本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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寺社勢力を軽んじている

鎌倉幕府領というもの平氏の所領を奪ったものだ。勝利したものの土地になるのだ。関西では武士ヤクザ論というものが底流にあるそうだ。その武士ヤクザに対抗した勢力が朝廷と寺社ということとなる。現在の日本史は異常に寺社勢力を軽んじていると伊藤正敏さんは指摘している。

鎌倉時代は北条氏が執権として権力を握ったとされる。将軍は飾り物だというのだ。しかし北条氏は単なる関東武士団のひとつの勢力にすぎない。将軍はそれなりに御家人との関係は深いものがあったという説もある。将軍が、幼少で病気にでもなると、御家人は心配したという。吾妻鏡を素直に信じるわけにはいかないということだ。将軍が言うことを聞かないと京に帰されるということは、それなりに影響力があったということだろう。

網野さんは東国の御家人制に対して西国には寺社・天皇に直属する「神人・供御人」制があったとする。室町時代に入ると都を京において、幕府は寺社勢力に対する支配を強めようとした。寺社が握っていた商業権を支配しようとしたのだ。しかし、幕府の支配は義満死後弱まり、再び寺社の勢力は復活するようだ。京や堺にように自治都市として発展する勢力もあった。その寺社勢力をたいしたのが信長だ。彼は比叡山焼き討ちを代表とするように、寺社勢力を打ち破り、寺社を宗教という枠にとじこめたのだろう。その政策を継いだのが徳川幕府の寺請制度だろう。(以上伊藤正敏著『寺社勢力の中世』より、雑感を入れて)
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by qzr02421 | 2010-02-28 12:07 |

中世寺社はひとつの都市

今でこそ寺社は観光をするだけ場所になっているが、近世までの寺社は最先端の文化・文明の場所だった。皇居でさえ寺社の建物も比べれば、貧弱なものだった。当時の権力者が寺社を建立するのは、東大や京大を作るに等しいことだった。頼朝が鎌倉で屋敷など作ろうとしても大工がいなかったのだ。大工は寺社に属していたのだ。

僧侶は寺社で仏教を学ぶことが当たり前のことだが、それ以外にも、武術・医術・土木・農業などを学んだ。中世寺社は学問や技術に優れた僧侶を多く輩出したのだ。武士はひらがなしか書くことができなかった。漢字を書くことができるのは貴族か僧侶だけだったのだ。中世のテクノポリスが寺社だったのだ。ルイス・フロイスは、比叡山をして日本の最高の大学と見たのだ。

中世寺社はひとつの都市だとしたのが伊藤正敏さんだ。その都市を「境内都市」と名付けた。現在の寺社の境内は狭すぎる、当時はもっと広大な敷地を有していたのだ。寺内町というのも同様なものだ。中世には御家人が地頭に任ぜられ、荘園・公領の支配をしたというが、貴族の持っていた荘園などは地頭の支配下に入っていくようだが、寺社の所有する荘園は、抵抗をし、独自の勢力を持っていた。

俗人が寺社を攻撃すると天罰・仏罰が下るという。平重衡が南都焼き討ちしたために、平清盛は熱病で死んだとされる。一方で、寺社と寺社との争いで、焼き討ちして仏罰・神罰はあたらなかった。中世は実力の時代だから、地頭(御家人)は無実の罪でも荘園を捜査して、あるいは罪をでっちあげて、荘園を捜査して、荘園の財産を没収したらしい。貞永式目でも荘園の所有者の権利を守る条文も少なくはない。幕府も武士の乱暴狼藉に困っていたのだろう。
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by qzr02421 | 2010-02-27 12:22 | 歴史

天下三不如意

古代から中世の変化の中で、宗教と王権が分離した。古代には天皇は神と共にいた。最先端の文明・文化の場である寺社と天皇は一体だった。天皇の地位も宗教性を帯びていたのだろう。中世に近づくと、天皇を寺社が分離していく。そのなかで、天皇は自らの正当性を神に求めた。一方寺社は武力を持ち治外法権を主張し、天皇に従わなくなった。

後白河上皇にいう「天下三不如意」である。落語の起源が坊主であるように、日本の伝統文化の起源を中世の寺社の求めることができる。能の創始者の観世は興福寺、生け花は池坊六角堂(延暦寺の末寺)、茶道、作庭も同様だろう。

日本語の単語も中世の寺社を起源にしている。それを広めたのは中世寺僧であろう。仏典起源の日本語は、未来、大衆、観念、商人、脱落、平等、機嫌など多くある。日本文明の大半は中世寺社から始まったこと再確認したい。また、文化の中心はもちろん京都だった。中世においても京都は文化の中心として存在した。人口20万人といわれ、他の地と隔絶した人口規模、政治・経済・文化の中心だったのだ。戦国時代の武将が京都を目指したことがその象徴だろう。鎌倉幕府は京を守ることで、暴力集団ではないとされた。ただし祗園社と清水寺は独自な勢力で、六波羅探題も手を出すことができなかった。
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by qzr02421 | 2010-02-26 14:27 | 歴史

ウイルス感染?

ネットの回線ベスト3は、一位はNTTのひかり、二位はADSL、そして三位がケーブルテレビのようだ。フレッツ光は3割くらいのシェア、ついで3割を切るくらいでADSLが続く。ケーブルテレビ派は1.5割ほどだろうか。メールをするくらいなら、回線のスピードは気にならないだろうが、映像関係は光が最適のようだ。

我が家はケーブルテレビで、容量が少ないノートを使用しているので、何かしようとすると重たい。ワードで文章を作り、それをメールで送るくらいなら、十分だと思っている。ネット上でアンケなどをしようとすると、重いな~と思うこともあるが、贅沢なことだろう。

最近、映像用つまりデジカメで撮った写真や、DVDを見るために、中古の、最近はネットで中古を安く売っている、昔にくらべたら、容量も大きく、結構性能よい、あまり何も入れなければ、軽い、軽く動作をするようなパソコンを購入した。1万円だった。これが何を入っていない分、早いのだ。ネットにつないでいないので、これも安心ということだ。ウイルス感染はUSBなどを気をつければ、少ない確立となるだろう。一応ウイルス対策ソフトは入れたが・・・アンケでウイルス対策ソフトを入れていますか、というのがあったが、結構入れていない人が多いようだ。

入れていない人のほとんどが、感染したことがないというものだ。感染しているか、していないの、そんなに簡単に分かるわけではないようの思うのだ・・・以前トロイの木馬にやられてことがある、自分のパソコンに被害はないが、ほかの人のパソコンに影響を与えることが考えられると思う。すぐに除去したが、いやなものだ。ネットをやれば、ウイルス感染を考えるのが普通の世の中だろう。
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by qzr02421 | 2010-02-25 14:10 | 日常

結局「間」だ

話をどのように面白くするかというテクニックは、結局「間」だろう。話自体たいしたことがなくても、「間」によって、次は何が話されるのかという興味、それによって、面白さが醸しだされるのだろう。話はなければ「間」もないので、話を収集することも大切なことだ。実況的に話すことも大切だろう。文我さんが、枝雀さんと東京の「天狗」という居酒屋に入った話をした。

まず「天狗」という居酒屋の話で、笑いをとった。「天狗」というポピュラーな名前が笑いを誘うのだろう。そこで飲んでいたら、一人の男と入ってきたというのだ。しかもその男は酔っていたらしい。店の入ってくるなり「面白くない」とつぶやいたらしい。何か面白くないことがあったのだろう。文我さんの隣の席が空いていた、文我さんは隣にこないようにと祈ったら、隣のその酔っ払いが座ったのだ。

その酔っ払いを見ないようにしていたが、魔がさしたのか、見た。その酔っ払いも文我さんを見た。互いに見交わす顔と顔・・・その酔っ払いは、文我さんを見て「面白くない顔だな」と言った。文我さんは「面白くない顔と言われたのは初めてで、隣の枝雀さんが、お腹をかかえて笑っていた。そしてよい機会だから、その酔っ払いと会話をして、ネタとしなさい」といったというのだ。

このあと会話が続くのだが、面白と思える話はどこにでもころがっているのだ。それをどのように面白がるかがセンスというものだろう。栄を歩いても、それなりの面白いネタは落ちているものだ。その面白いネタを発見できるかどうかが、やはり、センスの問題なのだろう。人生を面白がることを文我さんから教わったような気がした。
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by qzr02421 | 2010-02-24 11:29 | 劇,映画その他
桂文我さんが導入に、授業ではないからまえふりか?枕か?落語の起源を話そうとした。客に落語はいつ頃からあるかと聞いた。最前席の男の人が安楽庵策伝と答えた。文我さんもびっくりしたようすで、大学の先生ですかなどとうろたえた。帰りに受付で、「わたしが正解したものです」と言って下さい、そうすると、受付の人は「おめでとう」と言います、何ももらえませんよと会話を続けた。上手い返しだった。

日本の話芸は、坊主の説教をその起源とするのだ。実は江戸落語の始祖はその安楽庵策伝というのが定説のようだ。安楽庵策伝とは念仏僧らしい。文我さんはその男の人の隣の人に、その男の人は戦国時代の僧と言っていますが、あなたはどうですか」と振った。その女性は江戸時代と答えた。この答えも正解だ。実は上方落語は法華僧から還俗した露の五郎兵衛といわれているのだ。

ともかく、客席から正解がでたので、どのようにするのかと興味を持った。文我さんの答えは実に単純で、それなりに正当性があるように感じた。もっともそれは何にたいしても言うことができる解答だ。文我さんの答えは、「よく分からない」というものだ。それはその通りだ。縄文時代の人が洒落を言わないとは言えない、弥生時代の人が農業をしながら冗談を言ったかもしれない。聖徳太子も仏教を語りながら、落語をしなかったとは、誰も断言できない。

歴史の起源というのは、文献にいつでたかというものだ。これは初だということで、定説ができるだけだ。定説は仮説だから、いつか否定され、新しい定説が出現するのだ。歴史というのはそのようなものだ。昨日のことも分からないのに、200年までのことが分かるわけがないのだ。しかし、過去を知りたいという欲望を持つのが人間というものだろう。
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by qzr02421 | 2010-02-23 11:12 | 劇,映画その他
調子が悪い時、あがく人がいる。あがいても上手くはいかないものだ。上手くいかないときは、できることを淡々と、一途にすることで、そのスランプを乗り越えることしかないような気がする。人間はいつも調子がよいとは限らないのだ。

調子が悪いとき、それを耐えて、いまできることのみをしている姿は、それはそれで感動を呼ぶのかもしれない。今、オリンピックだが、調子のよい選手もいれば、最悪の選手もいるだろう。どんな調子でも、くさらずに、ひとつのことに集中することしか、その不調を乗り切る方法はないと思う。

仕事がら、人前で話すことが多いが、今日は調子がでないな~というときがある。そういうときは、調子が悪いといいながら、話すしかないのだ。話すことしかとりえがないのだから、そのとりえにすがって、はなすしかないというのが現実だ。自分では、今日は最悪と思っても、今日はトツトツとした話で、味わいがありましたなどと言われたりもするのだ。日頃の立て板に水の話は、早すぎるということか?

話術の勉強のため、今池のガスビルにあるホールで「桂文我」独演会を聴いた。ほぼ満席だった。落語を話して30周年だそうだ。味わいのある話だった。桂枝雀の一番弟子だ。話し方も、枝雀にどこ似ているような気もした。「ちはやぶる」「天神山」など堪能した。話術は深いということを実感した2時間半だった。
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by qzr02421 | 2010-02-22 14:10 | 劇,映画その他

死ぬために生きている

本の題名を読んで、その中味を考えるのが好きだ。週刊誌の題名でその中味を想像するのも好きだ。事実はあるのだろうが、その事実が真実かどうかは分からないものだ。題名から想像してみたいものだ。「なぜ生きる」という題名の本がある。なぜ生きるという問いをなぜ持つのだろうか。虫などは、このような疑問を持つことはないだろう。人間として生まれた宿命のようのものだと思う。

なぜ生きるのか、答えは簡単だ。考えても答えはない。疑問を持っても答えがないことの方が多いのだ。必ず答えがあるという思いが間違っているのだ。学校で習うことがすべて正解があるという経験がいけないと思う。世の中正解がない、正解が分からないことの方が多いということ知ることが重要だろう。

「葬式は、要らない」という題名の本もある葬式をあげることができる社会は安定した世の中だろう。戦国時代は葬式をあげる余裕もなかっただろうと思う。戒名は必要かなどという問もある。戒名などはいらないのだろう。世の中さまざまな宗教がある。この宗教できちんとしないと、よくないなどということがあるはずがない。自分の納得がいくことがしたいということにすぎないのだ。

人間は生まれて死ぬというのが自然の姿だ。その生まれて死ぬということに意味があるのだろうか。意味があるほうがよいことは分かるが、意味がないのが真実ではなのか。蟻やセミなどは、その生を精一杯生きて、そして死ぬのだ。生物は死ぬために生きていると言ってもよいかもしれない。せいぜい生きている間、精一杯生きたいものだ。
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by qzr02421 | 2010-02-21 17:35 | 日常

まあ、あんなものだろう

以前見た映画「曲がれ、スプーン」を今度は演劇で見た。場所はテレピアホールだ。もともとは劇を映画にしたものので、本家を見たということだ。映画は映像なので、イメージが目に飛び込んでくるが、劇はそれをセリフとセットで表現することになる。それでもこの劇のストーリであの映画を作ったというの理解できた。

超能力者が喫茶店に集まりクリスマスパーティをしている時、超能力者ではない人物とこの人を取材にくるディレクター?が来る設定だ。映画は超能力を表現することは簡単だと思うが、実際舞台でどのようの表現するのか興味があった。コーヒーカップが飛ぶシーンはピアノ線でつって動かしていた。ポットからカップに水を入れるシーンは、テーブルを動かしていた。あまり上手に水はカップに入らなかったが・・・

人をサイコキネシスで動かすのは、相手が転がればよいのでタイミングが会えばよいのだろが、椅子ごとひっくり返るというのは怪我をしないようにしないといけないと感じた。最後にサンタクロースが空を飛ぶというシーンがあるが、これも紐でつって動かしていた、あまり上手とはいえないが、まあ、あんなものだろう。

ビックリしたのディレクター役の女性の話し方だ、映画では長澤まさみが演じていた。劇では山脇唯が演じていた。もともと劇が先だ。山脇唯の演技を長澤まさみの演技がそっくりだった。ちょっとおっちょこちょいのAD役が瓜二つだった。この長澤まさみ主演の「曲がれ、スプーン」は興行的には失敗したそうだが、結構、映画も劇も面白かった。この劇はヨーロッパ企画でが、次の公演は9月3日、アートピアホールだそうだ。劇の仮の題名は「サーフィンUSB」だ。どのような劇だろうか、楽しみなことだ。
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by qzr02421 | 2010-02-20 16:55 | 劇,映画その他
日本の自殺者は3万人台のまま10年を経過しようとしている。1997年まで2万人台だったが、翌年突然3万人になった。そして2009年まで、3万人台をキープしているのだ。しかし、よく考えてみれば、どうしてこの不況で、自殺者が多いという情勢らしいなかで4万台にならないのだろうか。別に自殺は少ない方がよいが、どういう統計なのだろうか。

自殺者の統計は警察が発表しているのだろう。変死体という、死因がよく分からない死体の中に含まれているのだろうか。50台が一番多く、そこを頂点にした山になっている。自殺の原因に半分は健康問題で、以下家庭問題、経済問題と続くのだが、自殺の原因がどうしてい分かるのだろうか。死んだ人に、どうして自殺したのですかと聞くことができない。

自殺の原因は、自殺者を持つ家族などから聞き取りをして決定しているのだが、健康問題で一番を多い理由は『うつ病』だ。病歴があれば、うつ病に分類されるのだ。うつ病になった原因は、職場や家庭の問題だとすれば、自殺原因の統計は、意味があるのだろうか。何かの本でよんだが、最近は非犯罪死体というのが増加しているらしい。自殺として死因を決定するためには解剖が必要らしいが、解剖の予算が限られているので、予算上、自殺にするより非犯罪死体にするというのだ。本当だろか、よく分からない話だ。

犯罪に巻き込まれて死ぬのは警察の捜査が必要だろうが、自殺か病死か厳密に分ける意味はないという判断か?しかし非犯罪死体に中に自殺が含まれているのなら、自殺者は5万人ほど、本当はいるのだろうか、そうなると社会問題となる。何か社会にひずみがあるのだ。これは政治の問題でもある。どうやって調べればよいのだろうか。」
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by qzr02421 | 2010-02-19 14:14 | 日常