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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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脳死とはいったどういう常態か

心臓移植という現実があって脳死という現実が生まれるのだ。従来の死では臓器移植はできない。心肺停止、瞳孔拡散では新鮮な臓器は存在しなくなる。脳死というのはどのような状態なのだろうか。脳死していても臓器は生きているのだから、その臓器を取り出すときには体は抵抗するそうだ。脳死していても体は動いているのだ。脳死している人は両手を交差させるのだが、これをラザロ微候という。

脳死というのは体が生きていて、脳だけ死んだ状態だから、当然心臓など臓器を取り出すときには、暴れて抵抗するからだが存在するということだ。モルヒネをうって体を麻痺させて臓器を取り出すこととなる。人の死とは何かということを考える瞬間だろう。心は脳にあるとすれば、脳死は人の死となるのだが、心は心臓にあるとすれば、脳死は人の死ではなくなるのだ。人の心は体全体にあるような気がしてならない。臓器移植の必要性は理解できても、人の死とは何かということを考えてしまうのだ。

デカルトは人間機械論を提唱したいから臓器移植には賛成なのだろう。心というものがある、体は心が操る機械という発想だ。でも、心はどこにあるのかという問いは消えることはない。脳の移植をしたら、体は脳のものになるのか。ES細胞などは哲学的にどのように考えたらよいのか。体はパーツつまり部品なのか。何の部品なのかを問う必要があるのだ。

死後の世界はあるのかという問いともかかわってくる。スピリチアルなどというものが流行しているが、霊などというものが存在ずるのだろうか。心が霊になるのか。心が霊になるのであれば、それはデカルトの人間機械論に近い思想ではないのか。体は機械で、心や霊が取り付いて動かしているということとなる。まるでエバンゲリオンだ。人間と機械が同調する。心と体が同調する。まるで同じ発想にみえる。以上さらに『謎としての現代』(大黒岳彦著)読んで
by qzr02421 | 2010-10-15 20:43 |