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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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トゥーサン=ルーベルチュールとは誰か?

 ハイチについてもう少し詳しく調べてみた。
 30年前の世界史の教科書『詳説世界史』にハイチという国の記述はなかった。教科書には「合衆国の独立やフランス革命に刺激されて、1810年代からラテン・アメリカの植民地に独立運動がひろがり、アルゼンチン・チリ・ペルー・メキシコその他の諸国がスペインの支配から・・・独立した。」と記述されていた。

高校の授業では、ウイーン体制下におけるアメリカの歴史は、「モンロー宣言」と「シモン=ボリバル」の活躍であった。その後はアメリカを離れ、ギリシア独立、7月革命と展開していくのだ。一方では、ハイチについては地図に1804年に独立という記載があるのみであった。

 最近のハイチという国に対する日本人の認識については、「ハイチ―バナナ・ペーパーの国へ―」では「日本から地理的に遠いだけではない。私たちにとっては、ハイチはそれ以上に遠い国」であり、ハイチのイメージは「ヴードゥー教とゾンビ」であると書かれている。また「朝日新聞の記事を検索したときには5ヶ月間で3件しか発見できない」
という。ハイチだけでなくラテンアメリカ・カリブ諸国に対する記事は少ないのである。

日本人の関心はアメリカやヨーロッパであり、それ以外は近い国である中国・韓国なのである。高校世界史の教科書も欧米と中国・インド中心の記述である。教師になったとき、先輩の教員から、生徒は教科書とテストで歴史を理解していくといわれた。ハイチに対しての認識の無さは高校教師の授業にも問題はあるが、教科書の記述にも大きな問題があるような気がする。

 高校世界史の授業ではアメリカ独立革命やフランス革命は何時間もかけて教えている。その影に隠れているハイチについては、最近の授業では「ラテンアメリカで最初に独立を達成した国であり、その人口のほとんどは黒人である。」といった程度のことを教えるのみである。ここで「どうしてその人口のほとんどは黒人なのだろう」とか「どこの国から独立したのか」などの発問をしている程度である。

フランスの植民地を排除し、黒人奴隷制の廃止を実現したハイチ革命の経過やその指導者であるトゥーサン=ルーベルチュールについて触れることは極めて少ないのが現実である。ハイチはフランス革命の起こった1789年、フランスの植民地サン=ドマング島には約3~4万の白人プランターと、40-45万の黒人奴隷がいた。サトウキビ、コーヒー、インディゴ、綿花などのプランテーションで生産される作物の輸出は、当時イギリス領西インド諸島全体のそれを上回るほどであり、この島は「カリブの珠玉」と呼ばれた。ムラートといわれる白人と黒人の混血の人たちと自由な黒人は2.5~5万人といわれる。そのようなハイチがどのようにして独立を達成していくのかということを授業で取り上げる必要があると言うことをあらためて感じた。 

 また、高校の地理の授業では、ハイチは「カリブ海エスパニョーラ島の西三分の一を占める黒人共和国」であり「日本の四国の約1.5倍」の面積で「約700万の人々が暮らしている」というようなことは教えている。「人間開発指数」も授業で必ずふれる項目である。安全な水を飲むことが出来ない国、成人識字率の低さ、出生児平均余命の低さなどを示し、いかに日本という国は特殊な豊かな国なのだということを確認している。
         
「今日のハイチは、いまや世界の最貧国として知られている。」そのハイチと日本の関係について、テキストでは「2002年は、日本の外務省が提唱する国際カリブ年」と言う形でとりあげている。長野県の飯綱高原で開催された「カリブ・フェスタ」で「ハイチがバナナ・ペーパーを最初に生んだことを知った」と書かれている。

バナナ・ペーパーの可能性について、「これまでほとんどがゴミとして捨てられてきたバナナの茎から、紙という有用な資源を生み出すことができる」、「紙づくりのためそれだけ木材を伐採しなくてすみ、森林が保護される」、「森林が保護されたなら、地球の温暖化の進行を抑制することができる」、「バナナから紙をつくる工場が建設されると、雇用機会が創出され、それだけ都市のスラム化が防止できる」と評価している。

そこで日本を含む先進国は、「低開発諸国のバナナ・ペーパー・プロジェクトを支援しバナナ植樹の努力すれば、クリーン開発メカニズムの合致し、自国の削減実績の読み替えられ、したがって京都議定書の公約を実行できる」という朝日新聞の記事を紹介している。

ハイチについて私たちの問題として理解することの大切さを、「私たちがハイチを見ようとしなかったにすぎないのでははいか。つまり、ハイチは「知られざる」というよりむしろ。「見えざる」国であった」と指摘している。E.H.カーは「歴史は現代と過去との対話である」といっている。私たちの関心があれば、歴史は私たちの前に姿をあらわすようである。

高校の世界史の授業などでハイチを取り上げることは意味が大きいはずだ。千葉県の歴史教育者協議会は「世界史100時間」で「黒いスパルタクス―ハイチ革命とトゥーサン=ルーベルチュール」という授業を提案している。この授業はE.ウィリアムズの『コロンブスからカストロまで』を基本に作られている。この本は「世界史について欧米的偏見から自らを解き放ち、カリブ海地域に一国民としの意識を創出しようとする」モチーフで書かれている。ハイチ革命はフランス革命の負の部分をうつしだす鏡であるという視点を重視していくことが重要である。ジョレスはハイチ革命についてフランス革命がおちいった「人権宣言の理想と植民地のもつ実際的利益の板ばさみ」の状況をうつしだしていると述べている。

ハイチ革命以後のカリブの歴史は「十九世紀期、戦間期、戦後期に区分される」としている。ハイチはトゥーサン=ルーベルチュールを失っても黒人軍の戦いが続き、フランス軍は熱帯の黄熱病にも苦しめら、ついに1803年11月に全面的の降伏した。1804年1月、トゥーサン=ルーベルチュールの後継者デサランは「ハイチ共和国」の成立を宣言した。リンカーンの奴隷解放宣言の半世紀以上前に、奴隷制を廃止したハイチのその後の歴史は
「前途は多難」であった。独立は宣言しただけでは達成したとはいえない。諸国の承認が必要である。ハイチの独立は「どこからも承認を得られず」、ウイーン体制の理念は正統主義であった。つまりフランス革命前の状況に復帰することであった。ハイチの独立は宙に浮いた形であった。欧米諸国は「奴隷制度をまだ容認していた」し、「奴隷解放を達成したハイチ革命への恐れた」のである。ハイチはそのような国際的孤立を脱する為、フランスに「損害賠償」を支払ったのである。発展途上国の政治は、支配層の方針によって左右される。先進国のような「議会の存在「や「民衆の政治意識の高揚」が無い為である。ハイチの「歴史の多難」は支配層と民衆との関係にあるのではないだろうか。

ハイチの独立後の支配層は混血を中心とし、少数の黒人を含む新エリート層であった。彼らの政治方針は「西欧指向、特にフランス指向」が強かった。ハイチも未来の範をフランスの求めたのである。ハイチの新エリート層は「黒い肌のフランス人」を目指したのである。19世紀から20世紀にかけてのハイチにおける民俗的アイデンティティは二重に分断されていた。一つは黒人主義とフランスの指向との並存、他の一つはエリートと民衆への断片化であった。戦間期にはフランス指向をやめて、ハイチの中の黒人的要素の抵抗の基軸を求め、民衆文化つまり農民文化を見直そうとする知識人エリートも現われた。「黒い肌のフランス人」像を批判が始まったのである。ハイチの民衆は知識人エリートの一部によってようやく、いわば「再発見」されたのである。

 その後のハイチの「歴史が多難」であったことは、「人間開発指数」が150位で指数低位国の一つであることからも分かる。ハイチの未来は「国民の8割以上をしめる彼ら農民やスラム住民が、選挙という非日常的な場のみならず、日常的な政治・社会の中で主役になる日に期待するしかない」のである。つまりハイチの未来は、現在において、支配層と民衆の関係をこえて、民衆の成長にかかっているのである。
by qzr02421 | 2008-06-01 12:18 | 歴史