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本を、旅を、世の中をどのように見るのか


by qzr02421
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外交に手が回らない

中国に始まった律令を日本はとりいれたが,中国の律令は、その時代にふさわしい、つまり実態に合わせて変えることが原則だったが、日本は輸入したということもあり、万世1系の祖法という位置づけのためか、律令を大規模に変えるということはしなかった。令外官で対応した。律令は形骸化して江戸時代まで存続する。現在の日本国憲法の条文の解釈の変更とよく似た対応をしていうように感じる。

平安末期に政権を握った平氏は日宋貿易で利益を独占した。平氏政権は源氏政権と移っていくが、宋から多くの文物と文化が流入した。禅宗もそのひとつだ。この禅宗を繁栄を導いたのが北条氏だ。北条氏は源氏のような血筋ではないので、その幕府の支配の理念とした「道理」を重んじた。その道理を安定させるため禅宗を利用した。禅宗の僧侶は宋から多く移住してきた。宋のインテリが鎌倉幕府のブレーンになったというとだ。

元が攻めてきたとき、この宋から移住のブレーンは元との戦いをすすめたに違いない。フビライが日本を攻撃したのは日本に金が大量の産出すると信じたという説がある。マルコポーロの影響だろうか。コロンブスものちにはジパング黄金説にのって大西洋に船を進めた。元が滅び明帝国が樹立されると、明の洪武帝は日本の朝貢形式の国交を要求した。倭寇の活動を押さえて欲しいという要求もあったが、日本は拒絶した。中国の王朝と対等な関係を日本は常に望んでいたのだ。

日本側にも南北朝の対立という現実があり、外交に手が回らないという事情もあった。その後義満が南北朝の合一を達成し、中央集権化をすすめようとした。幕府の権威を高めるため明に義満が日本国王であると認めてもらうよう工作した。認めてもらうかわりに朝貢貿易を受けいれ、冊封体制に組み込まれた。貿易の利益も得ることができた。勘合貿易だ。この外交路線も義満が死に、義持の時代になると、日明貿易は中止されてしまう。中国と対等であろうとすると正式な貿易をすることができないということだ。以上また『世界史は日本史をどう記してきたのか』河合敦著を読んでより」
by qzr02421 | 2010-04-19 20:47 |