本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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茂木健一郎の『欲望する脳』から考えたりしたことを記したことを続ける。夢は昼間蓄積されたストレスを解消するために見るという説があるようだ。昼間の活動で嫌なことを経験すると、それがストレスになって、それを解消するために夢をみるということだ。

昼間にある人に会った、その人が嫌な人でも、ビジネス上は我慢をすることになる。しかし、嫌な奴という記憶は残り、それがストレスになるのだ。そのストレスが、ある種の夢をもたらすのだ。しかも、それは本人では分からないということだ。本人と違った思考を持つ人しか分からないというのだ。不思議なことだ!

また、人は遺伝と環境とどちらが重要化という問がある、両方重要なことにはちがいない。実は人間の知性は何時までたっても完成形を迎えることがない「終末開放性」という特徴を持っているからなのだ。人間が遺伝子で決まっているとしても、遺伝子の命令が貫徹するまでに人間は死んでしまうということだ。

歴史も同じで、いつでも完成しないうちに終わるのだ。モーツァルトが古典派音楽を完成したと思っても、じつはその次にロマン派は登場するのだ。ロマン派の次には現代音楽が続くということだ。ところでモーツァルトの時代は音楽家の地位が低く、パトロンである貴族のご機嫌を取ることが重要なことだったのだ。かれは借金に追われ、注文を受けて、音楽を制作する職人という見方もできる。

ところで、文化を担う人は金持ちが多い、先祖が蓄えた財産で、絵を描くという人物がいた、それが伊藤若冲だ。前期のモーツァルトは苦労をしたようだ。文化人はお金の苦労をした人としない人がいるようだ。メンデルスゾーンの曲を聞くと、穏やかの気持ちになるが。きっと彼は大金持ちだったのだろう。自民党総裁になった麻生さんも大金持ちのようだ。穏やかの政治をして欲しいものだ。
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by qzr02421 | 2008-09-30 14:04 |
「眼から鱗が落ちる」というけれど、実は、おぼろげな形で分かっていたことが、さらに精しく分かるようになったとうことだという考え方がある。それは小林秀雄の考え方だ。詳しくという単語を精しくと書くのも小林秀雄流なのだ。問ができるということは何かが分かり始めたということと同じことのようだ。

何故精しく分かるようになるのか、それは、脳の記憶は、書き換えという形ではおこなわれないということで分かる。人間の記憶は新たに記憶する時、過去に記憶し、蓄積された記憶と照合しているのだ。過去の記憶と新しい記憶は関連されて新たに記憶されるというのが人間の特徴だというのだ。

人間の記憶というのは、「冷たい」という言葉でも、水は冷たい、空気が冷たい、彼は冷たい性格だというように、様々な記憶の積み重ねによって、冷たいという言葉の記憶が存在するということだ。

これは、すごいことだ。学習によって、記憶が変化し、深化していくということだ。本を読んだり、経験すればするほど、記憶はさらに深化していくのだ。その記憶している自我というのはひとつか、あるいは多重化という問題がある。現代の法は自我は一つということを前提にしている。

人間は四歳くらいで、自分が意識を持つ存在であることを自覚するというのだ。その自覚ととともに、他人にも心があるということに気付くという。自分が意識があるということは、他人にも意識があるということはわかるということだ。

しかし、自我が本当にひとつかどうかはわからないのだろう。夢は、深層心理を反映するといわれている。夢はその人にとって盲点である、自分では解釈できないという。心理学者も患者と親しくなり、患者の気持ちが分かると、解釈できなくなるという。以上は茂木健一郎の『欲望する脳』から考えたりしたことを記した。
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by qzr02421 | 2008-09-29 13:56 |

学芸員の実習については

奈良大学に学芸員の実習に行く。一日仕事だ。朝6時50分ののぞみで京都に向かう。京都で近鉄に乗り換え、高の原に行き、そこから徒歩で奈良大学まで行く。8時40分頃についたが、教室は結構うまっていた。午前古文書、午後の美術資料の実習を終え、徒歩で西大寺に向かう。途中で弁当と土産を購入し、大和八木まで普通で行き、八木から特急に乗り名古屋に帰ったのだ。朝早くから夕方までハードな一日だった。

学芸員の実習については、古文書と美術資料の実習だ。古文書の実習は和本の綴りを体験するものだ。朝鮮綴じという綴じ穴が5つのものだった。レポートなどは綴じるほうをきちんと揃えるが、和本の場合は袋の部分(綴じないほう)と地を揃えるのだ。聞けばなるほどと思うが、レポートなでをホッチキスでとめるのに慣れているので新鮮な感じがした。

和本自体は、中学の時は高校の時かは記憶が定かではないが、やったことがあるので、簡単に出来た。出来たといっても、早いだけがとりえなので、綺麗に出来たというわけではない。早くて綺麗がよいが、私の場合はだだ早いだけだ。遅くて汚いが一番だめだが、早くてきたいなと、遅くて綺麗とどっちが二番目だろうか?

古文書の二コマ目は実際に古文書の触れ、気がついたことを各班ごとに発表するというものだった。天井村の古文書、典籍、台帳などを見ながら、班ごとの話をするのも楽しいものだ。これで午前中は終了した。午後は仏像の計測とその特徴を考察するというものと、掛け軸の掛け方、巻子の扱い方、箱の紐の処理の仕方などの実習があった。楽しく、また有意義な一日だった。
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by qzr02421 | 2008-09-29 11:00 | 奈良大

豊かな人生は・・・

「感動することが若さを生む」ということを茂木健一郎が言っている。「感動が脳を進化させる」とも言っている。アインシュタインは「感動することをやめた人は生きていなと同じことだ」と言っている。

感動すると若さと長生きを生むというのは面白い考え方だ。何かを知りたい、何処かに行きたいという思いを持つ人の方が若く長生きする可能性があるのは当然のような気がする。何もしたくないと家に引きこもる人が長生きするとは考えることができない。

世の中に知らないことがたくさんある、それを知ろうという欲望が若さと長生きを生むということだろう。あるいはその欲望を持った人の誰かが長生きをするということだ。知ろうとしなければ、分かるということはないのだ。

また、豊かな人生はパートナーの理解が不可欠だ。パートナーの理解は共感から始まるということだ。「自分の気持ちも上手くコントロールできないのに、他人の気持ちをコントロールできるはずかない」というのが原則なのだ。

相手をコントロールするのではなく、その人の心に添うということが大切なことだ。相手に共感するということは「思いやり」ということばで表すことができる。感動、共感、体験(知識)、意欲(欲望)が独創性と若さと長生きを生むということだろう。
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by qzr02421 | 2008-09-28 05:18 | 評論
何も努力しない人が独創的な業績を得ることはない。体験や知識が基礎になり創造性は生まれるのだろう。受験勉強をしていて、問題を読んで、答えが思い浮かばなければ、勉強をしたことにはならないと考えている。

問題の答えは考えて出てくるものではない。問題を読んだ瞬間に思い出すものだ。それを思いつきとよぶ。知識や経験が背景になって、答えを思い出すのだ。あるいは答えが浮かび上がってくるのだ。これを思い付きではなく、ひらめきといってもよいのだ。

ともかく、体験すること、問題演習をすることが重要なことのだ。体験や知識を得ることが独創性の基礎ということだ。もうひとつ独創性に重要なことは、意欲だ。意欲というのは欲望ということだろう。

それが知りたいという欲望だ。それを知ること価値があることだという思い込みが必要だ。根拠のない自信でもないよりはよい。ともかく始めることだ。始め、一歩を踏み出せば、新しい世界が開けてくるものだ。あるいは、踏み出した人の誰かが、何かを掴む可能性があるということだ。

成功するイメージを思い浮かべることも重要だ。ともかく、悩んでいないで、一歩踏み出すことから始めてみようではないか。
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by qzr02421 | 2008-09-27 07:53 | 評論
勉強しても仕方がない。勉強など意味がない。そのように言う人がいる。努力しても見返るがないということだろう。しかし、宝くじが当らないといって、宝くじを買わなければ、絶対当ることはない。

だから、無駄だと思われる努力をしないと、望む結果は得ることが出来ない。努力をしても報われるかどうかは分からない、しかし、努力した人の誰かが、その努力が報われるということは間違いない。宝くじを買った人の誰かが、何億円かを手に入れるとということと同じだ。

努力しても、成果が得られないなどという風潮が生まれたのが何時からだろうか。誰かの陰謀ではないだろうか。人間は努力し続けるしかないはずか。何か用意をした人だけが、何かを得る可能性があることは間違いないことだ。

親が「勉強などしてもたいしたことがない」というメッセージを送ると、子も勉強しなくなるのは当然だろう。明治の親は「立身出世」「末は博士か大臣か」と言って教育を重視した。教育を重要と考えた社会の中から、世に出る人があらわれたのだ。

努力をして、学び、活動することは決して損なことではないということだ。努力している人の誰かが、何かを掴むということは間違いない。努力している人全員が何かを掴むことはないが、努力をしない人は絶対掴まないことは間違いがないことなのだ。人生はとりあえず努力することが重要なことだと思う。
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by qzr02421 | 2008-09-26 12:54 | 評論
リスクをヘッジするということはどういうことか?ヘッジというのは「予想される危険の備えること」だ。リスクのヘッジは個人ではできない。手段という単位でないとリスクは回避できないのが原則だろう。

東海大地震というリスクを回避するなら、まず、住んでいる家を耐震様式にするということは重要だ。しかし、個人で出来る努力は限界がある。子どもが二人いるなら、地震が想定されない地域に引っ越させるという手もある。

子どもが二人いるなら、一人は海外に、一人は沖縄に移住させるという手もある。親は移動しない。海外、沖縄、住んでいる所と3箇所あれば、誰かが生き残るだろう。そのようのするのがリスクをヘッジするということだ。リスクのヘッジは自己責任では回避できないということだ。

自己責任という言葉があるが、人は一人で生きているわけではない。集団を形成して生きているのが普通だ。一人の判断ミスが集団の絶滅を可能性もあるのだ。最近の人は自己責任という言葉が好きなようだが、それは誰かの騙されているのではないだろうか。

安倍さんや福田さんは辞任したが、安倍一族や福田一族は滅亡するわけにはいかないのだ。生き残りをかけて活動しているはずだ。自己責任という言葉を信じて滅亡するのは、案外、格差社会でいう下の階層ではないだろうか。

最近の現状は、何故か、下層の人に不利になるような政策を、下層の人が支持するという傾向がある。新自由主義を旗印にした小泉さんを支持したのも下層の人のようだ。新自由主義というのは「小さな政府」を目指すのだから、福祉や社会政策を切る捨てるということだ。福祉や社会政策を必要とする人が小泉さんを支持するという不思議な現象があるということだ。不思議な世の中だ。
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by qzr02421 | 2008-09-25 13:38 | 評論

男は切々と愛を語る

51年も愛する女性を待つことが出来るのだろうか。21歳の時であった女性を待ち続けて、51年目にその愛が成就するのだろうか。身分の違いから、結婚できずに分かれた男女、あるいは女性がこの男との関係は幻影だと思って分かれた男女。

女は違う男と結婚をして、人生を過ごす。男は、女性の夫が死んだら、求婚しようと待つ。それが51年という歳月だ。女の夫が死んだ日、つまり葬式の日に、男は現れる。51年待っていたと・・・女性は怒る、戸惑う、ゲットアウトと叫ぶ!

「コレラの時代の愛」という映画の話だ。コロンビアにノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスの名作の映画化されたものだ。コロンビアの自然が素晴らしく描かれている。川の景色がよい。落ちこんだ男の乗る船、その舟でであう女性、コロンビアの女性は積極的だ。

51年後、夫を亡くした女性と、51年待った男が、舟にのる。女性は72歳になっている。女の子は老人の恋は不潔だと言う。男は切々と愛を語る。女性は心を開きかける。そして・・・コロンビアの自然が素晴らしい。映画はこのような男がいるのかという感じを持った。愛はそれだけ強烈ということだろうか。
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by qzr02421 | 2008-09-24 08:30 | 劇,映画その他
「9月13日、愛知県岡崎市を震源とする大地震が起きる!」といううわさはブラジル人の自称予言者のものだ。もう少し詳しく書けば、マグニチュード8.6の地震で、600人以上の死者というのだ。麻生さんではないが、岡崎だから600人で、大都会の名古屋だったら大変ということになるのだろうか。

これがネットで流れて、防災用品などが売り切れ、品切れになってそうだ。オイルショックの時のトイレットペーパのようだ。自分だけまず助かろうということだろうが、備蓄がなかった神戸でも、餓死した人がいないようだから、そんなに心配しなくても良いようにも思うが・・・まあ、ないよりはあったほうがよいだろう
 
子供の間でも地震のうわさが拡大したらしい。ヤフーのニュースでは「友達と『部活を休んで逃げようか』『死ぬんだったら宿題しなくていい』という話で持ちきりだった」とある、また男子生徒は「信じてない子が多かったが、水や食料を買いだめした子もいると聞いた」。「家の中でも通学用のヘルメットをかぶっていた」「地震を避け、家族で長野県の親類の家に行った」との例もあったと書かれている。

ブラジル人の予言者は、地震が起きないことについて「ハッピーなことだ」とコメントしているそうだ。まあ、予言を言う人はそのようなものだろう。落語の「明日雨のような天気ではない」の類だ。「ような」の後に点を打つ場合と、一気に読むときの違いだ。これは「いやよして」も同じ遊びだ。「いや、よして」か「いやよ、して」の違いだ。

ヤフーには「雑誌に載った10人の予言者の予言、計360件のうち、当たったのはたった4件だったという。予言の99%は外れている」と書かれている。また「天変地異の予言に関して言えば、過去、多くの占師や予言者がさまざまな警告を発してきたが、大災害の起きる年月日や場所を正確に当てた例は皆無だ。今回の予言者にしても、08年1月から9月の間に世界で起きるという大地震を20件予言したが、見事にすべて外している」とも書かれている。何を信じて、何を信じないのかは自分で判断して、まあ、適当な防災の準備をすることが肝心だろう。
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by qzr02421 | 2008-09-23 15:25 | 評論
「余計なことをするのが人間だ」と内田樹さんは言っている。人生は一本道ではなく枝道が一杯あるということだろうか。「余計なコミュニケーションが人を育てる」とも言っている。人生は余分なことの連続ということだろう。「それがどのような役に立つのですか」という問は意味がないということだ。

高校生は「それを学んで何か役に立つのですか」と聞くことがある。学ぶ前から「役に立つか立たないか」分かるはずがないというのが内田さんの立場のようだ。「生きることにどのよう意味があるのか」という問いはありえない。あるときにはその問を持つ人はこの世にいないはずだ。この世に生きているならば、生きる意味を見つけたということだ。

勉強する目的も生きる目的と同じだ。そのような問い存在しないのだ。ブッダも「そのような問を持つことは意味がない。死のうとする時、生きる意味を問うても意味がない」のだ。問が存在しないということを考えたほうがよいのだろう。

問を立てることができるということは、その問題の答えが薄らぼんやり分かってきたということだろう。何も分からなければ、問も立てることができない。答えが分かっていれば、問を立てることもないだろう。問というのは分からないと分かるの間にあるということだ。
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by qzr02421 | 2008-09-23 10:03 |