本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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悟りをひらいた顔を表現

『仏像に会いに行こう』(副島弘道著、東京美術刊)の話をひさしぶりに続ける。仏像の表現の変化によって時代が分かる。飛鳥から奈良へは「抽象的なもの」から「写実的」に、平安前期から後期へは「大胆なもの」から「おだやかなもの」へ、鎌倉時代から以後は「なまなましい現実感」から次第に「形式化」に向かうのだ。専門家は仏像を見ると駆け出しの若手でも50年きざみで見当をつけることができるそうだ。

法隆寺釈迦三尊像は、聖徳太子が病のとき、皇族・貴族たちが、当時の最高の仏師である鞍作止利の作らせたものだ。日本の仏像の第一ページを飾る飛鳥時代の代表作だ。この仏像を見て感動をしないとしたら、それは現代人だからだろう。

飛鳥の次の奈良時代の人はこの抽象的な仏像にあきたらず(飛鳥から見れば奈良時代の人は現代人だろう)もっと自然な生き生きとした仏像を作ろうとした。釈迦三尊像は古代の人々、飛鳥の人々が理想とした仏像ということだ。飛鳥の人々が「立派」「見るべし」とすいた仏像なのだ。背筋が震えるような感動はめったにはないものだ。感じる振りをするより、素直に次の出会いの期待すればよい。

釈迦三尊像は堂々として豪華だが、大げさではない、押し付けがましくもこわくもない。整った上品さがある。それが抽象的ということだろう。釈迦如来像と電車で見る普通の人の顔を何がちがうのだろう。仏像に顔には、普通の人にある不機嫌、気取り、あきらめ、尊大さがないことに気づくだろう。悟りをひらいた顔を表現したものだ。
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by qzr02421 | 2009-09-30 16:05 |

近代的不幸と現代的不幸

戦後の民主主義は戦争体験というものを基礎に出来上がった。そのため多くの思想家は愛国という観点を持っていた。また、戦争体験は人のよりちがう、東京大空襲など悲惨な体験をした人、戦争に行ったというさらに悲惨な体験をした人、田舎で飛行機が飛んでいくのを見たという体験をして人など、さまざまな体験があるようだ。その体験により戦争観がちがうということだ。

戦争を体験しない世代とのギャップもあるらしい。人は自分の体験で思想を語る。そのため、同じ言葉でも違うニュアンスで話しているということがある。小熊英二さんの『民主と愛国』を読んだ。1000ページ弱の量がある。実に面白かったが、これも当時の様子をある程度分かるからだと思う。その時代を実感できない人にはつらい1000ページになるのだろうか。

小熊さんは『1968』で近代的不幸と現代的不幸という変化を提起している。近代的不幸というのは貧困や生活苦が不幸と考えることだ。だとすれば一生懸命働き、収入を得ることができれば、その不幸は解決するはずだ。割りと簡単に解決する物質的欲望ということだ。それに対して現代的不幸は心の幸せ、心の豊かさを望むことらしい。

年末派遣村の人々は現代的不幸を感じるのなら、その貧困ということ不幸は感じないということとなる。今いる自分という存在に対して不幸を感じるということだろう。その不幸は解決することが難しいと思う。モノは手に入っても、心は手に入らないのだ。それが現代的不幸の解決を難しくしているような気がする。
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by qzr02421 | 2009-09-29 20:21 |
名古屋にかつて中小企業センターという建物があった。それが立て替えられ、新たにウインクアイチという名でオープンするそうだ。その内覧会があったので行ってみた。パンフレットには「地上18階、地下3階で大ホールから大小さまざまな会議室まで、あらゆるニーズに対応できる充実した施設」とある。その大ホールから大小さまざま会議室を見てきたのだ。

借りればお金がかかるというのは当然のことだ。このウインクアイチは名古屋駅からすぐという好立地だ。名古屋駅との間にはミッドランドスクエアーがあるのだ。使用料は高いのか安いのかよく分からないが、立地だけはよいということは分かる。参加する人にとっては便利な所だろう。

会社関係、演劇関係など色々な人が見学していた。エントランスに入ると受付があり、派遣らしい女性たちが出迎えてくれる。最近のレセプションは派遣の人が多いように感じる、そのほうが経費が安くすむのだろう。二・三階では800人入るという大ホールでは太鼓の実演があり、音響効果が確かめられた。あまり音響効果はよくないように感じた。ステージも両袖が狭く、講演会にはよいが、演劇には少し不適切なように感じた。

五階の小ホールは豪華だった。その後六階の展示場、13階の特別会議室、ここは凄く豪華に感じた。九階の会議室、ここは特別会議室を見たあとなので貧弱に感じた。借りる料金も安いそうだ。お金が全てというのが資本主義社会ということだろう。最後に八階の展示場を見て、一階にという段取りだった。使い勝手のよい建物だろうという印象を持った。
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by qzr02421 | 2009-09-28 20:07 | 日常
歴史というのは前の時代を否定して形成される。しかし前の時代がダメということではない。前の時代を否定しないと現在がたっていることができないという解釈でよいのか。その時代の文化があるという理解でよいということだろう。雨の日には雨の日の真実があるといったのはだれだろうか? 良さがあるといったのはウォーカーらしい。

歴史を意識するというのは現代の特徴だろうと思う。江戸時代以前の平民(農民?)が歴史を意識するということはないのだろう。歴史を意識し、歴史を再構築して、現在の歴史が存在するはずだ。意識しない部分の歴史は明らかになっていない可能性もあるだろう。日本は歴史を意識し易い地域ということもある。万世一系・・・という部分があるはずだ。

飛鳥時代に仏像が存在すると言うこと事態これは大変なことだろう。飛鳥時代以降の仏像や作品というものが文化だろうが、この作品群に囲まれている幸せということ考えること大切だろう。秋には正倉院展が開催されるが、奈良時代のもの、今から1300年ほど前の美術品、作品が残っているということはどういうことなのか、奇跡なのか。

中国では殷の時代、ヨーロッパでは古典古代の作品が残っている。歴史的なものが残っているということは、残すという意識を持った人々が存在したということだ。このこと事態奇跡としか考えることはできない。その作品群は過去の遺産だ。古代は貴族の残した遺産であることには間違いないが、その遺産を残そうとしたのは次の時代の人々、最後は庶民ということだろう。文化は特権階級から庶民へと広がるという特徴があるのだろう。
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by qzr02421 | 2009-09-27 14:47 | 歴史

生徒が望む授業とは何か

大阪の橋下知事が教師がジーパンで授業をするのはよくないというような発言をしたようだ。ニュースによると橋下知事の服装発言が飛び出したのは24日に府内で開かれた市町村議会議員との懇談会らしい。市議から「ジャージー、Tシャツ、ジーンズの先生がいる。地域からも『先生の服装がなっていない』とのクレームがある」と水を向けられ、知事は「何とかならないのか。教育の自由をはき違えている」と批判し、「(ジーンズやジャージーは)禁じないといけない」と語ったということだ。

大学でジーパンの女学生がいて、それは禁止ということをしたのも関西の大学だったような気がする。関西は自由な雰囲気があるようで、何か、抑圧された雰囲気もあるのだろうか。授業の中身で勝負するのが教員だと思う。授業の中身がない人は、正装をして授業をしたらよいのだと思う。生徒は教師の服装のそんなに関心を持っているように思えない。もっと、わかり易く、ためになる(人生の、そして入試のためのようだ)授業をしてほしいというのが本音だと思う。

服装のことを論議する前に、生徒が望む授業とは何かということを論議することが大切のような気がする。しかし、生徒も楽をしたいという面があるので、生徒の意見を全面的に聞くことができないだろう。人は見た目が9割という本もあるので、教師は教師らしい服装という意見は分からないではないが、中味のある授業をすれば、服装は気にならないと思う。

服装が問題になるということは、力量がない教師がいるということだろうか。まあ、せいぜい、ネクタイでもしめて、つまらない授業をすれば、それはそれで、よいということか。なさけない論議だと思った。教師は授業で勝負して欲しいものだ。
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by qzr02421 | 2009-09-26 07:02 | 日常
仏像を楽して見たければ、東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館(いま常設展は閉館中、建て直しのため)にいくのがよいだろう。仏像をお寺で見ようとすると、一日でたくさんみることはできない。博物館なら明るいところで見ることができるし、後ろから見る事ができることが多い。常設展は値段も安いのでお徳だ。

お寺で見たいなら、奈良なら東大寺と興福寺がよいだろう。興福寺は阿修羅が帰ってきているだろう。東京では混雑していたが、奈良なら、奈良まで来て見ようという信心深い人がすくないだろうから、ゆっくりと見ることができるだろう。東京で見たように後ろかラ見ることはできないだろうが・・・

東大寺は三月堂(法華堂)の不空羂索観音像(三眼八臂)など天平時代の仏像に会うことができる。少し足をのばして法隆寺、中宮寺、法華寺、薬師寺、室生寺などもよいだろう。奈良の寺は交通の便が悪いので、一日で見たいのなら、やはり東大寺だろう。以前秋篠寺に行ったときには、私しかいなかった。それはそれで功徳があるような気がする。

京都ならば、東寺と三十三間堂がよいだろう。三十三間堂は、向かいに京都国立博物館があるので常設展が復活したら見るにはベストのお寺だろう。ところで千手観音で本当の手が千本ある仏像は三つしかないそうだ。大阪の葛井寺(ふじいでら、藤井寺駅下車)、京都の壽寶寺(田辺市)そして奈良の唐招提寺にしかないそうだ。観音様を見るなら、聖林寺(奈良の桜井)、観音寺(京都の田辺)そして向源寺(滋賀の高月町)だそうだ。お寺で仏像を見るのが贅沢な趣味ということだ。
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by qzr02421 | 2009-09-25 11:28 | 旅行
よい仏像とはどのような特徴があるのだろうか。よい仏像の3条件というのがある。まず「バランスがとれている」ということだ。バランスというのは飛鳥時代の仏像、法隆寺金堂釈迦三尊像のような正面から見て厳しい表情の仏像のことだろうか。あるいは白鳳時代の薬師寺金堂薬師三尊像のような左右対称の構成美のことだろうか。バランスという面では後者の方がバランスよいだろう。

二つ目は「彫が立っている」、つまり技術的にノミづかいが上手だということだ。しかし、金銅像と乾漆像の場合はどうなるのだろうか。打ち出し仏というものある。彫も、平安初期の彫と鎌倉期の彫とは特徴がちがうように感じる。しかも、彫の細かい技法のついてはよくわからない。平安後期のぼや~という彫が好きな人もいるかもしれない。

三つ目は「ありがたい」ということだ。飛鳥、白鳳そして天平時代の仏像が残って、現代に伝わっていることじたい、それはすごいことだ。ありがたいと思える仏像が残ってきたのだろう。そういう意味ではすべての仏像がありがたいのだ。

国宝というものよく分からない。古ければ、つまり最古であれば国宝なのか。ありがたみが感じなくて、技術が素晴らしいだけで国宝に指定されるらしい。縄文時代の火炎土器でも、国宝の土器とそうでない土器がある。国宝でない火炎土器のほうに美術性感じるのはおかしいのだろうか。国宝の基準が法律で変わったので、戦前は国宝で、戦後は重要文化財または県指定の文化財の格下げされたものあるのだ。結局は、自分で見て、ありがたみを感じ、好きと感じた仏像がいくつかあれば、それでよいということだと思う。
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by qzr02421 | 2009-09-24 20:56 | 歴史
大阪に行くことが多いが、行こうと思っても、なかなか行く機会がなかった国立民族博物館(略称民博)にいった。大阪万博以来のことだろうか。大阪万博は高校2年生のときだった。すごい人だったという印象しかない。今の万博記念公園は子ども連れが目立つくらいだった。民博も人が少なく、ゆったりと見ることができた。

大阪駅からは阪急で南茨木に行き、そこでモノレールに乗り換え、万博記念公園まで行く。そこから徒歩15分で到着する。新大阪なら御堂筋線で千里中央まで行き、そこでモノレールの乗る。今回は「カナダの先住民の生み出す美」という特別展を開催している。

カナダ文明美術館の国際巡回展「カナダの先住民族」は、カナダのインディアンの生活、イヌイットの生活などがよく分かる展示だった。昔ながらの展示と映像だけれど、まあ、それなりに楽しむことができた。カナダのインディアンの実情、イヌイットに観光資源としての美術を提案し、それが成功しているのは、そうなんだという感動があった。

常設展は、なんとなく名古屋の万博を思い出すような展示が多かった。なんだか懐かしかった。10時過ぎから見始め、お昼はこの施設にあるレストランで食べ、その後3時過ぎまでゆっくりと展示を鑑賞した。資本主義の発展により、民族の独自性が消え、世界中が同じような生活をしている現在、民族について考えることは重要なことだと革新した次第だ。
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by qzr02421 | 2009-09-23 17:34 | 旅行
ネモ船長は海の中に自由があるといって、ノーチラス号で海に入っていった。そして二度と出てこなかったってホント?自由は海の中にあるのだろうか。人間の心の中にあるのだろう。禅の公案で「煩悩はどこにある?」「心の中をもう一度見よ」などというのがあるが。自由はどこにあるのだろうか。

キャラメルボックスの「さよならノーチラス号」を大阪のシアタードラマシティーで観た。東京公演は東京の人口が多いためか確保しにくいし、東京までも交通費も馬鹿にならない。大阪は割りと席は確保しやすいし、交通費が安い(東京より)。でもほかに見る劇がない。東京はあちこちで劇をやっている、まあ、首都だからか?

キャラメルの劇はテンポがよい。二時間で休憩なしというも慣れれば心地よい。夜逃げした両親のもとに夏休みだけ一緒に暮らすという12歳の男の子の話だ。そこでネモトという人と出会う。男の子の成長の話だ。失敗はだれにでもある、しかし、その失敗は必ず克服することができる。人とのつながりも大切だなどを感じた劇だった。

サルトルは自由を負担に思う個人は社会と関係を持つことによって、社会に参加し、社会に責任をもつことにより、自由は束縛されるが、そのような生き方を提案した。それをアンガージュマンというが、アンガージュマンが結構いける、やばいということを感じた劇だった。真柴あづきさんの演技を初めて?見た。結構面白かった。どういう意味だろうか?
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by qzr02421 | 2009-09-22 15:42 | 劇,映画その他
仏教はなじみがある。仏像などに親しむ機会があるからだろう。それに対して道教は仁尾本文化の大きな影響を与えているのだろうが、馴染みを感じない。いま、大阪市立美術館で「道教の美術」展を開催しているので、馴染みをつけようと出かけてみた。

道教は、もちろん老子から始まるといわれるものである。明治時代に一神教であるキリスト教が入り、多神教を野蛮なものとしたためか、日本人は宗教が何かが分からなくなったような気がする。道教はタオ(道)を説き、不老長寿を究極の理想とする宗教だが、神仙思想、風水、星宿や易などを含む多用な思想・宗教である、日本人には馴染みがあるはずなのに、道教というと、馴染みを感じないもののように思う。

この展示は、老子像、北斗七星をはじめとする星座を擬人化した図像、閻魔大王に代表される道服を身につけた地獄の裁判官、陰陽道、浦島太郎、庚申様、七夕などが道教をルーツにしていることができるものだった。道教三尊像などあり、釈迦三尊像との関係はどのようなものかなど考えさせるものでもあった。

大阪市立美術館は天王寺にあるので、道教を見た後は、天王寺動物園や四天王寺、さらには通天閣など見て、名物の串カツやたこ焼きをたべることができるので、幸せ気持ちになるスポットだと思う。道教の美術展は10月25日まで開催している。サブテーマは「日本初!浦島太郎もえんま様も、安部清明も織姫彦星も・・・みんな道教がルーツだった!」だ。その通りの展示だった。
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by qzr02421 | 2009-09-21 14:48 | 劇,映画その他