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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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秀吉は本当はどんな人か

秀吉の政治は茶会など派手な面もあるが、庶民から効率の租税を取りたてたり、無謀?な朝鮮出兵を企てたりした。秀吉の政治は出自とはちがって、農民や中下層よりも一部の大名や豪商に有利な体制をとった。支配者層が豪華な生活をしているということは、庶民は悲惨な生活をしているということだ。

関ヶ原で勝利した幕府は、治安の維持、教育の普及、産業の育成、流通路の確保(街道や航路の確保)の力を入れた。この幕府の政策によって農民や庶民も仕事に精を出し、税をだすことができた。幕府みずからも倹約をすすめた。士農工商とはいいながら、江戸時代は江戸の町などでは武士と町民が同じものを飲食していたのだ。つまり、贅沢な服を着て豪華なものを食べる武士とボロをまとった農民や商工民は食うや食わずの暮らしをしているという図式は江戸時代には存在しないのだ。

信長の政策は日本を統一して平和をもたらそうとしたが、それ以外の政策をとることもなく本能寺で倒れた。信長がやろうとしたことはよく分からない。彼のあとを継いだ秀吉は一部の上流大名や豪商の利益を図る政治を展開したようだ。信長、秀吉ともに外国との貿易を重視した。その理由としたと考えられるのは当時の都市の繁栄や農村の購買力の向上があるだろう。戦国大名が確立した一国支配をこえるような流通の必要性があったということだ。

信長はポルトガルやスペインを知ることによって、日本も、そのような中央集権国家の強国となり、海外に進出しアジアのおける貿易の利益を確保しようとしたのかもしれない。また中央集権を実現するために、大名と領地の関係を分断しようとした。大名の領地替えである。この政策を受け継いだ秀吉は、検地刀狩りにより、農村と地侍との関係を分断しようとした。武士が土地から切り離されて城下町に住むようになったのだ。農村は農民のものなったのだ。(秀吉の直轄地は約200万石、家康は256万石)『関ヶ原誰が大合戦を仕掛けたか』(武光誠著)を読んで。
by qzr02421 | 2010-09-15 21:35 |