本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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現実はいつでも残酷なのか

地震のニュースで流れなくなったニュースがたくさんある。カンニングのニュースもそのひとつだ。東北地方の災害に比べれば些細な事件に思える。しかし、京都大学でのカンニング事件も組織的な犯罪ではなく、単なるケイタイを使用した単純なカンニングということだった。あれだけ大騒ぎしたマスコミはきっとガッカリしたにちがいない。カンニングをしたことがないという人が少ないのか、カンニングは悪いことですという識者の歯切れが悪いのが面白かった。テレビ番組で、「カンニングをしたことあるでしょ」とふられたコメンテーターが「ないとしか言えないじゃないですか」などと白鵬のようなことを言っていたのが印象的だった。

カンニングは何故悪いのかと改めて問う人がいないのにもびっくりした。カンニングは不正行為で、正しい競争が出来ないからダメというのは建前的な発言だろう。人の能力は平等ではないのだ、努力すれば京大や東大に入ることができるわけではない。もともと人間の能力は平等ではなく、不平等な競争をしているのがテストというものなのだ。平等幻想があるので、頑張れば出来るなどと励ますが、頑張ったってできないものが出来ないのだ。

イチローになることが出来ないということがわかっている。運動能力の差があることが分かっているのなら、知的能力にも差があることが分かるはずだが、分かりたくないのが現実だろう。能力の差があるテストに、カンニングの能力を持った人がその能力をしようしたということ過ぎないのだ。見つかるカンニングはダメだということに過ぎない。

大学に入ると定期テストがある、持ち込み可能という試験も多いし、問題があらかじめ分かっているような試験もある。何を持ち込んでも、問題が事前に分かっていても、能力の差があるので、成績の差が歴然と出るのだ。実力のある人間の答案というものが存在するのだ。ダメなやつは何を見てもダメと言う残酷な現実があるのだ。これが残酷な現実と言うものなのだ。
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by qzr02421 | 2011-03-24 14:36 | 日常