本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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カテゴリ:日常( 435 )

ツイッター実行中

ずいぶん更新をさぼっている。半年ほど前からツイッターをしている、両方更新するのは難しい。ツイッターのよいところは、自分が思っていることを書かなくてもリツイートできることだ。150字ほどしかかけないのが難点だが、慣れればそれもよい、誤字があるのは、字数と関係がないことが分かった、単なる集中力不足と、誤字を気にしない性格というだけのことだ。

興味がおありなら、愛知ケントで検索して、見てみてください。本の紹介をしていないのが欠点だろうか。
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by qzr02421 | 2014-10-07 18:08 | 日常
道徳を学校を教えたほうがよいという話がある。道徳を教えることができるのだろうか。道徳というのは人の生き方の問題だ。過去に生きた人の例を示すことはできるが、過去の人は過去の時代で生きたので、現代でそのように生きることができるかどうかはわからない。人に親切にした人を示して、人に親切にしたほうがよいといっても、言われた人が、親切な人になるのだろうか。

定時制で教えているのだが、定時制高校には遅刻や欠席をする生徒が多い。遅刻や欠席が悪いという意識がないようだ。もちろん、遅刻や欠席をしないようにと指導はするのだが効果はないようだ。自分の欲望を優先して、自分の快楽を追及する生徒が存在する。一方では遅刻も欠席もしない生徒も存在する。この差はどうしてできるのかが、実はよく分からないのだ。

遅刻や欠席が多い生徒でも、成績がよく、決められた出席をすれば定時制高校を卒業をすることはできる。しかし、就職は進学ができるかどうかといえば、それは無理なようだ。企業では遅刻や欠席をする人を採用しようとはしないのだ。もっと人間性を見て欲しいといっても、その場にいないひとは対象外となるのだ。結局遅刻や欠席が多い生徒はフリーターのようなものにならざるをえないのが現実なのだ。

道徳を教えることはできないような気がする。もちろん、過去で道徳的に生きた人を教えることができるのだが、それは知識でしかないのだ。正直に生きた人がいました、それで終わりなのだ。正直に生きて得をしなかったいう現実を生徒は知ることになるかもしれない。正直に生きることと幸福になるということは次元が違う問題だ。不幸になることがあってとしても、正直にいきることが大切なのだが、それを教えることが難しいことなのだ。基本的人権とどのような関係になるのが問われることとなる。日本国憲法で人は幸福を追求することができるとあるのだが、幸福と正直とどっちを取ればよいのだろうかということを考えることが道徳だと思う。
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by qzr02421 | 2013-02-21 20:59 | 日常
グアムで信じられないような惨劇があった。秋葉原であった事件と似ているようだ。殺したという欲求にかられた人物の犯罪のようだ。どうして殺そうとしたのか不明なようだが、ときにそのような人間が出現するのだろう。昔エジプトでも殺人事件があったが、オリエント世界の犯罪はテロとか宗教のにおいがするので、事件が悲惨だが、なぜそのような事件が起きたのかは理解ができる。

日本でもたまにそのような殺人事件があるのだから、地球上のどこでも起こりうる事件のな気がする。死ぬか生きるかはちょっとした時間の問題のようだ。交通事故でも、その事故の1分前にその現場を通過してれば、事故にはあわないのだ。中央道のトンネル事故の悲惨だが、あれも天井が落ちてきたとこたまたまそこを通っていたに過ぎないのだ。誰でも死ぬ可能性があるということだ。中央道の中津川から飯田までのトンネルも天井があるので、あれがおちてくる可能性もあるということだ。

卒業旅行など3月は海外旅行の季節だ。海外はどこが安全だろうかと考えたと、どこも安全ではないような気がする。学生がどこが安全ですかとたずねたので、もちろんグアムだといったら、先生冗談ですかといわれた。これは冗談ではないのだ。今回このような時間がおきたのだから、グアムでまた起きると思うようだが、グアム観光のことを考えたら、今後しばらくは厳しいパトロールが行なわれるの違いないのだ。そういう意味で今一番安全なのはグアムなのだ。

人は事件が起こるとその場所が危険と思いがちだが、そのようなことはないのだ。無論現代社会なのでこの犯罪を模倣する人が出現することは考えることができるし、心配する必要があるのだが、その犯罪が起きるのはグアムではない。違う地域に決まっているのだ。同じ地域で同じことが起こると思い勝ちなのが人間の思考パターンのようだ。
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by qzr02421 | 2013-02-16 21:12 | 日常

小森さんの話の後半だ

細川さんはよい人というイメージがあるが、最悪の政治をした人ということを認識することが大切、この内閣の時に「自己責任」という言葉が出現し、これが若者の思考停止をもたらしていると指摘した。若者が何かをした失敗すると、それは自己責任と言われてします。それでは創造性のある活動ができるわけがないのだ。その原因の一端は細川内閣のなるのだという

その後第一次安倍政権の本質を語り、この内閣は従軍慰安婦を否定し、さらには戦前の政治家とつながっている人物なので、戦前の政治に対して郷愁があるのだという。日本国憲法はアメリカから押し付けらものという考えをもって、憲法改悪を企てようとした。そのため憲法を守ろうと保守や革新を乗り越えてできたのが「九条の会」なのだ。

そして、この内閣を倒した「九条の会」の運動を語り、さらに第二次安倍内閣の本質を語り、私たちは「9条と日本国憲法と人の命を守る運動をしなければならない」と結んだ。集会休憩後再開したあとに、どのように運動を進めたらよいのかという質問に対して「正しいことを訴えるのを草の根の運動だと思っている人が多いが、折伏するために運動をしているわけではない。不満を持っている人は正しいことを訴えても聞こうとはしない。不満を聞くことから運動を始めることが大切、若者が集える場所を作ることが求められている。訴えるのではなく、話を聞く場所と機会を作るのが運動だ」と答えた。その通りで運動は正しいことを主張するのではダメなのだ。正しいことを人が受け入れてくれることは少ないということが真実だと思った。

集会決議の採決、そして閉会挨拶では新婦人の人が「9条、憲法、命を守る運動を、つまみとビールまたはお菓子とお茶で進めましょう」と語り、熱気たっぷりの集会は終わった。参加者は年配の人が多かった。若い人が少ないのが心配だ。年配の人はやがて死んでいくのだが、これからの日本で生きていくのは若者なのだ。若い人が歴史を学んで、だまされずに、幸せな人生をおくってほしいものだ。
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by qzr02421 | 2013-02-13 21:58 | 日常

小森さんの話を聴いた

建国記念の日の不承認集会で小森陽一さんの講演を聴いた。講演のテーマは「この『くに』はどこに行こうとしているのか、そしてわたしたちの希望は」というものだった。この国はどこにいくのだろうかではなく、自分たちで決めるのが主権者たる国民の義務のような気がした。どこの行こうとしているのかというテーマ設定が間違っていると思う。政治はひとごとではないということを理解することが大切だと思うのだ。

小森さんは、私のことを知っている人が集まる集会というのはいいのだろうか。私のことを知らない集会で話してこそ運動が広がると思うし、今の日本の状況にぴったりの講師だと言ったが、最悪な状況で私が必要ということは、それでよいのかという思いがあると言った。なるほどという思いがした。小森さんの話の話の前に主催者の挨拶があったのだが、隣にいたおばさんが小森さんの話を聞きにきたのだから、早く挨拶は終われとブツブツ言っていた、そのような態度では日本はよくならないなと思った。誰の話でも聞こうと思う態度が大切なのだ。

小森さんは、民主党から自民党へ政権が移ったことについて、決して自民党が圧勝したのではない、得票数を見ればそれが分かる。さらに民主党が議席を減らしたのは、マニュフェストにない「消費税増税」を「自公」でやろうとした。民主党は日本国憲法前文にある「正当に選挙された」代表ではなくなり、国民を裏切った。主権者の声を代表していない。小選挙区制で民意は無視された。さらに反原発の声はかき消され、経済成長路線をマスコミが報道している。マスコミは正しいことを報道をしていない。

「思考の民意」と「感情の民意」がある。「感情の民意」で「維新の会」が議席を伸ばしたのだ。「思考の民意」がなければならない。このあと「小選挙区制を導入したのは何と言う内閣ですか」と質問したが、答えがバラバラだった。小森さんは「私たちは過去を忘れてしまう。これはよくないことだ、過去をしっかり思い出し、どんなひどいことをされたのかという怒りを持つことが大切」と述べ、小選挙区制を導入した細川内閣前後の政治を丁寧に語った。
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by qzr02421 | 2013-02-12 20:31 | 日常

未来に向かって歩こう

2・11「建国記念の日」不承認の集会というのがある。日本の建国を祝うのはよいことだろうが、日本の建国の日とはいつなのだろか。日本ができたのはいつかということだ。近代日本ができたのは明治維新だとすれば、王政復古の大号令だろうから1月3日ということだろう。明治維新はいつからいつまでかはいろいろ意見がある。以前は天保の改革以後で、江戸幕府が衰退し始めたこと始まりをとしていた。最近は江戸幕府は衰退はしていないので、ペリー来航以後ということになっている。

明治政府の官僚の多くは江戸幕府の役人だったらしいので、江戸幕府は崩壊したのではなく、薩長だけでは政治をすることはできないので、薩長ととともに明治政府を運営したということになっている。明治維新の終わりは西南戦争の終了ということになっているようだ。歴史はある日を境に変化するわけではない。ある程度の年数が必要となるのだ。この日から新しい時代と思いたいのだろうが、そんなに簡単に時代は変わらないのだ。

資本主義が生まれ変化しているのだろうが、いつ生まれいつ変化し、いつ崩壊するのかは誰もわからない。資本主義は成長を基本にしているのだが、いつまでも成長ができるとは思われない。成長が止まるとこがあるはずだ。人は今が永遠に続くように思うようだが、今は永遠に続くことはない、成長を続けていた資本主義が成長をやめるときがくるのだ。人はそれを信じようとはしないのだ。知らないうちに変化して、知らないうちの時代は変わっていくのだ。それは高校で習う歴史で明白だ。鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政も崩壊し、室町幕府は応仁の乱後戦国時代となるのだ。織田信長は暗殺され、朝鮮出兵は失敗し、石田三成は敗北するのだ。

建国記念の日を祝うことのどれほどの意味があるのだろうか。意味はないと思う。過去を知ることは大切だが、過去を賛美しても意味はない。未来に向かった歩くことが大切なことなのだ。建国記念に日を祝おうという精神はどこから生まれるのだろうか。なぜ過去を祝う必要があるのか。過去のすがりつきたい勢力の陰謀ではないのか。ともかく未来を信じ未来の向かった生きることが大切だとすれば、過去の日本がいつできてもそれを祝う必要はないような気がする。
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by qzr02421 | 2013-02-11 21:37 | 日常
難しい哲学書を読むのは好きでないのだが、授業で話さなくてはいけないので読むのだ。朱子学について語る必要があるので、朱子学と陽明学の本を何冊が読んだ。朱子学は難しい。理気二元論、世の中は気で出てているという。気の集散で物体などができるというのだ。これはアトムのことか。アリストテレスの質料かなのか。昔は朱子学の理と気を質料と形相になぞらえたが、最近はそのようなことはしないようだ。

気の背後には理が控えているのだ、気の秩序を与えているのは理なのだという。分かったようで分からない話だ。哲学とか宗教というものは信じることが大切なような気がする。理や気は見ることができないのだ。朱子学で気は見ることができるという。気が行動の表れるからだそうだ。基本的に儒学は性善説を取っているので、仁義礼智は人間の本性らしい。気と理がシンクロしていれば、人間は本当の生き方、朱子学風にいえば本性の生き方ができるのだ。シンクロといえばエバンゲリオンのようだ。性即理となるのだ。

シンクロというのはキーワードになるような気がする。人と人もシンクロすることが大切だ。人とモノとはシンクロすることも大切なことだろう。出会いとか相性とか赤い糸というものもシンクロの結果のような気がする。シンクロという言葉を大切にしたいものだ。朱子学では人間は知ることができれば変わることができるという。シンクロということが納得できれば人生が変わるのだ。朱子学の場合はまず学習が大切なのだ。

陽明学の場合は知ることが行動が一致することが大切だととく。学習して時間をかけて納得して行動をおこすのは遅いらしい。教員は学習が好きだ。課題があるとまず学習という意見がでる。まるで行動することを嫌がっているようにも見える。陽明学は学習して行動しろというのだ。学習イコール行動、これを知行合一という。江戸時代後半の大塩平八郎がどの代表だ。原発は危険だと知れば、原発即時廃止というようなものだろうか。知行合一というのは正しいように感じるが、世の中そんなに簡単に変わるものなのだろう。変わるためには時間がかかるような気がするのだが・・・
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by qzr02421 | 2013-02-09 18:16 | 日常
町文化を教えようと、高校の日本史の授業でですが、茶道や能が始まったのはこの時代だという話をした。茶道を「さどう」と言おうとしたのだが、ふと教科書のその部分、つまり茶道のところだが、茶道にふり仮名がふってあった。そのふり仮名には「ちゃどう」とあった。以前の教科書に、あまり教科書をみないから覚えていないので、最近の変化なのか、昔からなのか分からない。

NHKの茶道関係の番組ではこれを何と発音するのか聞き耳をたてたら、なんと「茶の湯」と言っていた。「ちゃどう」と言っていた番組もあった。どういう訳なのか疑問になり、調べたら「裏千家はチャドウ、武者小路千家ではチャドウ、さらに表千家はさどう」と読むらしいことが分かった。なおNHKは公平公正がキャッチフレーズなので、どの流派のも属さないお茶の作法という意味で「茶の湯」と読むのだそうだ。

お茶には作法があり、その作法を知らないと無作法になるとのことだ。しかし作法も流派によって違っているのだから、何が正解ということはないはずだ。だから自分で流派を新たしく作れば、その飲み方でもよいということにもなる。普通抹茶の入った茶碗は主人が正面を決めて、茶碗に最初から正面などはないのだから、客はその正面で飲むことを避けるために、ぐるぐると茶碗をまわすこととなる。風流だといえば風流だ。阿吽の呼吸と行ってよいだろう。客を思い正面で茶碗を出し、客は正面を避け飲むという思いやりの文化なのだろう。

能の奥義を示す『風姿花伝』、奥義書だから当時の人は限られた人しか読むことがなかった本だろう、今では誰でも読むことができる。これには「秘すれば花」という言葉がある。要するに大したことでないことも秘密にすることに芸術性が高まるというような意味だろう。茶碗をまわすなどということは大したことでないのだが、別に正面で飲んでもよのだろうが、このような作法を流派の秘密として、価値を高めるということが文化というもののようだ。そのような文化を気にしないという文化があってもよいとおもう。
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by qzr02421 | 2013-02-06 08:32 | 日常
長野では氷点下10度になったという。昨夜は水道管が破裂した夢を見たので、長野にある家は大丈夫だろうかと心配した。心配が実際になった。長野に家の隣にある人から、水道管が破裂したようなので元栓を締めたという電話があった。予想が当たったのだ。くじはあたらないのだが不幸があたるのだ。妻のそのことを言ったら、交通事故で死ななかったのだから、その程度で済んだことに感謝しましょうといわれた。太っ腹な妻に感謝しなくては・・・

早速水道を治そうと水道屋さんに電話したら、すぐに修理にいってくれた、ありがたいことだ。隣の人は破裂して水浸しになった部屋を雑巾などで拭いてくれた。これもありがたいことだ。自分自身もそのようにしなくてはという思う。明日は長野に行こうと思い、車の様子を見に行った。見に行かなくてもよのだが、これもいやな予感があったのだが、なんとパンクしていた。

これもすぐに修理のために電話をしたのだが、今のスタッドレスは古いのでこれを機会に買い換えようと思って、相談したら、4本で10万円を超すとのことだ。水道は破裂して水道代を払い、配管と蛇口を修理をして、さらには水浸しの床の修理、長野への往復など年末の多大の出費となった。妻に言わせれば、その程度で済んだのでよいのだという。

人間万事塞翁が馬という、今日の不幸が明日の幸になるのかもしらないし、そのように思わないと生きていけないということかもしれない。その程度で済んだのだと思う妻に感謝しなくていけないと思うのだ。その程度、実にすばらしい言い方だと思った。それにしても年末どうしてこのような目にあうのか、僧思ってはいけないということが分かっていても、やはり思ってしまう。これが人間の業ということなのだろう。
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by qzr02421 | 2012-12-29 19:04 | 日常
カレンダーもあと一枚となり、さらには今年もあとわずかとなった。この一枚が終われば、来年となるのだが、日常は続くし、年度はあと3月あるのだ。それにしても年末というのはいくつになっても年の瀬ということで、それなりの思いがある。紅白歌合戦を見るわけではないのだが、大晦日という言葉に対してはある種の感慨を持ってしまうのだ。今年も終わりですねと言われれば、そうなんだ今年も終わってしまうのだと思ってしまう。

時間や暦が実際に存在しているわけではない。時間経過というのは人間が考えた幻想のようなものだろう。人間はいろいろなものに頼らないと生きていきない存在なのだ。時間などというものは存在していない。時間は人類の滅亡とともに消滅する運命のものなのだ。暦というものも支配者が住民に与えたものだ。明治時代の太陽暦とした民衆に与えたのだが、民衆は月との生活を優先した時代が続いていたようだ。それが大安とか先勝とか言うものがその名残となっている。

人間の生活にとって一番大切なものは人間関係に決まっているのだ。人間関係の基本は人を知るということだ。人を知るためには他人の考えを知ることだ。他人の考えを知るためには、他人の会話をしっかり聞くことが必要となる。ということで、電車がなどでは他人の会話を聞くことにしている、人はこれを盗み聞きというのだが、盗んでいるのではなく、聞こえてくる会話をただ聞いているだけのことなのだ。

聞こえてくる会話はそれなりの面白いものがある。話している人たちは、聞かせようとしているわけではないのだろうが、聞かれてもかまわないという意識はあるようだ。最近多い会話形式は、会話になっていないというもんだ。それぞれが自分の意見を言っているだけというものだ。聞いているとこれは会話ではないと思うのだが、それをその人たちの言うわけにもいかないので、結構ストレスがたまったりするのだ。これが現代の特徴かもしれないと思う。
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by qzr02421 | 2012-12-27 11:49 | 日常