本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
カレンダー

<   2010年 10月 ( 23 )   > この月の画像一覧

どこから見てもよいのに

久しぶりに一人旅をしている。今日は金曜日、関西の博物館めぐりをしようと、朝、7時半の近鉄特急に乗る。駅で知り合いにあった。高校の教員だ。「ひさしぶりだね」「どこに行くんですか」「ちょっと奈良の正倉院展へ」「いいご身分ですね」という会話だ。平日の、金曜日だが、このような日に博物館に行くのは、いい身分なのだろう。うらやましがられるのは、まあ、よしとしよう。

金曜日の正倉院展は19時まで開館しているので、今年は平城遷都1300年ということで、奈良はすごい人手だ、このような人では見たことがないというくらい混んでいる。ホテルも満杯で取れない状態だ。そこで、夕方の5時ごろ行くことにした。実際、5時に行ったら、入場制限こそしていないが、館内はけっこうな人手だった。バス旅行の人が多いようで、集合時間を確認していた。

正倉院展の今年の目玉は「螺鈿紫檀五弦琵琶」だろうか。19年ぶりに出品されている。これは館内で長蛇の列だった。目の前で見ようと執念を観客に感じた。並ばなくも横から見ることはできるのだが、並んで見たいという執念だろう。こういう展覧会に行くと、並んで見る人がいるが、どうして並ぶのか不思議でならない。係りの人が、どこから見てもよいのですよ、と言っても、並ぶのだ。並ぶのが習性なのだろう。

展覧会、絵でも、それ以外の作品でも、遠くから見るということが、それなりの理解を生むのだろうと考えている。全体の構図を眺めることができればよいのではないのだろうか。双眼鏡を持っている人もいるが、ひびを見るつもりなのだろうか。望遠鏡などを使わずに、自分の眼を通して、作品を見ることが大切なことなのだ。眼に、記憶の焼き付けることは、鑑賞するということだと思っている。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-29 20:49 | 劇,映画その他
戦争の話は日本の家庭では話題にならない。日本の家庭で話題になるとしたら、空襲の被害状況や、戦時中の銃後の暮らしぶりだけだろう。戦争中は苦労したんだねということとなる。戦地に行かなかった人々は、「欲しがりません、勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」とかというスローガンのもとで暮らしたことを語るのだろう。

満州や中国で日本人が戦い、その地の人々の大きな損害を与えたことは日本の家庭では話題にならない。いくら学校で戦争の歴史を教えても、それは歴史的事実として理解されるだけなのだ。加害の事実は語り継がれないということだ。これに対して、被害を受けた満州・中国・朝鮮の家庭では、日本軍のひどい状況が家庭で語り継がれるのだ。

中国や朝鮮では日本の加害を忘れないのは、日本の加害の状況を家庭で語り継いでいるかだという。家庭で語り継ぐことが歴史認識として定着していくのだ。日本の家庭では、戦争の話をすることはほとんどないのだろう。そのような状況での歴史認識は、戦争は過去のもの、昔のヒトがしたことで自分とは関係がないことという認識となるのだ。尖閣列島問題で中国でデモがおきているが、このような家庭で語り継がれるということを考えないと、なぜ彼らがいつまでも怒り、日本人が忘れているのかが理解できないだろう。

愛国心教育もアジア諸国ではおこなわれているようだ。国を愛するという素朴な感情が大切だが、過度な愛国心は、他国とのトラブルの原因ともなりやすいので注意が必要だ。グローバル化で国境を越えていろいろなものが移動するとき、自分の国だけが幸せであればよいというような考えは捨てないと、未来がないように思う。環境問題がその典型的な例だろう。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-28 21:35 | 歴史

情報が運命を決める

情報は、グローバル化の現在は、ネットと通して世界中を駆け巡っている。グローバル化とは「ヒト、モノ、カネ、情報」が国境を越えて移動することという定義がある。情報を遮断することは現代では難しくなってきたが、ロシア戦争のころはどのように情報を得ることができたのだろうか。19世紀は大英帝国の時代だ。大英帝国(この大英帝国という訳語は、ブリティッシュエンパイアを訳しているのか、イギリス帝国でよいと思うが、なぜ大がついているのだろうか。当時日英同盟を結んでいたからだろうか)は世界の植民地を結ぶ海底ケーブルを施設していたのだ。

この海底ケーブルを通じて世界の情報はロンドンに集まっていたのだ。そし集まった情報をイギリスが取捨選択して、イギリスの都合よい情報を流し、都合の悪い情報は加工して流していたのだそうだ。当時イギリスの仮想敵国だった、実際にも敵だったが、ロシアに対する情報は、ロシアがひどい国だというように加工して世界中に発信していたのだ。

日露戦争の情報はも同じようにロンドン発だったので、日本はがんばって戦い、もっと戦うことができる(実際は、青息吐息でこれ以上戦争はできない状況だったのだが)という情報のなり、ロシアは第一ロシア革命で戦争遂行が無理だと加工されて流されたのだ。この広報を信じた日本国民は、日本はもっと戦えると信じて日比谷焼き討ちへと向かったのだ。

日本が韓国を植民地化して支配し、その支配状況の情報もロンドンに集まったのだが、日英同盟を結んでいるために、イギリスは日本が不利になるような情報は流さなかったので、日本人は日本政府つまり伊藤博文の支配の状況を知ることはできなかった。今も昔も、情報をどのように理解するかは、慎重に考える必要があるといことだ。情報を信じすぎず、いろいろな角度の情報を入手する努力が必要ということだ。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-27 21:26 | 歴史

日韓併合、韓国併合?

最近は「日韓併合」というような言い方をする人がふえたような気がする。歴史的には「韓国併合」というのだ。併合という言葉は合併をひっくり返した言葉で、韓国を支配するときに作られた言葉だという。「韓国併呑」という言葉はないが、日本が強引に韓国を植民地化したという歴史的事実をいうのだ。

「韓国併合」について明治大学の山田朗さんの話を聞く機会があった。今年は韓国を植民地にしてから100年目だ。日本はなぜ韓国を植民地化したのかという問から話は始めた。日露戦争の結果、南下するロシアに対する防衛上の理由から併合したという。もともと日露戦争の戦争目的は「韓国処分(韓国を日本が好きなようにするということ、琉球処分という言葉もある)についてロシアは文句を言わない、旅順大連を日本がロシアから譲りうける、満州からロシアは撤退する」という三つだったのだ。

日露戦争で賠償金は取ることができなかったが、当初の戦争目的は達成することができた。それを知らずに日比谷焼き討ちなどをする当時の国民は、情報を知らなくて、勝手に日本が強いと信じて怒っていただけなのだ。今の日本の国民がテレビなどの情報により、怒っているのと大差がないことのように見える。これは尖閣列島のことをいっているのだが。

日露戦争と韓国併合と大逆事件は三位一体で考える必要があるというのがテーマのようだった。韓国(当時の朝鮮半島にあった政権は李氏朝鮮だが、国名を大韓帝国と称していたのでこれを略すと韓国となる)を日清戦争で清の冊封体制から排除し、日露戦争で韓国処分の権利を得、そのような帝国主義的な日本の動きを批判する幸徳秋水らを大逆罪で処刑し、言論統制を完成させていくのだ。そして大陸に進出し、第二次世界大戦をということだ。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-26 19:56 | 劇,映画その他

学ぶ力が学力だ

学力というのは点数のことではない。点数は学んだ結果にすぎないし、それは暗記の成果ということに過ぎない。学力というのは本来は「学ぶ力」のことを意味しているのだ。学校で学ぶことは、ほとんど答えが存在するのだが、社会現象は実は答えは存在してはいないのだ。答えとは正解のことだが、現実の問題で正解が何かが分からないのだ。議論をして、ある結論を得ても、その結論は正しい結論というわけではない。ただ話し合って決めたということにすぎない。

学校で、いつも教師の質問に、生徒が正解を答えているという教育をすると、世の中のことすべてに正解が存在すると思ってしまう。世の中分からないことばかりだ、そんなわけの分からない、世の中を渡っていくことが学力なのだろう。世の中を学ぶ力ということだ。『おせっかい教育論』という本を読んでいたら、学力とは学ぶ力とあったので、私なりのどのようなことかを書いてみたのだが、書いたことが正解かどうかは分からないのだ。

この本は大阪大学総長の鷲田清一さんと神戸大学教授の内田樹さんと浄土真宗の住職の釈徹宗さんと大阪市長の平松邦夫さんの四人の座談会を記録したものだ。変な人が四人集まって、教育とは何かを語ったものだ。最近の日本人が小粒になったのは、自分のために学問をしているからだとある、自分のための学問は自分をこえることができないというのだ。やはり自分をこえた存在のために学問をするという姿勢が大切だという。かつてはそれは国のためだったのだ。

自分より偉大のものが存在していて、その偉大なもののために働くというのが、成果をあげる働き方でもあるという。自己利益をこえたところに真理があるということだろう。教育は本来は共同体が維持存続するために実施しているもので、個人の自己実現のためではないのだそうだ。自己実現の前に共同体の維持の方が重要ということだ。この本の中に「教師はわけが分からない人の方が、生徒は成長する」という文章があった。励みになる言葉だ。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-25 19:51 |
久しぶりに車の運転をして名都美術館に行った。愛知郡長久手町にあり、リニモ朳ヶ池公園駅から五分ほどのところにある。駐車場も結構なスペースが用意されていて、車で行っても大丈夫なところだと思う。10時開館だから、10時につけば、駐車スペースも見学にも大丈夫だろうと予測していってみた。10時から三十分ほどは数人の人しかいなかったので、ゆっくり見ることができた。

今回は「神坂雪佳」の作品展だ。彼は明治時代から昭和初期まで織物図案や工芸装飾などのデザイナーとして活躍した。副題は「京の粋、琳派の継承」ということで、琳派の流れを受けた大胆な意匠ということだ。琳派、狩野派に比べれば王朝風の色彩が強い作品という特徴だと思う。結構琳派の作風は人気があるようだ。

京都の細見美術館所蔵の作品が目に付いた。細見美術館は京都の岡崎にある、多くの肉筆がを所蔵している美術館だ。神坂さんの意匠はチョウチョ、犬などがかわいく、しかも現代でも十分楽しめる作風だと思う。昨日と今日は京都の刷師の宮村克己さんの木版画の実演があるのだ。11時から実演を堪能した。色は茶色と黒と白くらいしか使わないが、何度も刷ることにより、濃淡をつけて作品の深みを出すところを見ることができた。

版木を何回も変え、10回以上刷りつづけるのだが、結構体力の要る作業のようで、汗をかきながら実演をしていた。実際の工程では30回以上するそうだが、時間の関係で細かいところをはしょって実演したそうだ。それでも犬の鼻や竹の濃淡など、見た目には細かいと思ったが、もっと細かい部分があるのだろう。刷ったときどの部分を刷ったのかわからないこともあった。技術のすごさを体験した一時間だった。この特別展は11月14日までだ。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-24 16:47 | 劇,映画その他

日本人は真面目なのか

日本人の特性を調べているアンケートがあった。「おとなしい・自己主張しない」を選んだ人が五割をこえていた。自己主張しないことが美徳という意識が日本人にはあるのだろう。いまは崩壊しつつあるといわれている「世間」に住んでいる日本人は対立と好まないのだ。島国で人間関係が固定化している状態なので、争いを避けるという習性が身についているのだ。国際社会では、この日本人の特性が理解されないだろう。

領土問題で他国と争いがあっても、その争いを争わずに解決しようとするのが日本人なのだ。相手国からみると、扱いやすい国に見えるが、争わないから扱いやすいというわけではない。争わずに、自国の利益を追求するのが日本流だと思う。仙石氏が言っていた、柳腰外交なのだ。女性のしたたかで、強い、信念の通った柳腰という理解でよいではないのか。

二位と三位が「勤勉・まじめ」、「流されやすい」だ。「世間」では他人の評価が一番大切となる。その中で、勤勉に仕事に励むことは大切なことだ。まじめだから、能力があるということではない。人より目立ってはいけないのだ。まじめに人と歩調を合わせて、時間を共有することが大切となる。人と時間を共有すれば、周りから見るとそれは「流されている」と見えるのだろう。

四位と五位が「優柔不断」、「手先が器用」なのだが、「世間」に中で自己主張しなければ。それは「優柔不断」に見えるだろう。「優柔不断」ではなく、他人と協調しているということだ。他人と争わず、協調し、全員一致で物事に当たるのが日本人の特性なのだ。議論して物事を解決するという手法をとらないのだ。なんとなく、解決の方向を探し、その方向に全員で歩んでいくのが日本人ということだ。しかし、手先が器用というのは、どうして日本人だけの特性といえるのかは、よく分からないのだが・・・
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-22 20:42 | 日常

名前とは何か

ウルトラマンなどで怪獣が登場するが、登場する前から名前が存在するのはなぜかという問がある。ウルトラマンが初めて戦う怪獣に名前があるのは変だというのは普通の考えだろう。もっとも宇宙人がいるかいないかわからない状態で、宇宙人という単語があるので、人間は創造でありもしないものの名をつけているのかもしれない。

想像のつかないものの名前は存在しないというのは事実としか思えない。創造することができるもの、実在すると思えるものだけに名前があるのだろう。国家というのは存在するのか。民族はどうか。民族幻想論という発想も存在する。人間の頭で考えることができるものは存在するのか。考えることができる霊や幽霊そして死後の世界は存在するのか。

アンケートをとると、死後の世界やスピリチアルを信じている人が多いようだが、あるのかないのを証明する手段はない。死後の世界があり、生まれ変わったとしても、生まれ変わる前の記憶がないのなら、それは生まれ変わったということができるのか。質量保存の法則などというものがあるのなら、世界の質量が同じなら、心の使い回しがあってもよいような気がする。

人間の脳が世の中を理解しているので、脳さえ保存しておけば、意識は残り、永遠の人生があるともいえる。以前みたルパン3世で、脳だけ生きているというあ存在があった。脳だけ生きて、それで人間として生きているといえるのだろうか。生きるということは死ぬということだろう。人には平等に死が訪れる。その事だけは真実だと思うが、死後の世界についてはどのように考えたらよいのだろうか。以上またまた『謎としての現代』(大黒岳彦著)読んで
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-21 21:40 |
脳が心を生み出すというのは簡単だが、それを見ることはできない。脳を解剖してもその思考している状態はみることができない。血液の流れの変化はわかるかもしれないが、それが何を意味しているのかは、推測の世界なのだ。心とはどこにあるのかという問は大切にしたい問ということとなる。

心が痛むときには頭を押さえはしないのだ。そのときには心臓あたりを押さえるのだ。プラトンやアリストテレスは意識と生命は分かれているが同じ心の中にあると考えたが、デカルトは意識は心にあり、生命はものつまり体にあるとしたのだ。心とものである体を分離したのがデカルトなのだ。

人は考えるときにはその考えは双方向的なのだが、メディアは一方通行なのだ。メディアはリニアなのだ。テレビは情動のメディアという言葉もある。メディアには「そして」という接続語しかないという。「いま」と「いま」をつないでいるのがメディアの役割で「しかし」とか「ところが」というつなぎ方は本来できないものなのだ。「世界が言語で作られている」ので、その言語をどのように映像化するのかが重要となるのだろうが、実際言語を映像化できるのかという問題もある。

百聞は一見にしかずというが、映像を見て、本当に真実が見えるのだろうか。言語と映像の関係をあらためて考える必要を感じた。映像をみているときには、それを理解するためには言語が必要だとたれ、言語が存在していない映像を見たら、その映像を理解できないこととなる。人間は言語がない存在は理解できないということだ。そのものの名前はいつ命名するのか。最初から命名してないとできないとしたら、いつ命名されたのだろう。以上また『謎としての現代』(大黒岳彦著)読んで
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-20 19:45 |
シラノ・ド・ベルジラックは自分の容貌は醜いので、つまり鼻が異様に長いということで劣等感を持っている。女性に好かれることはないという確信がある。しかし、女性の心をとりこにする文才を持っていることにも確信を持っている。女性は男性の容貌を愛するのか、文章や言葉によって愛するのだろうかという疑問を持ちながら、この「シラノ・ド・ベルジラック」というキャラメルボックスの劇を見た。

年をとると高い音が聞こえにくくなるといわれている。この劇は若い人対象なのか、声が高すぎて聞こえない部分がある。後ろに居る若そうな人が、私が聞こえない部分で笑っているので、聞こえているのだろう。笑っている人がいて、セリフが聞き取れなくて笑えない人がいるということだ。演劇も若い人むけと年配むけがあるということだ。何か悲しい話だ。

シラノは熱弁をふるい、その熱弁でロクサーヌは恋に落ちるのだが、恋の相手はシラノではなく、シラノが代弁をしているクリスチャンというイケメンなのだ。そのイケメンが自分の言葉で話すと、ロクサーヌは恋から醒めるのだ。人は言葉で恋に落ちるということだ。ロクサーヌの演技が人形のようで感情がないというものだった。男の愛を表面でしか受け取ることができないのだから、人形でよいと思っていた。

妻は、あのロクサーヌは女ではない、まるで人形で、感情表現をしっかり表していないという感想を持ったようだ。その理解は正しいのだが、演出家はそのようなロクサーヌを求めていたと、私は理解したのだ。それでも、女というものはそういうものではないという妻の理会もまた正しいと思う。演出家が男だから、男にしか理解できない女性像を作ったのだろうか。演出というのは面白いし、奥が深くて、難しいものということだろう。
[PR]
by qzr02421 | 2010-10-19 20:53 | 劇,映画その他