロレスと同じ土俵でよいといことだ。親方が給料をもらいすぎということでもあると思う。興行にすればよいということなのだ。
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by qzr02421 | 2011-02-14 18:54 | 日常