本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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カテゴリ:劇,映画その他( 379 )

蜷川幸雄演出の「祈りと怪物」を大阪で見た。6時半に始まり終演は10時50分という大作だが、その時間を感じさせない面白さだ。楽しい話ではない。この芝居を見たハッピーになることはできない。ハッピーな気持ちなどとは異質な芝居だ。それでも長時間見ることができるのは、原作と演出が素晴らしいのだろと思う。

舞台は単純なものだった。大きな平台があるだけだ。これでどうなるのかと思ったのだが、コロス、ギリシア劇で登場する歌を歌い、この場面を説明する人たちが登場する。このコロスのラップによる芝居の説明が印象的だった。耳に残るラップだった。それ以外のセットとしたは、島舞台、墓石、教会などだった。墓石が動くのが印象的だった。客席側両袖にモニタがあり背景説明や台本のト書きや曲名を表示するのだが、二階の客席からはじっくり読むことができなかった。もっと大きなモニターだったらよかったと思った。

ストーリーは単純なものなのなのだが、見ていると実の複雑に感じるのが不思議だった。暴君ドン・ガラスと3姉妹の恐怖政治が行なわれるウイルビルという町の話だ。その恐怖政治に捲き込まれる人々と町の顛末で、人が死んでいくという話だ、死ぬ人がいれば生き残り人もいる。どうしてこの人が死んでしまった、この奴は生き残るのかという疑問を感じる。正義が勝つわけではないということがわかる。理不尽な暴君が最後まで生き残るということが、現代社会を皮肉っているような気がした。

話は単純なのだが、考えさせる作品だ。役者がどのような考えて演技しているのがが分かるような気がした。矛盾だらけの話の中で、役者と演出家が考えて、そして稽古したのだということが分かるものだった。単純な話なのだが、それでいた奥が深い話なので、それなりの深さを感じることができた。席が二階の後ろのほうだったので、大きく劇は見ることはできたのだ。それでもできれば最前列で水かかかる恐怖を味わいながら見たいものだと思った。
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by qzr02421 | 2013-02-20 19:50 | 劇,映画その他
劇団燐光群の「星の息子」を名古屋芸術劇場小ホールで見た。公演は12月15日と16日の二日間だ。渡辺美佐子と円城寺あやの演技が印象的だった。沖縄の配備されたオスプレイに反対し、このオスプレイの基地となるヘリパット建設反対する人々とそれに賛同する人たちを描いたものだ。沖縄北部にある高江という集落が舞台だ。やんばるの森が残っているので、アメリカ海兵隊はそこをジャングルの想定した訓練ができるのだ。

星の息子というのはその反対運動を指導している「星児」という人物を探すことを主題としているからだ。その星児を名乗る人物が多く登場する。住民が平和に暮らすことができるところには必ず星児が出現し、しかもツイッターで支持し、誰も星児と直接会ったことがないのだ。その星児を探しているの渡辺美佐子演じる人物なのだ。美佐子の子どもが星児なのだ。

この劇の中で、住民が人間として暮らすために東北の震災の現場や原発反対、沖縄での基地反対をしようとしても、国が干渉してくるのだ。国は住民が安全に暮らすための政策をしなければならないはずなのに、電力会社やアメリカ軍に協力する政策しかとらないと描かれている。この劇の中で「見えないものは遠いから見えないのではなく、上にあるのだ、世界は水平方向に広がっているのではない、垂直方向の広がっているのだ」というセリフが印象的だった。

また、「沖縄の基地と原発を一緒にすることはできない。沖縄の基地は政府から押し付けられたもので沖縄は望んでいないのだが、原発は誘致した地方の有力者の存在がある、つまり原発は誘致してそこの存在しているのだ」というセリフだ。原発を反対することはそれはよいのだが、原発で生活をしている地域が存在しているということなのだ。2時間強の劇だが、その長さを感じさせない劇だった。
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by qzr02421 | 2012-12-16 14:52 | 劇,映画その他
サルトルを取り上げ話をしているのだが、サルトルの思想が分かれば、サルトルになることができるわけでから、サルトルの思想を分かったような気になるだけで、本当は分からないのではないのか。サルトルは自由を重要視した。人間は自由なのだ。自分の人生をどのように選択するという自由を持っているという。ダメな自分を選らぶ自由もあれば、優秀な自分を選らぶ自由を持っているというのだ。サルトルはエリートだから、そのような自由を持っているともいえる。

ダメな自分を選択するということは、自分はダメな人間を思って行動することをいうらしい。自分がダメと思うということは、それを選択したということを意味するのだ。自分で選んだのだから、責任を取れと、サルトルは迫って来るのだ。自由というのは恐ろしいものなのだ。フロムは『自由からの逃走』という本を書いた。大衆は自由から逃げて、ヒトラーみたいな人物に従った方が楽になるということを言っている。

学校での自由作文というのはつらいものだ。課題があったほうが楽ということはよく分かる。自分で課題を見つけ、その課題を研究するということは大変なことなのだ。卒業論文のテーマがなかなか見つからない、見つけてもそれでよいのか不安になるということでもある。自由にしてよいということは、とても大きな責任を背負うということなのだ。

大阪で劇団イキウメのミッションという劇を見た。人間の行動には意味があるのではないかという提起劇のようだった。無意味な行為と思っていても、それはなんらかの意味があるのだ。人間が生きて行動しているということは、自分以外の人たちに何か影響を与えている、あるいは全世界に影響を与えているのではないのか。自分に与えられたミッションとは何かを探る劇だった。人間は生きているということは、何か意味がある、意味が欲しいということでもあるのだろう。
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by qzr02421 | 2012-06-08 18:29 | 劇,映画その他
大阪市立美術館で「契丹」展を開催している。契丹というのは10世紀頃中国北方にいた遊牧民族だ。遊牧民族は文書史料を残さないから、詳しいことは分からないのだ。有名なジンギスカンの墓でさえ分かっていないのだ。史料は農耕民族しか残さないので、遊牧民族は農耕民族の財産を奪うという悪という存在で描かれることになる。

近年、契丹の墓が発掘されたので、その成果を展示している。金や銀を使った副葬品は見る価値があると思う。歴史が農耕民を中心に書かれていることは間違いがないことだ。農耕民が立派で、遊牧民がダメということはない。農耕民の歴史は、農耕民が立派という歴史観で書かれていることは間違いはないのだ。

契丹が作ったものは、中国の王朝が作ったものよりは完成度が高いとは思えないが、つまりゆがんでいるということだが、それはそれで風情があると思う。歴史は農耕民族中心で書かれているので、遊牧民族はたいした文化を持たないとされるが、それは農牧民族の見方でしかない。歴史は書いている民族の歴史観があるので、それを考えることが大切だ。日本の歴史は日本人が立派ということを示すために書かれているということを理解することが大切なのだ。

契丹展をゆっくり鑑賞することができた。美術品を見たあとはランチをするのが一番だ。大阪市立美術館の付近にはいろいろ食べるところがあるのだが、今回はビックリドンキーで食べることにした。11時半ころだったが、満席だった。土曜の昼食は混むということだろうか。ランチを食べ、その後は天満天神で落語を楽しんだ。有意義な一日だった。
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by qzr02421 | 2012-06-04 22:46 | 劇,映画その他

「歌わせたい男たち」

卒業式のシーズンも終わりに近づいてきた。以前から日の丸・君が代の問題があったが、大阪の橋下市長の動きでまたまたクローズアップしているようだ。内心の自由をどのようにとらえるべきかという問題でもある。内心の自由は、言論の自由でもある。言論の自由は心が外のあらわれるわけだから、行動の自由があるということでもある。心で何を考えていても外の出なければよいという考えは明治憲法の考えだ。君が代を歌わない自由があるというのが現憲法の精神だとおもうのだが、そのようの思わないのも、それは自由ということでもあるのだろう。

今年のシアターアーツの劇は「歌わせたい男たち」というもので、歌わせたいのはもちろん君が代、つまり国歌のことだ。卒業式当日、ピアノを弾くべき音楽講師がめまいを感じ、国歌の演奏ができないかもという事態になる。なんとか伴奏をさせたい校長、それを支持する英語教師である片桐、三年の担任なのだが国歌を歌わないし、起立もしないこと決意している社会科の教師である拝島、何を考えているか分からない養護教諭が登場人物だ。

英語教師の片桐は台本では男性なのだが、シアターアーツは片桐を女性としている。台本が男性なのだが、これを女性が演じるというのは楽しみなものだ。3月30日から4月1日までの3日間、ひまわりホールでやっている。これより前にむすび座が同じ劇をおこなうようだ。君が代を歌うことを教育委員会の強制された校長の苦悩をむすび座は描きたいということだ。シアターアーツは、校長のなったからにはそのような苦悩がないという描き方のようだ。

第二次世界大戦の問題が重くのしかかる問題だ。戦争責任と国歌・国旗の問題、愛国心と戦争の問題、いろいろ考えさせられることだ。国歌を歌ったからといってすぐ戦争になるわけではないのだろうが、国歌と戦争を結びつけるという考え方もある。愛国心と思想信条の自由とどちらが優先するものなのかという問題でもある。歴史的には思想信条の自由を優先するのだろうが、そのように考えない人の思想信条の自由もあるということも憲法は保障しているのだ。とても難しい問題なのだ。

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by qzr02421 | 2012-03-20 20:00 | 劇,映画その他

京都はおくが深い

新島襄記念館を北に行くと「京都市歴史資料館」がある。御所の寺町御門を出たところにある。この資料館は無料で、京都の歴史に関する資料の保存と展示をしているところだ。京都の歴史の相談や図書の閲覧もできるらしいが、ここに行ったのが土曜日だったので相談や閲覧はできなかった。相談とは何を相談するのだろうかなどと考えた。きっと京都の旧家が土蔵から出てきた古文書について、それがどのようなものかを聞くということなのだろうか。

地味な資料館だが、歴史の興味があるのなら面白いところだと思う。3月はテーマ展として「京都の町式目」を展示していた。江戸時代の京都、京都という名前が実は変わっている、京はみやこという意味だし、都もみやこという意味だ。京都というのはみやこみやこという意味でしかないのだ。東京という地名も変わっている、東のみやこという意味なのだ。それにひきかえ名古屋は実の個性がある名前ということになる。

江戸時代の京都の町では町独自の規範つまり規則を決めていた。これを「町定」「町法」「町式目」とよんでいる。結構面白いことを決めているので最近は、この町式目を利用して議論をすることがあるそうだ。たとえば「家を売るときには武士と芸人には売ってはいけない」とある。武士というのは牢人というような意味ということだ。無職の人のには家を売ってはいけないということのようだ。京都の町屋は結構お金を持っていたということでもある。売っていけない部類として「騒音を発生する、不潔である」というような職種もだめとある。

他町の人が町内の家屋敷を買うときには必ずその町内の家持を保証人とする、家を買ったときにはその町へ一種の手数料を納入すべし、火事のときにはみんなで消すこと、理由があって火事を消すということの参加できないときにはお金を払うことなど、当時の京都の町が独立して存在して、権力に対峙していたことが分かるのだ。本当に地味だが面白い資料館だった。
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by qzr02421 | 2012-03-14 19:01 | 劇,映画その他

シングルマザーの苦労

永井愛原作のシングルマザーを見た。場所は名演小劇場の地下のアトリエだ。靴を脱いで上がるというようなこじんまりとした劇場だ。舞台と客席の近さがなかなか良いものだ。臨場感を感じるということでもある。アパートの一室にあるシングルマザーのフォーラムの事務所が舞台である。ここでくり広げられるシングルマザーの生き様がなかなかよくできている。離婚や不倫などで女性が子どもを抱えて暮らすしんどさがよく分かる。

そのフォーラムの会長である高坂、事務局長が上村という二人がここでシングルマザーの相談や児童扶養手当とかシングルマザー関連法案への国会審議の傍聴や議員へのロビー活動をやっている。むろん二人とも離婚したシングルマザーである。そこへキャバクラ務めでしかも不倫で産んだ子持ち女や、合コンを重ねてやっと射止めた三高の夫が、それがあだになって女を作って、子供3人を抱えて離婚する破目になった女が飛び込んでくる。上村も女たちも派遣で生活し、パートを掛け持ちして子育てに懸命だ。

ある日、実は自分のDVで逃げ出した妻が、このフォーラムにきたといって男が訪ねてくる。DVで逃げられたとは言わない男に、夫のDVにたえかねて離婚した上村が敏感に反応する。永井は彼女たちの苦闘を活写する。とにかく大変な毎日をめげずに、なんとか正社員になるために忙しい合間をぬって、各種資格をとる勉強もしている、扶養手当とかいろいろな権利のことも・・。ラストでDVが克服できない絶望が逆転するシーンの演技が男の悲哀さを感じさせた。

女性はシングルマザーの生活の大変さを感じて涙している人がいた。女性として生活のつらさを共感できるのだろう。男性は、私も男性だが、女性の視点で見ることができない、かといってDVをする男性の視点を持つこともできない。離婚をする男性という視点ももてない。共感する対象がないので、大変だという印象があっても、深さを持つことができない。大変さはわかるのだが、それだけという情けないないということだった。
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by qzr02421 | 2012-02-19 18:49 | 劇,映画その他
三菱東京UFJ銀行貨幣資料館、以前にも書いたが、赤塚交差点の南にある。赤塚と言っても分からない人には分からないだろう。この赤塚交差点を西に行くと金城高校があり、さらに西に行くと倒産した美宝堂がある。赤塚は市バスでしか行くことができないところで、不便かもしれない。地下鉄沿線の便利さは比較が出来ない。海外に行っても電車は乗ることが容易だが、比較的ゆっくりいろいろな情報を入手することができる。それに対してバスに乗るのは容易ではない。海外旅行でバスに乗ることが出来ればたいしたものなのだ。

その資料館だが、現在「広重名所江戸百景」展を開催している。4月8日までだ。副題が広重画業の集大成、四季折々・浮世に楽しみというものだ。広重と言えば「東海道五十三次」が有名だが、彼は画業の集大成として晩年に「名所江戸百景」を描いたのだ。遠近法を使い、あるいは大和絵の技法を使い、さまざまの構図で江戸の様子を描いている。

極端に接近したモチーフで描く技法、つまり画面からはみ出したような技法だ。かきつばたを前面に出して遠くに小さく見える風景を対比させるというものだ。遠と近、大と小という対比だけでなく、いろいろな対比を感じさせるものだ。これをクローズアップの技法と呼んでいるようだ。最近はカメラを持った女性を見ることがあるが、広重の作品は植物を写す技法の参考になると思う。

広重の作品で関心するのは、鳥瞰構図というものだ。鳥の目から見たような、つまり高所から見下ろしたような図法で、日本絵画に伝統的技法ではあるのだが、この高所の行くことができないところから見ているところがすごいのだ。この技法があればナスカの地上絵は描くことが出来るはずだ。日本の技法はスゴイに一言だ。無料で見ることもできる、素晴らしい展示だと思う。
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by qzr02421 | 2012-02-01 22:10 | 劇,映画その他
小説と戯曲は何が違うのだろうか。戯曲を読んだことがあるだろうか。小説は読んだことがあるだろう。この二つのものはものすごく違っているのだ。小説はその人物の描写、その人物の心理描写が細かく書いてあることが多い。朝起きたときの主人公の部屋の様子が書かれていることが多いのだ。朝起きたときの気分も書かれているかもしれない。たとえば、昨夜お酒を飲みすぎて気分が悪く、机の前の恋人の写真を見る気もしない、なぜなら・・・と、描写が具体的なのだ。

これに対して戯曲は、心理描写もなく、部屋のレイアウトもない。ト書きいうものがあるにはあるのだが、戯曲を書く人によってもちろん違うのが、細かく書く人のいるのだが、圧倒的に簡単なト書きしかない。朝、主人公が自分の部屋で目覚め、セリフというという段取りだ。その主人公の人間関係はこの段階ではさっぱり分からない。兄弟がいるのか、親は生きているのか、どこの大学を卒業しているのか、高卒だけなのかということがさっぱり分からないのが戯曲の特徴なのだ。

基本的の最も違うのが、戯曲には心理描写がないということだ。どういう気持ちでそのセリフを言っているのかは全然書かれていないのだ。ある朝といわれても、月曜の朝、つまり一週間のはじまりで、またつらい仕事が一週間続くのかという気持ちでセリフを言うのか、あるいは金曜日の朝で、今日頑張れば明日から休みで、やった!という気分なのか、またまた、土曜日の朝で、今日はどうしようか、デートでもしようかという気分なのかが、戯曲では一般に指定されていないのだ。

戯曲の最大の特徴は心理描写がないということは、どのどうの気持ちでセリフを言ってもよいということでもある。演出家の意向、役者の意向で演技プランが変化するのだ。その変化が面白いといえば面白いのだが、大変といえば実の大変なのだ。演出家は「どうしてそのセリフを言うのか、どうしてそこへ移動するのか」と役者に問うのだ。その何故に答えることができる演技を要求されるのだ。これは実の大変なことなのだが、考えようによっては、実の想像力をいかせることでもあるのだ。
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by qzr02421 | 2012-01-26 21:38 | 劇,映画その他
自分とは何かという問、これを高校の倫理という教科では「アイデンティティ」などという言葉で表現する。自分とは何かという問いを発して、良いことがあるのだろうか。自分とは何かということを知ったからといって、これからの人生良いことがあるとは思えない。

近代戯曲は自我を問題にしているのだが、このような問題を持っていたのは教養人という暇人なのだろう。実業を持った人はそのような疑問を持つことはなく、たとえ持ったとしても仕事が忙しく、その疑問をいつまでも抱えていることはできなかっただろう。明治時代の夏目漱石や森鴎外のような超エリート、国費で外国に行くことができる人、そのような人がヨーロッパで流行の近代的自我などというもの日本に持ち込んだのだ。

持ち込んだために、自分とは何かなどということを考えるエリートが出現して、そのようなエリートが出現すると、自分とは何かを考えることが格好がよいとい風潮が生まれたに違いない。考えても考えなくても、自分は自分だという大衆の意識があったはずだが、大衆の意見は新聞などにのることはないのだから、結局文化としては、近代的自我を問題とした小説や戯曲が歴史に残ることになったに違いない。

ソクラテスは「無知の知」などという思想を広めたために死刑になった。近代的自我などという無駄なことを発明したヨーロッパ人とそれを日本に広めた明治時代の小説家は万死の値すると思う。自分とは何かなどという疑問を知らなければ、幸せの暮すことが出来た人々を恐怖の陥れたことは、本当の問題なことがということだ。
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by qzr02421 | 2012-01-25 21:34 | 劇,映画その他