本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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劇団四季の「スルース(探偵)」を久しぶりに見た。10年ほど前名古屋で上演されたが、日下さんが途中で病気になり、休演した演目だ。たまたま日下さんが病気なる前に見ることができた。日下さんと下村さんの二人芝居だ。二人で話し続ける、心理劇のようなものだ。体調が悪いと睡魔の襲われるような作品だ。最後の方で日下さん演じるワイクが「探偵物語のどんでん返しは2回までだ、3回はないない」というセリフが印象的だ。

ネタばれになるので、詳しくかけないが、探偵小説家のワイクの屋敷に下村さん演じるティンドルが訪問し、このワイクの屋敷の一室で物語が展開する。ティンドルはワイクの妻と浮気しているのだ。その浮気相手にワイクが攻撃していく、会話での攻撃だ。男同士の妻をめぐる会話が、凄まじい量ほどのセリフなのだ。

今回は志村要さんがワイクを演じる。相手役のティンドルは下村孝則さんだ。日下さんは台詞回しがゆっくりだが、今回の二人は同じようなテンポで話すし、迫力も同じようだ。日下さんのゆったりとした演技とは違うところが、緊迫感を増す。緩急がある作品と緊迫感たっぷりの作品の対比という感じがした。どっちが好きかは好みだろう。

1時間ほどの休憩で2場、ここで第一回目のどんでんがえし、この第二場でもう一度どんでんがえし、そして・・・今回も朝早く名古屋から東京に行ったため、第一場の途中で睡魔が襲ってきた。ストーリーを知っているので、多少目を閉じても、芝居が理解できる。寝ているのかおきているのか分からない状態で第一場を見た。なんだか夢の中にいるようで気持ちがよかった。昨日見た「あおきりみかん」の劇ではあまりのドタバタの睡魔はこなかった。睡魔が来る劇もなかなかよいものだ。
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by qzr02421 | 2010-11-30 20:33 | 劇,映画その他
昭和30年代、高度成長時代を迎えるころの日本は、上り坂にさしかかるところだった。坂を上るときは、貧しさから抜け出て、さらなる豊かさを期待することできる。貧しいけれど、未来に対して希望を持つことが出来た時代なのだ。それが昭和30年代という時代だ。この時代を創作人形で表現した展覧会が江戸東京博物館で開催されている。

JR総武線の両国駅で下車して、5分ほどあると、異様な巨大な建物が見える。両国国技館に隣接している建物だ。この博物館の常設展示もなかなか面白いが、今回はパスして、「安倍朱美創作人形展、昭和の家族」を見ることにした。まず最初の展示は東京新聞に掲載された『東京慕情-昭和30年代の風景』のパネルだ。東京タワーに下半分の写真、佃島の渡しが廃止されていうこと、蒲田の田んぼを歩いている花嫁と母、ちゃんばらをしている子どもたちなど、私の子ども時代そのものの写真が展示されている。

館内は谷川俊太郎の詩が流れている。「きずな」という詩だ。「ひとりをひとりにむすぶ 一ひとりをひとりにからます ときにはひとりとひとりをしばる みえないうんめいのいと ひとからひとへめぐりつづけるエネルギー あいしあうものをきずなはむすぶ にくしみあうものをきずなはむすぶ みしらぬものどうしすらきずなはむすぶ ひとりではいきてはいけないわたしたちのいのちづな きずな」というものだ。

安倍さんの人形は表情がよい、昭和のこどもや親、そして老人の生き様がよくあらわれている。ちゃぶ台を囲んだ家族、スイカを食べながら語らう家族、焚き火をしながら、芋をほうばる家族など、懐かしい情景が人形たちのよって表現されている。なにかほのぼのとした時間をすごすことが出来た。12月17日まで開催している。
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by qzr02421 | 2010-11-29 16:41 | 劇,映画その他

どうしたらもてるの?

劇団あおきりみかんの劇をはじめて見た。若い人が多かった。若い人というのは役者も観客もということだ。若い人の演技はスピードが早い、早いのはセリフも行動もともにということだ。舞台上を歩き、走り回る。エネルギーを感じる劇だった。劇名は「女の平和」だった。女の平和というのはアリストファネスのギリシアの古典劇の名前と同じだ。男は戦争が好き、女は平和が好きという設定の劇が古代ギリシアの劇だ。

古代古代ギリシアの劇は、男のおこした戦争をやめさせるために女たちが神殿にこもり、セックスストライキをするという設定だ。途中男を誘う女が出て、男がその気になると、神殿に逃げ込むというようなシーンもある。結局、男たちは戦争をやめるという筋なのだが、あおきりみかんの劇も、ハーレムをつくれば、平和になるというのが基本設定になっている。

主人公らしい女性が「わたし、もてたいんです、ハーレムをつくりたいんです」という絶叫から劇が始まる。その絶叫の反応する男性との会話で劇が進展していくのだが、話があっちにいき、こっちにいきということで、年をとった私には、それなりに楽しくはあったが、少し疲れる劇でもあった。若い人たち(私より若いし、きっと30歳よりもっと若い人たちが中心だろう)は、結構笑っていた。私も笑う部分もあったが、若い人よりは笑いがワンテンポ遅かったかもしれない。

もてたい女性が、もてたいということばを言うだけで、それだけではもてはしない。もてるためには、行動が大切だというメッセージを受け取るのは、私は年をとっているからだろうか。劇に教訓を求める必要はないのかもしれない。ただ純粋に楽しめばよいのかもしれない。楽しんで、楽しめぬけばそれで、劇は本望かもしれないと思った。
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by qzr02421 | 2010-11-28 22:41 | 劇,映画その他
キャラメルボックスが、来年早々に「夏への扉」を上演するというので、ハインライン原作の「夏への扉」を読んでみた。タイムパラドッスス関係の本は好きだから結構読んでいると思っていたが、この本はあまりに有名だから、読んだ気がしただけで、読んでいなかったようだ。タイムマシンを利用した作品は「クロノスジョウンター」シリーズがあるが、
キャラメルボックスはタイムマシンが好きなのだろう。もっとも私も好きだが・・・

「夏への扉」は、DVD化しないのが条件だそうだから、劇場に足を運ばないと見ることができない。原作を変えないということだから、1970年から2000年に主人公が移動するのだ。移動方法はタイムマシンではなく、冷凍化によるのだ。冷凍睡眠については、各国で実際研究されているので、やがて実現するだろう。2010年現在実用化されていない技術なのだから、ハインラインの先見性は素晴らしいものだ。

2000年の描き方が、あまりに先進的だ。この作品は1956年に発表されたものだから、この頃から2000年を見ると、このように見えた、あるいは予想されたのだ。予想と現実のギャップをどのように描くのかが楽しみな作品だ。この時代からまた1970年に帰るのだ。この発想が素晴らしいと思う。もちろん過去へはタイムマシンでないと帰ることが出来ない。タイムマシンで過去へ。過去の人が未来に来て、また過去にもどる。この過去から未来へは当然冷凍睡眠で戻るのだ。

なぜ、主人公は冷凍睡眠を決意したのか、なぜタイムマシンでまた過去へ戻ろうとしたのか、さらには、なぜまた冷凍睡眠で未来に戻ろうとしたのか。このあたりの事情を2時間の劇でどのように描くのかがとても興味あるのだ。原作を読むのに4時間かかるのだから、情景描写で時間を短縮するにしても、どのような作品になるのか楽しみだ。是非、劇場に足を運びたいものだ。
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by qzr02421 | 2010-11-26 16:03 |
大学院に進学して博士になると就職の道が開けると誰が言ったのか。道は開けないのという現実と書いた本が『ホームレス博士だ』。大学院に進学して、「博士」になればそれなりに地位を得ることが出来る時代があったらしいが、今はそのような時代ではないらしい。博士になり、その博士なりの業績を生かし仕事、つまり大学の正社員である講師、準教授、教授になることは限りなく難しいことのようだ。

大学から大学院に進学する学生を確保すると助成金が大学に入るそうだ。そこで大学側は
適当な学生を見つけては、大学院への進学をすすめるそうだ。すすめる学生がもちろん優秀な学生なのだろうが、実際大学院に進学しても、そのキャリアにあった、つまり「博士」という称号にあった仕事に就くこができないということだ。大学の講師は90分授業で、3万円ほどの収入を得るだけだという。

大学の教員は資格が要らない。高校の教師は、講師でも教員免許が必要だ。大学のほうが専門性が高い。高校は受験の授業が必要だ。大学講師と高校講師という二つの仕事があれば大学講師の方が格が上という感じはするが、経済的いえば高校講師の方が、収入はよいだろう。大学講師は名前ばかりで経済的裏づけがないということだ。高校と大学と比べれば、高校の方が授業がやりやすいということ事実なのだ。大学の授業が素晴らしくよいというわけでもないのだ。

親が将来を期待して大学院にまで進学させ「博士」にしても就職先が存在しないという現実があるということだ。「博士」の称号を持ってコンビニで働くということになる。親がその現実を理解できずに、子どもを責めて、その責められた子どもが精神的に変調をきたすということも多いようだ。文科省の「ドクター」を多くしようという政策と就職先の確保という政策の不一致が多くの不幸を生んだようだ。東京大学大学院の博士がコンビニで働かなくていけないという現実があるということだ。何か変な世の中ということだ。
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by qzr02421 | 2010-11-24 21:57
朗読発表会に行ってきた。さわらび朗読会という名前のようだ。主催者は田中幸子さんだ。さわらびというのは芽を出したばかりのわらびのことだ。朗読の力という芽を出したばかりの人たちという意味なのだろうか。朗読の対象となる本は自分で選び、それを田中さんが許可すれば、それが本日朗読されるのだそうだ。

朗読は辺見庸作『エッセイ・食いものの恨み』からはじまった。辺見庸という少し斜に構えた文章を書くひとからだ。彼がバングラディッシュのミャンマー難民を取材したときのことを文章にしたものだ。バングラディッシュの人とミャンマー難民と区別がつかないくらいの生活を目にし、しかも難民は国際赤十字からの援助があり、食料は無料で与えられる。それに比べてバングラディシュの人は援助がないのだ。同じような生活をしていて、無料で食料を供給される難民に対する風当たりが強くなるというような話だ。最下層での食料に関する恨みというものは、それなりに怖いものだ。

二番目は『耳なし芳一』小泉八雲著だ。よく知った話なので、それなりに理解が深まる。朗読調の人と演劇調の人がいるが、朗読調は格調が高い感じだが、それはそれで眠くなる。演劇調はイメージがわきやすく、個人的には演劇調で大げさなほうが好きだ。眠くもならないということもある。三番目は山本周五郎作『晩秋』だ。岡崎藩で緊縮財政を展開して恨みを買った側用人が、失脚し、刑に服するが・・・というような話だ。さくが周五郎という感じだ。原作がよいと朗読のよくなるということが分かる。劇の原作がよいと、それなりによくなるということと同じだ。

ここで休憩で後半は、芥川龍之介作『女』、田村隆一の詩『木』、津村信夫作『冬の夜道』そして村上春樹作『七番目の男』だった。芥川の『女』はメスの蜘蛛が子を産むという、女という生き方の凄まじさを示す作品だ。女の行き方のハードさを感じた。村上の作品はホラーのような人生のトラウマというか、不思議な作品だ。村上ワールドを感じさせる作品だった。少し眠いときもあったが、楽しい一時だった。
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by qzr02421 | 2010-11-23 20:44 | 劇,映画その他
ソーントン・ワイルダー原作「わが町」という作品は、もちろんアメリカのある町での日常の生活を描いた作品だ。演出家が舞台で説明しながら進行するという珍しいスタイルの劇だ。舞台もシンプルで、舞台セットらしきものはない。椅子とテーブルがあるくらいだ。コーヒーを飲むシーンや新聞を読むシーンもあるが、その手には何もないというくらいシンプルだ。あとは見ている人の想像力というものだ。今なら珍しくもないことだが、これが1930年代に生まれていることが不思議なことなのだ。

この劇を見たブレヒトは「進歩的な劇」といったということだ。映画にもなっているそうだが、あいにく見たことはない。この劇を、名古屋のある場所という設定で脚本を書き直した劇が「わが町・名古屋」だ。はせひろいち作、演出久保田明で、名古屋の劇団が7つ集まって合同公演をしている。ストーリーはとくにないのだが、ありふれた日常を描いているだけだが、ありふれた日常こそ愛すべきことなのだということが分かる劇なのだ。

主人公は町の人々、とくに中心となるのは新聞記者(編集長らしい)の家族と医者の家族だ。新聞記者と医者の家庭を中心に話が展開するが、時間が起こるわけでない。ありふれた日常が展開してくのが第一場だ。第二場では新聞記者の娘と医者の息子が結婚するという、これまた幸せなシーン続く。第二場では、この二人が結婚する経過を時間をまき戻して演じられる。若い二人が恋に落ちるシーンは、甘酸っぱいもだ。

第三場では結婚したけれど産褥で新聞記者の娘が死んで、墓場でのシーンだ。生きていることは窮屈なものだ。未来も分からないのにあくせくしているだけというセリフが印象的だ。死者は永遠だが、生きている人は永遠ではない。当たり前のことが当たり前に演じられている。生きている人は相手の顔をみないくらい、忙しく日常を暮らしている、もっと時間を大切にしたらよいのにというメッセージがあるが、その通りなのだろうが、その通りに出来ないのが人生というものかもしれない。11月19・20・21日と名古屋栄のナディアパークで上演されていた。
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by qzr02421 | 2010-11-22 16:38 | 劇,映画その他
愛知産業大学工業高校が地域のために落語の会を開催している。地名にちなんで橘座公演という。今回は第18回、11月21日に開催された。1時から始まり、中入りが入り3時15分頃終了した。落語3席と俗曲で構成されている。主に演じたのが春風亭小柳枝だ。演目は「井戸の茶碗」と「芝浜」だ。人情話2席を十分に堪能することが出来た。しかも無料というのがよい。学校ならでは落語の前に校長挨拶、最後の生徒会長挨拶があるのが愛嬌というものだ。

前座は瀧川鯉ちゃの「開口一番」だった。物知りの隠居と無知な江戸っ子の組み合わせだ。先生というには「先に生まれた」ということで、知ったかぶりをする人物、何でも知っていると思い込んでいる人という説明から入る。確かに先生というのは先に生まれただけだ。たいしたものではないのだ。知識と教養と情報のちがいをえらそうに話すのが先生というものだ。

結局、知識と教養と情報のちがいは、「おはぎ」と「ぼたもち」と「あんころもち」のちがいくらいしかないのに、もったいぶって話すのが先生というものだ。いくら知識や常識があっても、たくさんの情報を持っていても、それが人のために使われないのなら、ないのと同じなのだ。人間は社会の中で生きているので、人のためにならない知識などは何の役にもならないのだ。

知ったぶりの知識、つまりテレビのクイズの答えを知っていても、たいしたことはないのだ。落語では隠居が「奥さん」はぜ奥さんなのか、答えは奥でお産をするからというものだ。子どもは「風の子」というのはなぜか、「風」「風」(ふうふ)の間に生まれたからだというのだ。この話は「やかん」はなぜやかんというのかをくどくど説明するのだ。言葉の由来は面白いものだが、面白いということだけのものだ。
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by qzr02421 | 2010-11-21 17:50 | 日常

頑張ってもできない

人間の能力と遺伝の関係を扱ったような本を読んだ。『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』という本だが、能力は遺伝で決まるので、努力しても、できないことはできないということだ。運動能力については、できないことはできないということは認める人が多いが、勉強となると、やればできると思うのはなぜだろうということだ。

イチローにはなれないが、頑張ればノーベル賞は取る事ができるということだ。運動が遺伝なら学問も遺伝だろう。 物理や数学を力いっぱい勉強しても、成果が上がらないのなら、それはその能力も持つ遺伝子がないということだろう。頑張ってできない分野は、遺伝的な能力がないのだから、あきらめて違う方向にすすんだほうがよいということはよく理解できる。

人間は好きなことを伸ばそうとする。伸ばそうと努力したことが伸びることがあれば、それはその能力を持つ遺伝子があると考えるのは自然なことだ。子どもは小さいときから子どもの集団の中で、そのような自分で出来て、周りからほめられる能力、しかも頑張れば出来る能力を伸ばそうとする。その結果、その能力が伸びるのだ。伸びるということは、その能力の遺伝子が存在していたということだ。

この考えのよいことは、親の教育環境は子どもの発達には関係がないということだ。母親はとくの、自分の子育てについて悩むことが多いという。自分の子育ての失敗ということで悩むということだが、子どもが子どもの関係の中で成長するという理論は、母親がいくら介入しようとしても、介入することができない世界が存在するということだ。このような考えと無視しないで、この考えの妥当性をもっと考えて欲しいものだ。
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by qzr02421 | 2010-11-20 15:13 |
週間子どもニュースという番組がNHKで放送されていたが終了するという。理由は視聴者がお年寄りばかりで、子どもが見ていないことが理由だそうだ。子どもはニュースなどは見ないということか。子どもは勉強をしているのか。世の中のことを知らない子どもが出現しているということかもしれない。

携帯電話さえあれば世の中は生きていけると子どもは考えているのだろうか。人は一人では生きていくことはできないが、携帯電話でつながった人だけで生きていくこともできないだろう。子ども含め最近に人は、世間が狭いし、考えが短絡的なような気がする。民主党政権は好きではないが、まだ政権をとって1年過ぎようとしているだけだ。それで支持率低下という世論調査はわけが分からない。

それでも法務大臣が、国会答弁は「個別の事案については答えを差し控える」「法と証拠に基づいて適切にやっている」の二つのフレーズがあればよいという発言には、びっくりした。答弁はその二つでよいというのはその通りだが、それを正直に発言してしまうという単純さ驚いたのだ。政治家は本当のことを正直に話したのでは価値がなくなるということが理解できていないのだ。

世の中は、表と裏でできているのは当たり前だが、裏の事情をあからさまにしないのが大人の対応というものだ。世の中のことをしっかりつかむためにも、週間子どもニュースは政治家にしっかりと見てほしかった。このニュースがなくなるのは、とても残念なことだ。名前を週間政治家ニュースにでも変更してでも、継続してほしいものだ。
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by qzr02421 | 2010-11-18 21:49 | 日常