本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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シアターアーツの演劇塾

演劇をする人は、一度はシェークスピアの作品を演じてみたいということだ。シェークスピアの作品は、セリフ劇だ。長いセリフが続く。どのように料理しても、難しい作品が多いと思う。「子どものためのシェークスピアカンパニー」という劇団がある。子どものためといいながら、難しい作品を、あっさり演じている。「リチャード三世」が印象的だ。「尺には尺を」も面白かった。シェークスピアに時代は、照明も音響も現在のようなものはない。自然光や松明の光、火薬のような音響で演じていたのだろう。

役者がすべて舞台の上からいなくなると、そのあと場が転換するというのも約束事だ。舞台装装置がないから、登場人物が「この草原では」と言えば、そこは草原になるという約束があったということだ。セリフが命というのが、シェークスピアの劇の基本ということだ。

シアターアーツの演劇塾という劇団がある。年齢構成が高い劇団だ。キャラメルボックスなどの劇団員は若いのだ。若くなければ、あれだけの動きが出来ないのだろう。しかし、50歳以上(アラヒフティー、アラカンつまり還暦前後)の人はどのような演技をするのだろうか。きっと味のある演技をするに違いないのだ。

その演劇塾が今回「りあ王」を演じるのだ。2月13日から15日まで名古屋の「ひまわりホール」で行なわれる。13日は18時30分から、14日は14時と18時30分、15日は14時という日程だ。カタカナの「リア」ではなく、平仮名の「りあ」だ。こだわりがある。リアが主人公ではなく、登場人物全員が主人公という台本になっているらしい。アラカンが演じる「りあ王」を観て見ませんか。きっと、若い人が演じる「りあ王」とちがう、「りあ王」を観ることができるでしょう。
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by qzr02421 | 2009-01-31 07:18 | 劇,映画その他
シェークスピアの作品で『オセロー』に登場するイヤーゴは何歳だろう。『オセロー』の台本には7歳の四倍と表現されている。つまり28歳ということだ。7歳が基準のようだ。シェークスピアの時代は7歳というのはどのようなイメージの年なのだろうか。

シェークスピアの時代は7歳で教会法上婚約が可能になる。14歳で自分の意志で婚姻関係を結んだり、不動産売買をすることができる。21歳ではコモンローの上で、成人と認められるようのなる。不動産の売買や譲渡ができるようになるのだ。28歳は法的な権利に変化はない年齢だ。次の35歳は若者の時代の最後ということらしい。

17世紀のイングランドでは、男子の平均婚姻年齢は28歳ということだ。35歳は結婚して、安定したという年ということになるのだ。シェークスピアの時代は平均寿命が短いので、老年期は存在しなくて、青年期が中心になるようだ。17世紀の平均寿命は42歳ということだ。つまり40歳を超えれば、老人ということかもしれない。

ジュリエットが13歳、トロイラスが23歳、ハムレットが30歳、ケント伯が48歳なのだ。現在の年齢感覚とはずいぶんずれているように感じる。ところでリア王だ。リア王はいくつだろう。ケント伯と同じか?案外ケント伯より若いのか。リアには娘が3人いる。きっと長女のゴネリルが21歳、コーディーリアが14歳だろう。リーガンがその中間の年だと思う。
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by qzr02421 | 2009-01-30 21:30 | 劇,映画その他
絵画の修復という仕事がある。名前に狐がつく旗師が仲介役で登場する。主人公は花師と絵画修復師の二つの顔を持つ左月恭壱だ。彼に舞い込んだ不思議な仕事なまつわる話が3つおさめられているのが『虚栄の肖像』だ。作者は北森鴻だ。2008年9月に第一刷した作品だ。一応最新作ということだろうか。

ピカソの「青の時代」以前に描かれたが、世に出ていない作品の修復を依頼される。その報酬が「古備前の甕」というのだ。ピカソが贋作なのか、あるいはどこかに罠があるのか。それを探りながら、絵画の修復がすすむ。絵画の修復の過程の表現が素敵だ。修復を施すことによって、贋作が真作になることもあるという。それが、一作目の本書の題名にもなっている『虚栄の肖像』だ。政界を揺るがすスキャンダル?丁寧に読み込むと、この作品の味わいも深くなると思う。

二つ目の作品が『葡萄と乳房』だ。絵画の葡萄が描かれていう、藤田嗣治の作品の修復を依頼される。彼に戦時中の作品があり、その作品が戦争画といい、多くの作品は国立近代美術館に収蔵され、展示されることがないということだ。また、戦争画を描いたため、戦犯の疑いをかけられたのだ。その戦時中の作品は値段が安いとのことだ。この絵画修復ではかつて別れた女性が登場する。その女性の役割とは?乳房というのが何を意味するのか?

三作品目が「秘画師遺聞」だ。緊縛画という春画の一種?の修復を依頼される。作者の名は英斎という。英斎とは誰か。最後は修復を止めてします。なぜ修復を止めてしまうのか。その画のモデルは誰か?全般に絵画についての描写もよく、楽しめる作品だった。」
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by qzr02421 | 2009-01-30 20:26 |
ナッシュ均衡の話を続ける。ナッシュ均衡はたまたまの行動パターンなので、その行動が正しいということではない。たまたまその行動をとると、最適な結果をもたらすのだ。この均衡が崩れる時は、徐々にではなく、一気に変化するらしい。これを革命と呼んでいるようだ。絶対王政が崩れ、市民社会になったのも、少しの変化のあと、一気に革命を経て、市民社会ができるのだ。

ポンドからドルに基軸通貨が移ったのも一気ということだ。だから、ドルから次の通貨に移るのも一気ということだ。今、100年に一度の危機ということらしいが、移るなら一気なのだ。誰も予想ができないということでもある。

ナッシュ均衡は観念に縛られているので、その観念が変化すると、均衡が変化するということだ。この変化を均衡ジャンプと呼んでいるようだ。この思い込みが制度なので、制度の変化で体制が変るということとなる。下部構造が変ると上部構造が変るということでもある。つまり唯物史観と同じ発想がナッシュ均衡の理論となるのだ。

下部構造が体制つまり理念、上部構造が法や政治制度、思想、宗教ということだ。ナッシュ均衡は近代経済学の理論らしい。唯物史観はマルクス経済学の理論だ。二つの経済学は対立していると思ったら、結論が同じになるというところが面白いところだ。
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by qzr02421 | 2009-01-30 13:20 |
『猫と針』を読み終わる。恩田さんが、始めた戯曲を書いたということだ。鴻上さんが、作家らしい戯曲ですねということを言ったということだ。一場を書いた段階では、その後の展開が予想できないということが書かれていた。盛り上がって書いてしまったけれど、二場はどうなるのかという不安があったそうだ。

男性5人が喪服で登場する密室劇である「キサラギ」と同じような設定だが、内容はかぶっていないということだ。第3場まで書いて、4場がというところで、4場をエチュードでやってみせてくれたそうだ。エチュードといのは、戯曲なしで、役者がその役になりきって、即興で作り上げる芝居のことだ。

役者さんは修羅場をくぐっているので、柔軟に役になりきり、その役を台本なしに演じたとうことだ。台本なしに、演技するということの凄さというのは、すごいの一言だ。台本がなかなか出来上がらないので、キャラメルの岡田さんは、「どんどん直していいんです、とにかくできたものを下さい。一回覚えたものを捨てて、もう一度覚え直すのには慣れてますから」と言ったそうだ。

劇は上演時間が書かれていない事が多い。それは、役者の演技で、時間が変るということがある。転換のところでも、また時間が変るのだ。「三つの物語の朗読会」は幕間を含め90分を予定していたのだが、幕間が早く、役者の演技がスムーズになり、三回公演したのだが、だんだん早くなっていった。最終的には80分ほどでだった。10分も短くなったのだ。「猫と針」は90分の上演時間を目指したということだ。

通し稽古で100分、様々の工夫で90分に近づけていくのだろう。芝居は映画と違い、生身の人間が演じている。セリフを飛ばせば、短くなり、それぞれの役者がねちっこく喋れば、長くなるのだ。ネタバレになるのでストーリは書かないが、面白い戯曲だった。ところで、作者が分からないという針というのは、人生の体験の中で、心に刺さっている、思い出という針ではないのかという感想を持ったのだ。
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by qzr02421 | 2009-01-29 19:30 |

復讐の鬼となった007

007の新作「慰めの報酬」の宣伝をテレビでやっている。最近は映画をテレビで宣伝するケースが多いようだ。「感染列島」や「20世紀少年」も同様に宣伝している。新聞の時代、本の時代が終わるように、映画の時代も終わろうとしているのだろうか。歴史を学べば、100年続くものはそんなに多くないということの気がつくだろう。車の時代も終わろうとしているに違いない。2050年が節目の年だと思う。どのような時代が来るかは分からないが・・・

ところで「慰めの報酬」だが、前作の一時間後から始まっているということだそうだ。突然カーチェイスから始まる。カーチェイスはそれなりに面白いのだが、なにせ、早すぎる。早いのは時代を表しているのだろうが、全編、とにかく展開が速い。「007は殺しの番号」などゆったりと見ることが出来た。ロジャー・ムーアの作品も、ユーモアがあり、荒唐無稽の話ありで、批判はあるが、楽しめる映画だった。

いつのころからか、時代を現わしているのか、暗く重い映画が多くなったような気がする。この映画も前作最後で殺された、女性の復讐ということが基本になっていた。復讐の鬼となった007が、どのような活躍をするのかということだ。007の映画の基本の、世界の有名な場所や、祭りなどがバックのなっているのは楽しいものだ。

ハイチ、イタリア、オーストリア、ボリビア、ロシアとめまぐるしく移動する。移動する道具もバイク、車、ボート、飛行機などだ。ともかく動きが早い。あ~といっているうちに、2時間弱の映画は終わったのだ。前に見た道元を描いた「禅」とは全く違う映画だ。当たり前だが・・・」
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by qzr02421 | 2009-01-28 21:40 | 劇,映画その他
〈「依存関係+バラバラ=疎外」というのが式だの話〉を続ける。つまり、疎外というのは依存した、関係と保ちたいのに、相手の心や考えていることがわからないため、バラバラになってしまうという現象のようだ。愛し合っている男女が、それぞれの家にいたとする。そこで地震が起きた。この男女はどのようの行動するのが、最適だろう。いわゆるパレート最適ということだ。

行動はふたつ、家に留まる、つまり相手が来るのを待つ、もう一つは相手の家に行くというものだ。相手も二つの行動があるので、パターンは四つとなる。①二人とも相手の家に向かい、会えないというもの、②男が出かけ、女が待つというもの、会えるのだ。③男が留まり、女が出かける、つまりこれも会えるのだ、④男女とも家に留まる、つまり会えないが、疲れない、危険な目に遭わないというメリットがある。

相手が留まるのか、来るのかが分からないので、動きようがない、これはゲームの理論とよんでいるものだ。アメリカの数学者ナッシュが考え出したものだ。映画「ビューティフルマインド」で有名だ。最悪が①、次悪が④、男が最善で女が次善が③、男が次善で女が最善が②となる。次善というのは、移動で危険な目に遭うかもしらないリスクがあるためだ。

相手が来るということが分かっていれば、待つという行動をとる、いつも男が来るという習慣があるなら、つまりデートの時はいつも男が迎えに来るという習慣があれば、女性は待つ、男が行くという選択ができる。地震という緊急事態でも、女性が待ち、男性が行く、ということとなう。これをナッシュ均衡とよんでいる。パレート最適は、ある習慣がなければ成立しないということとなる。この習慣を文化と呼んでいるのだろうか。

相手がいつも取る行動に、自分も合わせるというのがナッシュ均衡というものだ。相手が王様はは裸だが、立派な服を着ているというのなら、自分の行動は相手の合わせて、りっな服を着ているということとなるのだ。人々はその行動から抜け出せない地点をナッシュ均衡というといことだ。
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by qzr02421 | 2009-01-28 18:32 |
『はだかの王様』という童話がある。王様は裸なのだが、誰もそれを言わない。見えないのに見えるふりをする。一人の少年が「王様は裸だ」といって、王様が裸だということが、それが真実だということが分かるのだ。自分と他人がバラバラになっている、意志の疎通がないというところに原因がある。自分は裸だと思うが、それを言ったら、変に思われるという自己暗示の結果、誰も「王様は裸だ」ということを言わないのだ。松尾匡著の『はだかの王様の経済学』から印象に残ったところを書くこととする。

いじめ(いじめをやめようというと、弱虫と思われる、自分が攻撃の対象になる)も、太平洋戦争の開戦(アメリカに勝てるわけがないということを言えない)も、他の人との意思疎通がないことから、どんどんことが深刻化していうということだ。絶対主義も国王や日本の織田信長などが権力を持てるのの、臣下がバラバラで、意思疎通がないからだ。このような残酷な王はいやだ、ということが臣下全員が一致して思っていることが、分かれば、絶対主義は到来しないのだ。

お金も同じだ。ただの紙だが、それが価値があるというように、みんなが思っているので流通するのだ。誰かが「それはただの紙じゃないか」といって、みんながそれに気がつけば、それはただの紙になってしまうのだ。第二次世界大戦前、中東や北アフリカで流通していた貨幣はなぜか、マリア・テレジア銀貨だったのだ。オーストリアの貨幣が、何の関係がないのに、その地方の人が、価値があると思えば、それば流通するのだ。

ポンドがドルが基軸通貨というもの、世界中の人が、それが本当だとおもっているからそのようになるのだ。少年が「ドルなんてアメリカの単なる貨幣じゃないか、どうして世界中で使うのか、変じゃないか」といって、それをみんなが信じれば、ドルは基軸通貨の座から転げ落ちるのだ。かつてポンドがドルに基軸通貨の座を譲ったように。

みんながバラバラになっているのが、その思い込みの原因ということだ。それを「疎外」と言うらしい。疎外というのは「考え方、理念、思い込み、決まりごとなど人間の頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとり立ちして、生身の人間を縛り付けて個々の人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまう」ことだ。これを言ったのが、フォイエルバッハやマルクスなのだ。「依存関係+バラバラ=疎外」というのが式だ。
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by qzr02421 | 2009-01-27 15:03 |

『猫と針』

あまり小説は読まない。評論や歴史の本など読むことが多い。ただ、芝居の音響をしていることもあって、戯曲を読むことはある。慣れないと読みにくいかもしれないが、結構戯曲は面白い。声を出してみるのも、また良いものだ。

『猫と針』とうい戯曲を今、読んでいる。恩田陸著だ。キャラメルボックスで以前公演したものだ。予定がうまくあわず、この劇は見ることができなかった。残念だった。どのような話か、知りたいとかねがね思っていた。今回それで、読むことにした。

口上が面白い。ミステリー劇を恩田さんは依頼されたのだ。しかも酒を飲んでいるところで。「ふりーの職業人というものは、とりあえず「できない」とは言わないものなので、私はニコニコと微笑んでいた」という文章がある。なるほどと分かる心境だ。私も。頼まれたら、「できない」とは言わない。

次は台本が出来ていないのに、劇場が押さえられ、内容もないのに、「とりあえずタイトルは?」と言われ、『猫と針』というタイトルだけ決まるのだ。そして次はポスターとチラシが出来上がるが、まだ台本は出来ていないのだ。この後は台本もないのに、チケットが売られていくということになる。

台本がないのに、タイトルが決まり、ポスター、チラシが出来、チケットが売られるという状態は、結構あることらしい。以前マキノノゾミさんの同じことを言っていた。台本がないのに、事態が進行していくということだ。おそろしい現実ということ。

ところで『猫と針』は、黒い服を着た(礼服だ)男女が四方山話をしているという設定だ。しかし、そこから話は始まっていく。一場は、その男女の関係を示す場だ、二場は、どうしてその男女が礼服を着て集まっているのかを説明している。なぜ猫と針なのか?恩田さんは猫は出てくるけど、針はよく分からないと書いている。原作者が針とは何かというのは、また面白いものだ。読んで、針とは何かを考えてみるのも面白そうだ。
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by qzr02421 | 2009-01-26 21:37 |
日本とヨーロッパの違いの話を続ける。さらに、他のものを比べてみよう。耳飾、首飾り、指輪、腕輪など(古墳時代までの日本にもあるが、それ以後はないものだ)はヨーロッパの特徴となる。日本での装身具は江戸時代にあらわれ、かんざし、根付、印籠などで実用性が強いものだ。日本の装身具がないというのはどういうことか。さまざま説はあるが、よく分かっていないようだ。

彫刻も仏像以外ないというのも日本の特徴だ。これも古墳時代の埴輪を境にしてなくなる。室町以降は面、欄間彫刻が発達する。また、ボタン、ズボン、靴も発達していない。これも古墳を境になくなるようだ。カバンと風呂敷という対比もある。

ヨーロッパ人は上に向かい、日本人は横に向かうというように考えられる。キリスト教の天国は上にある。それに対して極楽浄土は西のかなたのあることになっている。垂直構造と水平構造といってもよいだろう。言語構造も日本語は抑揚が少ない、英語は抑揚が強いのだ。日本の文化がいつも水平であったわけではないようだ。

縄文時代は火炎土器のように、垂直性が強い。また竪穴式住居も丸い構造をしている。弥生時代は水平性が強い。土器もシンプルになり、方形周溝墓のように四があらわれる。古墳時代は垂直と水平が混在している。飛鳥時代から江戸時代までは水平性が強く、明治時代以降はヨーロッパの影響で垂直性が強くなっている。地域的にも東日本は垂直性が強く、西日本は水平性が強いようだ。以上のことは『添う文化と突く文化-日本の造形様式』(外村直彦著、淡交社)を読んで、印象に残った事柄を記したものだ。
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by qzr02421 | 2009-01-26 20:32 |