本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

演劇に型を導入

歌舞伎や狂言は型というものができているという。この型を子どもの頃から修行していのだろう。身体に型が染み付くという感じになると思う。話つまり番組、あるいはストーリーも子どもの頃から、なじんでいるセリフのようだ。歌舞伎は狂言は、練習というより、打ち合わせを何回かおこなうと、もう本番を迎えるのだ。

一方演劇には型がない。セリフも稽古中に変化するだろうし、動きも相手とのからみで変化するのだ。音響も、稽古中に変化をする。一つの劇をつくる稽古というものを通して、演劇が完成していく。演出家によって、劇もまた変化していく。同じ台本の劇でも、毎日変化するものだ。もちろん演出家がちがえば、同じ台本でも違った劇になる。それが演劇の面白さなのだ。

しかし、浅利慶太は演劇に型を導入しようとしたような気がする。誰が演じても同じ演劇を求めているという。誰が演じてもということこそ、型そのものなのだ。各自型を修行して、それを練習で合わせるのだ。稽古は演技や動きが変化し、練習できる状態へ持っていくという定義をすれば、劇団四季には稽古はなく、練習があるということになる。

演劇の型を導入するということを許したくない人は、劇団四季を否定するのだと思う。しかし四季のこの動き、四季式発声法も含め、ある意味革命的なことだと思う。演劇を古典にするためには、それがよいかどうかは別として、型の導入は一つの手段だと思う。サウンドオブミュージックを見て、感じたこと記した。
[PR]
by qzr02421 | 2010-07-07 15:59 | 日常