本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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カテゴリ:本( 407 )

『コミュニティー・ミュージアムへ』を読む。学芸員として施設の入場者確保の取り組み、既存の常識を捨てて?ボランティアの協力などで実現した話は面白かった。「江戸東京たてもの園」での四年間の学芸員としての仕事に対するアイデア、ボランティアから出たアイデアを採用して、入場者を増やす、「千と千尋の神隠し」のシーンと同じ?千尋が迷い込む建物をジブリが参考にしたとのことで、似たような建物があるので、それを利用した取り組みは素敵だった。

夜店を行なう企画、はらっぱの再現、土管をおいたりする、昭和の景色を見て、小学生が「なつかしい」などという話、きっと「ドラえもん」などで見たシーンの記憶があるからだろいうという解釈、このたてもの園の一泊二日で泊まりこむという企画なで、ミュージアムの泊まるということは素敵経験になると思う。こういう取り組みをミュージアムにおける双方向性とでもいうのだろうか。

「馬鹿というのは前提を疑わない奴のことだ」、「すましている、えらそうな、人間より作品を大事にしている、面白くないものを意味ありげに並べてる美術館にはしたくはないというスタジオジブリの精神」、「美術作品や展覧会などというのは・・・じつは政治的、というよりも政治そのものなのである」、「ミュージアムというのは中立な客観的な存在ではなく、存在自体が政治的でイデオロギーを体現している」、「植民地主義との関係」、「展示は自然や文化そのものではなく、特定の価値によって編成された文化の表徴」、「文化全体の記憶を固定化する制度、近代国家を成立させるのに必要な国民のアイデンティティを創出し維持継続させる役割を果たし、このような権力創出のための政治性は近代的なミュージアムの活動そのものの埋め込まれてるので訪れた人は隠れて価値観を自然のように受け入れやすい」という指摘などは斬新だった。

「展示というのはあるモノを選択して一つのストーリーの中に配置していく作業、特定の見方がなければ選ぶことを並べることもできない、真理を示すのではなくミュージアムのよる解釈を示す、本物だけれど真理ではないということ、このような見えない権力性こそが問題なのだ」そうだ。これは授業論にも通ずる考え方だと思う。授業も真理を示しているではなく、教師のよる解釈で集められたモノの配列によって、ひとつのストーリを作っていることには間違いがないことだ。解釈がなければ授業が出来ないというのも事実なのだ。
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by qzr02421 | 2013-04-09 15:40 |
立川談志の『人生、成り行きー談志一代記』を読んだ。立川さんの生き様が分かる本だった。高校を中退して落語家になろうとし、小さんに入門したが、入門したとたん後悔をしたという。落語家になって「しまった」と思ったというのだ。その理由は落語家の世界が理不尽な世界だったからだという。つまり世間の常識が通じないのだ。落語家の世界は裏ばっかりの世界で面食らったからという。

世間は「正しく生きなさい」とか「人には親切に」という価値観があるのだが。それが落語家の世界は逆転しているという。「八時の来なさい」といって八時に行くと「なぜ七時半にこないのか」と怒られるのだ。何か言おうとすると「言い訳をする前にまず謝れ」といわれ、謝ると「謝るならなぜそんなことをしなのだ」と怒られるのだ。

談志の妻は変わった人だという。彼も変わったいるのだから変わった夫婦ということでもある。彼の妻の言ったことがメモされている。「談志の十八番の野ざらしをあざらしが出てくる話だった思っていた」「競馬の八百長事件を知って馬がどうして八百長できるのと聞いたという、談志は旗手がやると答えたという」「私はペットなの、でもいいペットでしょ、トイレも自分で行けるし、ラーメンも自分で作れるし」ということだ。

この本の最後は談志と志の輔の対談で終わっている。志の輔は「師匠を見ていると凄いなと思うことは高座で言っていることとプライベートの時に仰ることや行動に違いがない、つまりブレないことで、それが素敵だし凄いことだと」思うと言っている。高座と私生活の一致、人生と落語の一致をしている。「一致できない芸人はニセモノだ」というのだ。談志は「落語の登場人物のように生きている」ということなのだ。それはすさまじいことだとは思った。談志は「おれが偉いのは正直なところ」だといっているのだが、それが彼の人生というなのだろう。55年体制について談志は「多勢にあぐらに自民党、何でも反対社会党、力の足りない民社党、みんなロボット公明党、日本にゃ向かない共産党」と言ったそうだ。そうすると石原慎太郎が、「あるかないのか社民連」を付け加えろといったということだ。よくできた話だと思った。
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by qzr02421 | 2013-02-08 21:36 |

未来は予測可能なのか

未来は予想できるのだろうか。予想するとそれを変えようとするので未来が変わってしまうので、結局未来を予想しても、その予想は間違ったものになるだろう。過去の経済学者の経済予測はことごとくはずれとということだ。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊、サブプライム不況などを予測した人がいなかった。人間は今のままの状態が続く、あるいは続いてほしいと、また続かないだろうというバイアスがかかって判断する。だから現在の数字で判断する未来は決してこないということだ。

コックのアリスは「どんなよい時代でも私たちの寿命は限られている。だから、いつの世であれ、世界の危機をあまりにも深刻に受けとめ、本来楽しむべきことを後回しにするのは自然の摂理に反する。よい仕事をする、恋をする、友とのつきあいを楽しむ・・・それが人生だ」を言っている、その通りなのだ。未来のことを憂いても、意味がないことなのだ、今の人生を楽しむことこそが大切なことなのだ。

人間は偶然というものを嫌う、何か物事が起こると、そこに法則性を見つけたいという習性があるようだ。あるいはパターン化したいということでもある。しかし世の中は偶然の塊なのだ。世の中は偶然のかたまりだということを理解することが大切なことだ。また、人間は不幸な未来予測の方を信じやすい習性もあるようだ。悲観的な未来に引かれるというのも不思議なものだ。未来を予測する人は自信たっぷりに話ハリネズミ型と謙虚で疑い深く未来をいろいろな可能性で予測するキツネ型がいて、人々は自信たっぷりなハリネズミ型に引かれ、それを信じやすいのだ。

テレビを見て、そのコメンテーターや経済学者がハリネズミ型かキツネ型が考えるのも楽しいものだ、自信たっぷりな人の意見は信じない方がよいということだ。あるいは人をだましたければ、身なりのよいカッコウをして自信たっぷりに話せばよいということでもある。わかりやすく自信たっぷりの話をする人はハリネズミで警戒しろということを意味している。私もハリネズミになって講義をしようと思っているところだ。人々はわかっていても、いつもだまされるものなのだ。以上『専門家の予測はサルにも劣る』(飛鳥新社)を参考にして。
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by qzr02421 | 2012-12-17 16:24 |
山崎哲さんの『俳優になる方法・増補版』読んだ。俳優になるのは誰でもできる、特に演劇にことを知らない人ほどよい演技をするそうだ。保育園や園児の演技で感動するのは、演じているところが、劇の核心に触れているからだ。その役になりきることなど必要ないし、相手をその役だと思わなくても、その生身の人に話しかければよいのどいう。人間は変わることができないのだから、その役に変身することはできない。演技とは人間を演じることではなく、空っぽになって、そこに存在してせりふを言えばよいだけのことだ。それができずに、こ根繰り回すから、存在しない不自然な演技となってしまうのだそうだ。

樹木希林が「あなただれにしゃべっているの、ちゃんと私のしゃべりなさいよ」と相手役の人を怒ったという。相手役が樹木希林に話しかけばよいものを、自分が作り出した架空の人物に話しかけていたのだという。樹木希林に話しかければよいだきのことなのだ。自分勝手の空想の世界を作り、そこで一人芝居をしているだけだったのだ。演劇で一番大切なことは、相手の話を聞くことなのだ。演劇で一番多い演技は人の話を聞く時間なのだ。自分がセリフを言う時間などは多くはないのだ。

故三木のり平は「覚えたセリフは忘れなさい」と言ったそうだ。言いたいセリフがあるのではなく、相手のセリフを聞いたときに、思ったことを言えばよいだけのことなのだ。相手のセリフを聞いて、聞いたセリフで気持ちを作ろうとすることではなく、セリフを聞いたときの気持ちで、思いついてこと話せばよいだけのことだ。いつもの会話は台本がないのだから、台本がないという状態でセリフを言えばよいということえだ。

相手のセリフで気持ちを作ったり、その気持ちでセリフを言ってはいけないのだ。会話で一番大切なことは「聞き分ける」ということと「話しかける」ということなのだ。俳優は舞台に上がった、聞き続けていかなければいけないのだ。聞き分ければセリフは絶対でてきるのだというのだ。相手のセリフを聞き分け。、つまり何を言いたいのかを理解して自分のセリフを言えばよいのであって、言い方の上手い下手は関係ないないことだという。ぎこちなくても、そればそのときの気持ちであればそれでよいのだ。

相手の言葉を聴きながら、普通は相手の言いたいことや、今日は顔色が悪いなとかを考えているものだ。これを内語というのだそうだが、内語をしていればよい、これを聞き分けるということなのだ。「おい、ちょっと、そこのタバコを取ってくれ」というセリフで自分が呼びかけられた感じがしなければ、「誰にいっているの」というセリフを言ってもよいのだ。また。「そこって」」どこというセリフがあってもよいのだ。そういうセリフが出てくることを「聞き分ける」というのだ。セリフは「呼吸がすべてだとも書いてある」、セリフはぶつぎれでもよいということでもある、それが自然ならということでもある。
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by qzr02421 | 2012-12-15 16:17 |
『女子学生、渡辺京二に会いに行く』を読んだ。はじめに渡辺さんの「自分を輝かせようとする必要はない。自分の中に未知の何かが眠っているなんて考えなくていい。自分らしく生きればいい。やりたいことをやればよい。人間って平凡なものだと思う。本を読みたければ読めばいい。女優をやりたければやればいい。誰がなんと言おうとも。人生は無名に埋没するのがよい」という言葉を紹介している。人間の大多数は無名に没することには間違いがないのだから、当然の言葉だが、名をあげよという明治以来の徳目と否定しているところが素晴らしいのだ。

対談をする側の女学生の指導教官は「学びというのは予測がつかない。そしてそれは思いがけない喜びの連続でもある。学びの先には未知の世界があり、それは心弾むものであり、生きる力をくれるものであり、そしてそれは自分をこえて他を励ますものとなっている。ひとりの学びへの意志がそういうものにつながっていく。それはすばらしいことではないだろうか」と書いている。

内容は多岐にわたるのだが、印象の残ったことは「戦前の教育というのは完全に国家の必要のあわせて編成され・・・エリートはエリートの進路があり、農民には農民の進路があった。しかし学徒出陣でエリートが何も出来ないことが農民のばれてしまった。エリートがアホであることを農民が知ってまったことが戦後世界を作るのに影響をした」というような文章があった。なるほどと思わせる文章だった。

「学校などというものは卒業すればいいだけのもの、そこで何か得ようとかなどという大げさなことを言う必要はない。」、「社会に役立つ人間になる必要はない、それが国家主義のつながる、人間は生まれてきた以上生き通す責任がある、それは自分のため、自分が生きていくことが一番大事」、「楽しむという気持ちが大切、楽しむことができれば自己実現などということは考えなくていい」、「人の惚れ込むことが大切、人間がそれぞれに存在しているおもしろさというものを感じること、その心の広さがあればそれだけで人間は豊かになる」、「知という世界に入ると考えなくてもよい課題を抱えることになる、この世がどうなるのか、人類はどういう歩みをしてきたのか、人間はどうあるべきかなどという疑問を持ってしまった。本当はそのようなことは考えなくてよいことだったのだ。人間は正直に生きて楽しかったらそれでよいのだ。」「自分のために生きる、それでいい」など示唆に富む本だった。
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by qzr02421 | 2012-02-20 20:40 |
清水義範さんの『読書必勝法』という本を読んだ。清水さんがいろいろな本を読み、その読んだ感想を書いたものだ。清水さんらしい視点での指摘が面白い。そういう読み方もあるのだということに気づかされた。最初の取り上げた本が夏目漱石の『坊ちゃんだ』だ。坊ちゃんを「田舎の悪口をいう小説」と言ったのは丸谷才一だが、清水さんの日本には悪口を言う文化があるという、狂歌や川柳は悪口文化というのだ。

都会が素晴らしくて田舎をダメというのは日本の文学の伝統らしい。『土佐日記』でも田舎はつまらないというのが大前提となっているし、菅原道真も太宰府に左遷されたくらいで世をはかなんでいるのだ。太宰府だったいいではなかという気持ちにはならないものなのだ。『坊ちゃん』にも平均して1ページに2回くらい田舎の悪口が書いてあるらしい。そういう気持ちで読んだことがなかったので、この指摘は新鮮だった。

『坊ちゃん』の中の松山という地名は出てこないし、道後温泉という言葉も出てこないという。小説の中では、ここが松山ということが分からないようになっているといことを初めて知った。坊ちゃんといえば松山で道後温泉とばかり思っていたのだ。さらには坊ちゃんには名前がないということも初めて知ったのだ。坊ちゃんは一人称で書かれているので、当然坊っちゃんの名前は出てこないのだ。坊っちゃんは先生だが、教えている教科までは知らなかった。数学だそうだ。

赤シャツのモデルが夏目漱石だというのだ。漱石は自分をモデルの坊っちゃんを生み出したのではなく、漱石は赤シャツとしてこの小説に登場するのだ。清水さんはどうして漱石は坊っちゃんを書こうと思ったのかという分析までしている。なかなかの分析だと思った。このほかにも「ロビンソンクルーソー」、「荒野聖」、「黒猫」、「金閣寺」、「罪と罰」などを取り上げ解説している。その解説が実に面白かった。
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by qzr02421 | 2012-01-16 21:52 |
『思考のケミストリー』大澤真幸著を読んだ。社会学者の大澤さんが文学を分析するというものだ。夏目漱石や宮沢賢治などの作品をとりあげ、作品を分析しながら、その作品とその時代を分析しようとする試みのようだ。文学は文学として楽しんだほうが良いとは思うが、社会学という学問は大変な学問のようだ。

社会学という学問は大衆の発生とも生まれたようだ。19世紀に国民国家が生まれ、市民という存在が生まれ、時代の支配者として君臨しようとしたが、20世紀になると、大衆というものが生まれた。この大衆をどのように扱うか問題となったのだ。大衆を研究する学問が社会学ということらしい。

社会学とは、世の中をどのように見るかを考える学問なのだ。社会学とは考えるより見ることが大切なのだそうだ。見るということは、見えないものを見るということだ。見えるものが全てではないのだ。見ているようで人が見えていないということでもある。考えるより見ろということは大切なことだと思う。遠野物語、柳田国男の話で、遠野のある村で、馬頭観音を寺から持ち出し、子どもたちが投げたり、そりすべりをした、これを見た別当(地主か、庄屋か?)が子どもたちを叱ったそうだ。そうすると別当は思い病気のなったそうな。

巫女らしい人が何故病気のなったのかを問うたら、馬頭観音は子どもたちと楽しく遊ぼうとしたのを邪魔したからだという。馬頭観音の意向を無視した別当が本当は馬頭観音が子どもたちを遊びたいということを知りながら、世間体で馬頭観音で遊ぶ子どもたちを叱ったことが原因だというのだ。大人は実は子どもの心が分かっていながら、その心を無視するところに、観音が怒る原因があるというのだ。分かったようで分からない話だった。
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by qzr02421 | 2011-11-21 18:40 |

読書三昧

県図書の本を斜め読みする。『近代日本の転機』これは昭和から平成にかけての事件いくつか取り上げ、それが日本の転機だったということ示した本だ。世界恐慌からはじまり満州事変、5・15事件、松岡洋佑の誤算つまり国連脱退、天皇機関説の否認をへて2・26事件、北支事変から支那事変へ、国家総動員法、東京オリンピック返上という流れだ。この本は地下鉄サリン事件でおわる。

二冊目は『哲学塾 歴史を哲学する』これは歴史哲学というものだ。過去を存在するのかという問だ。過去は存在するだろうが、しかし認識されない過去は存在を許されないのだろう。過去の事件に対する認識は人のよって変わってくるのだろうか。エピソード記憶というもの、人と人との関係については記憶のちがいが生じやすい。お金を貸した、借りていないという争い生じることがある。過去とは何かということを考えさせられた。

三冊目は『近現代史考究の座標』考究というあまり使わない言葉が印象的な本だ。近代ではヨーロッパを原産とする国民国家の時代だ、国民国家は憲法とともにある。国民国家と否定するということは憲法を否定することではないのかと問う。また近代の価値基準とは何を今一度考えることが必要なのだろう。

四冊目は『往きて、環る。』これは古典とは何を考える本だ。古典をとらえる価値判断とは何か、私たちは拠るべき価値規範を見失ったのではないのか、古書物が古典なのか、古典は私たちの何を教えてくれるのか、今生きる規範や心の拠りどころつまり私たちが生きる上でのお手本こそが古典ではないのかという。だったら日本国憲法は古典だろうかと問う。古典を縦だけでなく横のみることが大切だという。横からの眼差しは「やぶにらみ」だという。

このほか『天皇象徴の日本と私』(古代天皇は朝鮮から来たのだ、それを記紀は隠そうとしているという、河内王朝とは朝鮮系の天皇だという、それを近代歴史学は言わないという)『昭和とは何だったのか』(日本のアジア侵略の歴史を知ろうとはしない人が多い。歴史を学ばない人は未来がないらしい。保坂氏の著作だ、小泉元首相は東条英機に似ているという、昭和史を今一度学ぶことが大切なのだろう)『文学部唯野教授の女性問答』(筒井康隆の軽妙な文章が良い本だった)『浜口雄幸』(副題はたとえ身命を失うともでライオン宰相の伝記だ、伝記をじっくり読むことが無くなったが、彼の生き様がよく分かる本だ)『気持ちのいい話?』(鷲田清一対談集だ、香山リカ、多田道太郎、田口ランディなど教養あふれる対談集だった)『あがり』(奇妙なSF小説だ、生命科学研究所での科学的な実験を利用した話は、面白いような奇妙な印象を持った)『愛国心』(愛国心をタブー化することが危険なのだろう、国を愛することは人間の普通の信条のはずだ、この国とはふるさとと言ってもよいだろう、愛国心とは政権を愛することではないのだ、愛というのは人間にとっては大切なものなのだ)最後の『ボードインアルバム』(外国人の見た幕末長崎、ボードインという人が記録した幕末の写真集だ、幕末から昭和初期まで日本の風景はあまり変わっていないことが分かる、ながめるだけで楽しい?本だった)以上12冊の本を斜め読みして印象に残ったことを記したのだ。
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by qzr02421 | 2011-11-16 11:36 |
やる気がしないのはボケの始まりということらしいが、ブログを更新する気持ちがなくなってきた。文章を書くのがめんどくさいということかもしれない。高校での授業やカルチャーでの講座はノルマでお金の問題もある、行かないと迷惑をかけるという面がある。ブログは更新しなくても、特にノルマがあるわけではない。アイデアが浮かんで、どんどん書けるときもあるが、何も書きたくないときもある。

本を読んでいないわけではないので、本の感想を書くことはできるのだが、800字程度の本の感想を書く気がしないのだ。今日読んだ本は「チェルノブイリ」に関する本だ。チェルノブイリという地域は人が住んでいない、その地域にカメラともってバイクで旅をした女性の手記のようなものだ。福島の原発事故もひどいものだが、チェルノブイリの被害は凄まじいものがあることがわかる。

人が住むことができない地域が、100年以上住めないらしい、住むことができるのだろうが、放射線の被曝があるのだ。チェルノブイリでの事故では、爆発して飛び散った放射線を出す物質を素手で取り除いたそうだ。その作業に従事した人はもちろん死んだのだ。福島でも作業をした人たちの一部は消息不明という記事が週刊誌にある。

放射線は目に見ないし、臭いもしない、どこに危険があるのかわからないのが怖いのだ。さらにどれだけ被曝したら危険かも分からない。被曝してすぐに癌になるわけでもない。じわじわと影響してくる危険ほど怖いものはない。人類はとてつもないもののトビラを開いてしまったとしか言いようがない。パンドラのトビラを開いたということだと思う。気分がすぐれないのは、この本を読んだためかもしれない。
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by qzr02421 | 2011-10-26 21:50 |

天然は安心か?

『民間療法のウソとホント』蒲谷茂著の話を続けるのだが、健康雑誌や健康番組で登場する人は効果があったという体験談を持つ人だ。健康のよいとされることをして健康になる人がいることは事実だろう。健康になった人の体験談を採用するのがあたりまえだ。効果がないという体験談を掲載しても商品が売れるわけがないことは当たり前のことだ。

体験談がどれだけ信用できるかという問題もある。試供品を送り、効果があった人だけを取り上げればよいのだ、症状によって効果があるかどうかの違いもあるはずだ。全ての人の効果がある健康食品というのは存在しないのだ。効果がなかった人の調査はしないそうだ。効果があった人と効果がなかった人の調査をしてこそ、本当の効果が分かるのだろうが、そのようなことをしている会社はないそうだ。

薬を使わず、民間療法で治ったほうが簡単でよいという人を対象にしているのが健康食品ということだ。アガリスク、黒酢、グルコサミン、ウコン、コンドロイチン、コラーゲン、ヒヤルロン酸などいろいろな民間療法で使用されるものがある。健康な人がより健康の、そうでない人はそれなりの効果がある可能性があるらしい。薬は医薬法があって成分が一定だが、このような民間療法などは法律の縛りがないので成分が一定ではないとのことだ。ようするに副作用がある可能性があるということだ。

天然のものが安全ということはない、天然なものがあり、そこから人工的なものがつくられるのだから、天然な毒というもの当然存在するのだ。人工的なものが危険で、天然なものは安全などとうことはない。民間療法は皆保険が普及している日本でこれだけ広がってるという現実を医者はもっと考えることが大切だという。医者は病気には関心があるが、病気を抱えている人の人生には関心がない人が多いようだ。人生を相談したい病人という存在を医者は考えることが大切だということだろう。
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by qzr02421 | 2011-10-25 20:47 |