本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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100万人渡来説

またまた『古代日本はどう誕生したのか』(豊田有恒著)話だが、縄文人は豚の飼育をしていたと豊田さんは書いているが、どうなんだろう。しかし、飛鳥から江戸時代まで畜産ということをしてはないことは事実だろう。畜産ということなしに食糧が調達できたのだろうが、不思議な話ではある。

縄文時代は弥生時代より建築技術が進んでいたともしている。三内丸山遺跡の6本の巨大の柱の発見を言いたいのだろう。柱の高さが17メートルと推定されている。一方吉野ヶ里の建築物の高さが10メートルだから、縄文時代の建築技術が進んでいるというのだ。こうした技術は世界のどこにも存在しないとも書いている。そこまで言ってもよいのかという話だ。

縄文人は余暇に恵まれ、豊かな生活をしていたとしている。自然を敬い、戦いを嫌う民族だとも書いている。自然が神だと感じたのは事実のように思えるが、それを確かめる手段はない。戦いを嫌うのか、人口密度が低いので、戦うということより移動していったのかもしれない。それで戦いを嫌ったということはできるのだろうか。人口密度が高くなると戦いが増加するのも本当らしく思える。それにしてもよく分からないことばかりだ。

縄文時代の次は弥生時代だ。縄文人と弥生人の関係はよく分かっていないようだ。人類学者の埴原さんは弥生時代は100万人渡来説を唱えているらしい。縄文時代の人口は数万から十数万ということで、奈良時代は500万になっていることから、自然増では説明できないというのだ。1000年で100万増加したということは、一年に渡来したのは1000人ほどということらしい。

一年で1000人の渡来人が来て、弥生時代となっていくということだ。縄文人は3つのわかれるようだ。渡来人と協調・混血した縄文人、北のほうに移動し蝦夷となった縄文人、南に移動し熊襲・隼人となった縄文人だ。これを楔説と呼んでいる。

倭人は中国から最上級の扱いを受けたという説を豊田さんは書いている。その証拠として、金印を授かったこととしている。志賀島の金印は偽物説もある。光武帝は印綬を授けただけなので、金印かどうかはわからないのだ。それのしても『魏志倭人伝』がこの時代の東アジアの国々を知る資料ということには間違いのないことだ。この時代は西域については知られるようになったが、東夷については分からないことが多かったのだろう。

邪馬台国が重要視されているとしたら、当時の国際関係と関わっているのかもしれない。朝鮮半島の諸部族とは陸続きなので、もし敵対するなら、敵の敵は見方ということで、朝鮮半島の諸部族に対して牽制の役目を邪馬台国に期待したということは考えられなくないことだ。しかし、類推に過ぎないけれど・・・
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by qzr02421 | 2009-03-19 07:38 |