本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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 吉村作治氏の公開授業の話をひつこく、また続ける。サイバー大学は、本人認証がネックになる。昨年、本人認証があいまいと指摘された。改善したけれど、まだ完全ではないようだ。あの事件で入学生が半減したようだ。

学士という資格を与えるためには本人認証は重要なことだ。しかし学ぶということには本人認証は必要ない。このサイバー大学は、家族で見ることができる、学ぶことができるのだ。3人で講義をインターネットで見れば、授業料は三分の一になると言う計算だ。

ただたんに学びたい人にとっては素敵な大学のように思う。奈良大学の通信制にキャッチフレーズは「奈良で学ぶ贅沢」だったかな?学ぶことは楽しいことだ。

入学生の半減で、こういう講演会+サイバー大学の紹介をしているのだろう。サイバー大学の紹介といっても実に淡白なものだった。あれで入学生は増えるのだろうかと感じた。吉村作治氏の熱意と事務方の淡々さの差が面白くはなったが・・・質問の時間もなかった。一つの講義は何回あるのか知りたかったのに・・・

 文科省はインターネットだけで、スクーリングがない大学をあまり理解していないのだろうか。体育は実習なしでよいのだろうかという疑問もあった。この説明会で、筋ジストロフィーの女性が在学しているという紹介があった。病気を理由にどこの通信制の大学も受け入れを拒否したそうだ。この全部インターネットで卒業できるサイバー大学は彼女を受け入れたのだ。
 
 この女性は「学ぶことはなんと楽しいことか」といって卒業に向けて頑張っている。女性の母も弟も「世界でこのお姉さんを一番尊敬している」と言っている。「学ぶことの楽しさ」は、勉強を強制されてはできない。サイバー大学も通信制大学も「学ぶことの楽しさ」を知っている人には素敵な場所だと思う。「学ぶことの楽しさ」、よい言葉だと思う。

 日本人としての意識は文化によって継承されるという。この文化が絶えれば日本人も消滅する。この文化の継承はこの「学ぶことの楽しさ」が原動力だと思う。たとえ卒業できなくても、あの大学で学べたという思いが一番大切なことのように考えた。

 この他に「おちこぼれの会の話」、「なぜ学校法人ではなく、株式会社にしたのか」、「私の話はおかしくはない、面白い、つまりインタレスティングなのだ」、「日本は世界遺産が個別だ、本来は地域で認定されるべきだ、日本は文化遺産は多いが文化はない、ワイドショー文化では日本の文化は消滅する」、「スライドを利用したエジプト文明の話」などがあった。吉村作治氏の時間をオーバーした熱のある公開講義だった。よい時間を過ごすことができた。この話はこれで終わり。
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by qzr02421 | 2008-03-31 11:25 | 日常
 吉村作治氏の公開授業の話をさらに、また続ける。研究のためにはお金が必要だ。そのお金は自分が持っていなくてもよい。金は世間にある。自分の研究のためにお金を出してくれる人を捜せばよいのだ。

 ツタンカーメン王の墓を発見したカーターは、カーナヴォン卿の援助でエジプトの王家の谷発掘し、運良く、援助が切れる直前、発見するのだ。「ミイラの呪い」「ファラオの呪い」という人がいるが、そんなものはない。カーナヴォン卿が発見の6ヵ月後に死亡し、その関係者も次々と死亡したといわれている。

 呪うなら発掘したカーターを呪うべきだ。彼は66歳まで生きる。お金を出した人が死ぬのはおかしい。それに、カーナヴォン卿の死亡原因はマラリアだ。

 「分からないことは自分で調べること」これがポイントだ。研究するとき、権威ある研究者に聞いても分からないことが多い。より多くの関心を持って、人が見ていないところを研究する人に、先立つ研究者はいない。自分が先頭で研究しているのだろう。

その例として次の例をあげた。早稲田大学で教授に「同じ場所なのにテーベ、ワセト、ルクソールなどいくつかの名があるのはなぜか」と聞いた、教授の答えは「いろいろな呼び名があるということだ」、吉村氏はがっかりしたという。その後カイロに行ったとき、現地の教授に同じ質問をした。

その答えが、「日本ではそんなことも知らずに研究できるのですか、のんきでいいですね」と言われた。今ではこの名の違いは誰でも知っている。時代によって名が変っていくのだと。最初は現地の人はワセト呼んだ。ワセトは都市とほぼ同じ意味。ギリシア人により東岸を意味するタ・アペトとの発音のからテーバイになった。さらにイスラムの侵入のよって、城を意味するアルクスス?(吉村氏の声が聞き取れなかった)からルクソールが生まれた。

分からないことは、自分で調べる、興味を持った人、疑問を持った人が調べる、それはその通りのことだ。実践したいものだ。
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by qzr02421 | 2008-03-31 08:53 | 歴史
吉村作治氏の公開授業の話をさらに、さらに続ける。サイバー大学と通信制の大学のちがいだ。奈良大学の通信制にはテキスト科目とスクーリング科目がある。3年編入だと、スクーリングなしで卒業できる。しかし、スクーリングで、直接講義を受け、同じような学生に会い、話をすることも楽しいことだった。

 サイバー大学は、スクーリングはなく、全部インターネットを使った授業で履修して習得できるのだ。授業料は単位ごとに支払い、一単位あたり21000円だ。語学は一単位で、それ以外は2単位だから、42000円×受講する講義の数+入学検定料(1万円)+入学金(10万円)という金額を払うことになるようだ。卒業まで必要な金額は2604000円ということだ。(3年編入制度はない)

 通信制は、検定料+入学金+授業料+スクーリング費用+スクーリングの交通費、宿泊料などだから、4年間を考えると、どっちが安いのだろうか。4年で卒業できるかどうかも分からない。通信の卒業率は10%ぐらいだ。サイバー大学の卒業率はどれくらいになるのだろうか。(まだ開講して2年目?、サイバー大学は12年在学できる、奈良大学は10年だ。)

 サイバー大学の開講科目は面白そうなものがあった。神田紅さんの「講談の世界」、栗原慎一郎さんの「シルクロード経済学」、三枝成彰さんの「西洋音楽史」、立川談志さんの「落語と文明・文明論」などがあった。正科生だけでなく科目履修生(大学受験の資格のない人には特修生)があるのは奈良大学と同じだ。お試しということもできるのだ。

 VTRで収録してしまえば、ず~とその講義は使用できるので、初期投資は大きいけれど、維持費は安く済むような気がした。講座をどのように工夫して、増やせるかが課題になるのだろうか。開講した時には、講義はすべて用意されているということだ。休校はないと言っていた

 講師の休校はないけれど、受講する学生の自主休校はある。よっぽどやる気がないと続かないように思ったが。受講する分払うのだから、あきらめもつきやすいだろう。

サイバー大学は学校法人ではなく、株式会社なのだ。ソフトバンクが筆頭株主なのだろうか。ソフトバンクのコマーシャルの犬は吉村作治氏だと本人が言っていた。本当か?
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by qzr02421 | 2008-03-30 13:24 | 劇,映画その他
 吉村作治氏の公開授業の話をさらに続ける。吉村氏の教え方は、マナーは教えるが、研究のノウハウは教えない。研究者はライバルだ。弟子といってもライバルという発想だ。奪ってみろという職人のような状態だ。マナーというのは、電話はベル1回で取るなどということらしい。極めて普通だ。

 刀の職人(刀鍛冶)が、刀の火入れや水入れの状態を知ろうとして、火入れの温度を知るために熱い鉄を握ったとか、水に状態を知るために、水の中に手を入れたら、手を切られたなどという話を思い出しながら聞いていた。

 「智恵」と「知識」はちがうという話が面白かった。知識はあった方がよいが、智恵は必ず必要だそうだ。知識は調べれば分かること。智恵というのはそれを調べるテクニックというか、調べる工夫のようなものか。「人が見ているところを見ても、何も見えない。人が見ていないところに真実が隠れている」のだそうだ。

 ピラミッドの例をあげた。ピラミッドの入り口は、中心線上にはない。(頂上から下まで引いた垂線上にはない)真ん中は重量が一番かかるところで、そこにはない。今、ピラミッドの入り口は、盗掘の跡、ここは中心線上にある。盗掘した人が、中心線の石をどけたのだ。
 
 この入り口は地面より、高いところにある。なぜか?盗掘の時の地面は、この入り口のところにあったのだそうだ。またスフィンクスはピラミッド建設以前にあった。そうでなければ、スフィンクスが王の墓であるピラミッドにお尻を向けているのはおかしいらしい。

 ピラミッドについて分かっていることはほとんどないという。分かっているのは、そこに石でできた、ピラミッドがあるということだけだそうだ。しかし、見えているところを見ても、真実は見えない。見えないところに何かあるのではないかという、発想が必要だという。

 「見えないところに何か必ずあるはずだ」という信念が重要なのだろう。見えているところは実は何も見ていないということでもあると思う。見るということを改めて考えることが必要だと思った。
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by qzr02421 | 2008-03-30 12:05 | 劇,映画その他
吉村作治氏の公開授業の話を続ける。人は生きていくためには宗教は必要だ。宗教とは教えを宗(むね)とするという意味で、その教えとは「生きることに悲観することはない」ということだ。

 そこでエジプトの話に入る。エジプト人は「肉体は滅びるが、精神(魂といってもよい)は滅びることはない。死とは肉体と精神(魂)が分離するだけだ。」と信じた。(宗教というには信じることだよね。信じられないから無宗教になるんだ。現代人の不幸は、信じるものがなくなったことだろう。どうして神は死んでしまったのか?)

 あの世に行くことができる条件がある。その条件は42個ある。その42という数字はエジプトのノモス(都市?地域国家?ポリスのようなもの?)の数と同じで、各ポリスが一つずつ持ち寄って、その条件としたというのだ。

 ところで、バーチャルとサイバーの違いだ。バーチャルというには擬似真実である。このバーチャルに発想・価値観がはいると、サイバーになるというのだ。(どうしても、このサイバーという単語は違和感がある。悪いイメージを感じるのはどうしただろうか?)

 吉村氏は自分の人生観も語った。
「私は今まで人の意見を聞かずに生きてきた」(確かにそのように生きているように感じる。うらやましいかぎりだ。人の意見を聞いていいことがないというのは、ある意味真実かもしれない。)

「人が右を見たら、必ず左を見た」(これは真似すべきことだと思う。人が行く裏の道のこそ宝物があるということだろう。人と同じことをしていてはダメなのだ。)
「せっかくの人生だ、自分のやりたいことをして、やりたいように生きるべきだし、私はそうやって生きてきた」(人の意見をいかずに、一度しかない人生を、自分が納得できるよ
 うに生きていくということだろう。早稲田大学でいろいろな提案をしたが、受け入れられなかったとも言っていた。『ユニークな提案ですね』で終わりだそうだ。)
  
「誰もが欲しいデータだが、それを研究する時間がないようなテーマ。その研究は誰でも知っていて、平凡なもの、。そういうテーマを研究して論文を書けば、世界中の人が、その論文を使ってくれる。研究と言うのは、最先端のテーマは誰も理解できないので、誰も使わない。凡庸なテーマに注目すべきだ」(これは素晴らしい意見だ。これこそが論文の極意だろう。誰でも知っているところで、新しい発見をするということが重要なことだ)
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by qzr02421 | 2008-03-30 07:21 | 劇,映画その他
 吉村作治の公開授業があるというので、サイバー大学の説明会にいった。定員が50名で予約制だったが、50人はいなかった。サイバー大学が嫌われたのか?サイバーで思い出すのは、ユニバーサルスタジオジャパンのターミネーターだ。大阪のお姉さん風の女性が登場して、場を盛り上げる。あの世界を征服する会社の名前がサイバーダイン社だったかな?

 最初は、吉村作治さん本人ではなく、インターネットを利用した大学なので、映像だけかな?と思っていたが、ちゃんと本人が授業をした。熱意のある授業だった。吉村さんは「サイバー」というのは分かりにくい、思い出すのは「サイバー・テロ」だ、と言った。サイバー大学というのはネーミングが悪いのだろう。最初は「サイババ」(インドの修行者かな?)と間違えたと言って、生徒の笑いを誘おうとしたが、滑ったようだ。全体に笑いが少なく、やり難そうだった。

 話はとても面白かった。「サイバー」と「バーチャル」のちがいを知った。「サイバー」というのは「もともとないもの」であり、「人間が作った想像の産物」そして「人間が作った最初のサイバーはあの世であり神である」ということだった。人間の最大の疑問は「死んだらどうなる」ということだその答えが「明日への希望」である。それば宗教の役割で、人間が生きていくうえで宗教は必要だ。

 実にまじめな話を、ユーモアたっぷりに話すが、生徒はあまり笑わないのだ、すこし、吉村さんもムッとしていたようだ。講義終了後、自転車で名古屋駅まで行ったので(会場はホテルサンルートプラザ名古屋だった)帰りはジュンク堂によって、桜が綺麗なので、名古屋城の桜を見て帰宅した。

 桜を見ると、職場の先輩を思いだす。桜の咲くころ「桜はいいですね」と言ったら、「来年は見ることができないかもしれない」と言ったことだ。彼はガンで「余命が・・・」と言われていたらしい。その時、「来年は見ることができない」という心境は何だが悲しいと感じた。

 その先輩は、翌年、子どもさんの結婚式に出席し、そして桜を見ることなく、旅立った。桜を見るたびに思い出す言葉だ。「来年は見ることが出来ないかもしれない」という言葉を。しかし、今年は桜を私は見ることが出来た。来年も見たいものだ。
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by qzr02421 | 2008-03-29 19:19 | 劇,映画その他
21世紀が直面する課題は、「民主主義」、「競争力」そして、「人間のきずな」であろう。「民主主義」というのは、絶対王政を倒して市民社会が成立して登場した。フランス革命は自由と平等を主張した。

 自由と平等は両立しない概念だ。強者は自由を主張し、弱者は平等を主張するのが普通だ。世界の工場といわれた時代のイギリスは自由貿易を主張した。当時は発展途上のドイツは保護貿易を主張した。強いものは、より多くの利益を求めて自由を主張するのだ。規制緩和という構造改革も、強者に有利な政策だ。

 弱いものは平等を主張する。国民年金や地方公共団体の行政サービスは、納税の額と関係なく平等になされる。しかし、これも構造改革で、受益負担の原則が導入された。なぜか、弱者と思われる人たちが、この受益者負担や構造改革を支持しているように感じる。歴史の皮肉というものだろう。

 自分が弱者であるということを意識すれば、競争は拒否し、平等を主張するのが普通だ。強者と思う人は、競争力を身につけ、自由を主張するのだ。ところで、あなたは、強者ですか、弱者ですか。

 この「人間にきずな」というのは、21世紀最大の課題になるだろう。今朝の新聞に「バス乗車中にケイタイでの通話を注意したら、注意された人が逆切れして、注意した人を殺した」という記事があった。バスの中は地域社会ではないので、他人同士の関係の場所だ。

 地域社会で、知っている人が注意しても、問題が起こる時代に、バスの中はモット危険だ。そういう時代なのだ。人間のきずなが崩壊した時代なのだ。人々がなぜかイライラしている時代だ。だからこそ、やりかたは、よく分からないけれど、人間のきずなというものを、もっと考えていくことが必要なのだ。
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by qzr02421 | 2008-03-29 10:33 | 評論
だいぶ前に見て、印象に残った映画、劇を思い出した。最初は「ナイロビの蜂」だ。

「ナイロビの蜂」という映画は、ケニアで妻が殺され、その殺された理由を外交官である夫が探っていくという話だ。殺害の背景には製薬会社の生体実験と不完全な薬という関係が明らかになっていく。妻のことを理解していく過程が評価される。夫は妻のことを最初はあまり深く理解していなかった。夫婦といっても、なかなか内面までの理解は難しいのだろう。熟年離婚、別居婚など、夫婦の関係を見つめるには、いい映画だと思う。

話はさらに続けると、妻は夫をこの事件に関わらせたくない考えた。夫のことを愛していたからだ。夫は妻を愛しているがために、事件に関わっていくのだ。「賢者の贈り物」という話があるが、よかれと思ってした事が裏目にでるというはあるものだ。でも、よかれと思ってするしかないような気もする。夫婦は基本的に理解できないということを出発点にするほうが、気が楽になるように思う。

それにしても、夫婦の愛を描いた作品だ。それ以外は、アフリカのスラムの様子と、賄賂を取って優雅に暮らすケニアに高官という比較が印象的だ。現実とはそう言うものなのだということを、あからさまに示していた。スラムの人々への援助物資が、そのスラムの人々に届かないという現実もあるようだ。

妻のしていたことを知り、さらに妻のことをさらに深く愛するようになるというのがラストだ。美しく悲しいラストシーンであった。
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by qzr02421 | 2008-03-29 06:56 | 劇,映画その他
 『日本史の一級史料』という本を読んだ。著者は山本博文さんで出版社は光文社だ。
 彼は、江戸時代の研究者で、東京大学史料編纂所の?教授だ。史料の扱い方を学びたい人には参考になる本だ。

宮本武蔵の史料は少ない。どのような人物かよくわからないというのは面白いことだ。奈良大学で聞いた話だが、教授に「小野妹子の研究をして、卒論にしたい」といったら、「史料がほとんどないのでやめたほうがいい」と言われたとか。「では須恵器は?」すると「論文が多くて、ほとんど研究されていて、大変だよ」と言われたとか。だったらどこを研究すればいいの?って感じになる。

佐々木小次郎と勝負したのは歴史的事実のようだし、熊本細川家にいたことも確かだ。しかし、詳しく歴史には登場しない。実際のところは、武蔵の弟子が、誇張して史料に残した話のようだ。それに対して、赤穂浪士の話の史料はたくさんあるようだ。小説なら話を作っても許されるが、学術的研究は難しいということだろう。

この本からは、史料を利用してどのように歴史を叙述するのかが分かる。日本にはまだまだ、手のついていない史料が多いみたいだ。また、今まではこのように解釈されていたが、新しい解釈が生まれ、歴史叙述が変わる例もある。ルソンから鹿児島に来たスペイン人の書簡がある。今までは幕府宛ての書簡と解釈されていたが、そうではなく薩摩藩宛ての書簡ということが分かった例があった。著者は学生時代から、史料を読み続けているという。古文書の読みは慣れから始まるようだ。
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by qzr02421 | 2008-03-28 11:52 |

狂言を観よう

 以前見た狂言について。「やろまい会」という名古屋での公演だ。これは、狂言だけの公演で、今年も、5月18日、名古屋能楽堂で行なわれる。今年の番組は「昆布売」、「井杭」、「磁石」、「苞山伏」だ。能と狂言のセットが一般的だが、これは狂言だけが演じられるのだ。狂言をストレートプレイ、能をミュージカルではないかと思ったりする。

昨年も同じ時期に演じられた。まず「いろは」、「いろは」というのは、親が子どもに口伝いにいろはを教えるというもので、同じことを言いなさい、というと子どもが、言わなくていいことも、繰り返すことから、騒動が起こるというもの、「うせにけり」で終わる。野村家で演じられた。おじいさんと孫の演技だ。今、書いているこの時、おじいさんはこの世にはいない。よい狂言だった。

次に「萩大名」・「川上」・「首引き」を見た。「萩大名」は、田舎者の大名が萩を観に行き、和歌をよむのだか、事前に覚えた和歌がなかなか思い出せずに恥をかくという話である。

「川上」というのは、10年前に目が見えなくなった老人が、川上の地蔵菩薩にお参りに行って、ご利益で目が見えるようになるのだが、目が見えなくなった原因が夫婦の関係にあるということも知る、離婚しようとするが、ここまで夫婦できたのだから、離婚はやめることにすると、また目が見えなくなるという、さっき捨てた杖を捨てなければ良かったというオチ。

「首引き」は鬼と為朝が勝負をして、鬼が負けるという話、鬼の動きが面白い。女の鬼の歩き方が面白かった。飛ぶように歩くのだ。後で聞いたら、狂言の女性はそのように歩くとのこと。しかし老婆は普通に歩いていたが、どうしてだろう。若い女性はということか。あるいは、鬼の女性はということだろうか。

 今年も、「やろまい会」を観に行く予定だ。劇やミュージカルとはちがった楽しさがある。
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by qzr02421 | 2008-03-28 09:47 | 劇,映画その他