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引越しで忙しい毎日だ

妻がマンションを買いたいというので、買うことにした。子どもが自立することを期待してのことだ。我が家は居心地がよいのか、子どもが居座って出て行かないのだ。別のいてもよいのだが、私たちの老後を考えると、アパートかマンションかという選択をしたということだ。伊那に家があるのだから、伊那に行けばよいのだろうが、都会の過ごしやすさも魅力的なものだ。

伊那と名古屋に二つの家があるという選択をした。今のアパートから歩いて3分ほどのところにあるマンションなのだが、引越し業者を頼まずに夫婦で荷物を移動しようと計画した。業者を頼んでも、荷物の開封という仕事があるので、一ヶ月弱かかって移動をしようということだ。私の荷物は読みもしない本だ、妻の荷物はいつ着るか分からない服だ。引越し先には私は本を、妻は服を移動するのだ。

断舎利という言葉を実感した。捨てないと引越しができないのだ。長い間住んでいるので、ガラクタがたくさんあるのだが、これを捨てることがなかなかできないのだ。しかし捨てないと引越しができないことも事実なのだ。という事情でブログのアップがなかなかできないのだ。本の移動は完了した。妻の服の移動はまだまだのようだ。

古いマンションなのだが、改装がきれいにできているので、結構住みやすいと思う。しかし古いので、丈夫そうだが排気口に関する音が気になる。慣れればよいのだろうと思う。確かに何回か荷物を運んでいるうちに、その音に慣れてきた。引越し先に片付いたが、引越し元がまだまだだ。しばらくブログの更新は滞ることだろう。

# by qzr02421 | 2012-04-18 21:48 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

ネット環境が悪かった

昼神温泉はとても良かったのだが、ネットの環境は良くなかった。イーモバイルを使っているのだが、都会ではサクサクとつながるのだが、温泉などはつながらないことが多い。以前、北海道の登別温泉に行ったときもつながりにくかった。つながりにくいというのはつながるということだから、それはそれでよいのだ。伊那でもつながりにくい状態が多い。アンケートなどの回答を何回も繰り返さないといけないこともある。それはそれなりのストレスとなる。

昼神温泉はつながりにくいのではなく、つながらないのだ。つながらないのでネットはあきらめるしかない。つながらないほうがあきらめもつくというものだ。イーモバイルは都会では調子がよいのだが、地方でのつながりが悪いのには困ったものだ。ケイタイがつながるのにどうしてネットがつながらないのか不思議なことだ。

名古屋に帰ってきて、ネット環境もよくなった。ネット環境がよくなったのがブログの書くことが思いつかない。本をよんだりしてはいるのだが、その本の内容を書く気にならないのだ。文章を書くというのは気分なのだから、書きたくないときには書かないのがよいと思う。最近は授業の準備でいろいろ考えてはいるのだが、それを言葉にすることができないのだ。感情を文章化したらその感情はおさまると言う。感情の言語化が重要な課題なのだ。

自分の感情というのを文章にすることができれば落ち着くということなのだ。それができればたいしたものなのだろうが、難しいからこそ感情の文章化という言葉があるのだろう。イライラしたら一度、そのイライラを文章にしてみたはどうだろうか。ウソだと思っても、試してみる価値はあると思う。

# by qzr02421 | 2012-04-10 20:32 | 旅行 | Trackback | Comments(0) 

温泉はよいものだ

昼神温泉に行った。いろいろと宿が多くなった。以前は昼神グランドホテルに泊まったり、昼神の森に泊まったりしたが、同じ宿に泊まるのは風情がないので、今回は伊那華、いなかと読む宿に宿泊することにした。じゃらんで予約したのだが、岩盤浴付きというプランだ。もちろん夕食、朝食付きだ。

爆弾低気圧が通過する日に出立したため、雨が激しいのでどこも見物しないで伊那華に到着した。1時チェックインなので、それは良かった。妻は岩盤浴を楽しんだ。私は温泉を楽しんだ。昼神温泉はアルカリ性ということで、ぬるぬるしている。美人になれそうな湯だ。伊那華は女性が楽しめる湯となっているようだ。男性は女性が使っているところは次の朝しか楽しむことできない。

次の朝、女性が楽しんだ湯に入ったのだが、露天風呂が充実しているのだ。男性の湯は露天風呂がひとつしかないのに、女性の湯は4つもあるのだ。これは差別だ。この伊那華は夕食のバイキングが有名なのだそうだ。それが目当てで予約をしたのだが、期待はずれではなかった。それぞれ美味しい料理が並んでいた。

今回は蟹祭りプランだったようで、蟹を食べている人が多かった。それが目当で来たのだろう。私はそれほど蟹が好きというわけではないので、蟹以外のものを食べた。天婦羅や寿司、サラダなど美味だった。私たちの隣のカップルは蟹三昧だった。蟹が好きな人だったら最高の夕食だろう。寿司も美味しかった。次の日の朝食の結構美味しかった。もう一度行きたいと思う宿だった。

# by qzr02421 | 2012-04-09 20:10 | 旅行 | Trackback | Comments(0) 

春は花見だ

名古屋は桜が満開になりつつある。長野に行ったのだが、長野の冬だった。晴れているかと思うと雪になった。4月なので積もることはないのだが、4月の雪というのも風流なものだ。サクラ吹雪ではなく雪の吹雪となった。名古屋の名城公園では花見真っ盛りだった。黒川上流の御用水でもサクラを楽しみ事ができる。

妻と花見に行った。片手に酒、片手には串かつをもってだ。御用水はマイナーなところなのか人手は多くはなかった。ライトアップされているので、それなりの風情はある。酒をちびりちびり飲みながら散策した。日本人なのだと思う瞬間だ。中国の人も最近は花見に日本に来るそうだ。上野あたりのサクラを見て楽しむとのことだ。中国ではサクラを見るという習慣がないというか、サクラがないとのことだ。

3月末に「歌わせたい男たち」の音響をしたりして緊張した日々を過ごし、今はサクラを楽しむなど、風流な日々を送っていたら、罰があったったようでぎっくり腰になってしまった。歩くのはできるのだが、座るのが苦痛だ。最初は寝るのも苦痛だったが、寝ることだけはできるようになった。良いことが続かないものだ。楽あれば苦ありというということのようだ。

寒かった冬も終わってこれからは暖かくなるという天気予報だ。新聞を読むと地震の話題、オリンピック選考会の話題などが掲載されている。地震があるかもしれないと思いつつオリンピックを楽しむことができるのが人間というものなのだろう。未来を心配しながら現在を楽しむことができるのは人間の特性のようだ。心配と楽しみ、それが人生というものなのだ。

# by qzr02421 | 2012-04-08 19:52 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

孤独と世間の関係

4月に入っていろいろ変化がある人が多いようだ。日本は1月と4月と二回新しい年度が始まるのだが、最近東京大学を中心として新しく10月という年度を創設しようとしている。明治時代に大学を創設したときには学校の始まりは10月だったそうだが、いつのまにか4月になったのだ。桜の咲くころに新学期というのが日本人にはあっているのか、ソメイヨシノは明治になって植えられたということなら、サクラが先で4月が新しい年度になったのか。

日本人は世間という中で生きているはずだから、みんなが4月なら4月から始めるのが適当だろう。みんなが10月なら10月でよいのだ。みんなというのが大切なのだ。東京大学だけ先行しても上手くはいかないと思う。日本人のキーワードはみんなということなのだ。人様に迷惑をかけないという教育が骨身に沁みているのが日本人なのだ。昼食もみんな、飲み会もみんなということなのだ。

みんなという世間がいやで、それを壊してきた歴史もあるのだ。現代ではみんなと個人がせめぎあっているように見える。孤独死などとマスコミは騒いでいるが、個の確立があるとすれば、死は個の問題なのだ。死ぬときは一人なのだ。孤独死をして何が悪いのかという考えが個の思想のはずだ。孤独を防ごうということマスコミは言っているのだが、それはおかしいと思う。

みんなという世間を大切のしつつ、孤独を求めるのが現代の人間なのだ。みんなと孤独とを両方いっぺんに手に入れることが無理なことだ。みんなを欲すれば孤独はないのだ、また孤独を欲すればみんなはないのだ。4月の今、花見をしながら、孤独とみんなということを考えながらお酒を飲むのも粋なものなのだと思う今日この頃なのだ。

# by qzr02421 | 2012-04-02 20:26 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

人生は必然か偶然か

風が強く、寒い。春分に日が終わったのに春が来ないようだ。春一番も吹いていないとのこと。地球温暖化といいながら、今年の冬は寒かった。温暖化するのかとの疑問には、温暖化しているから異常気象なのだという説明となる。温暖化の原因は産業革命以来の化石燃料を燃やしたことだそうだ。ナポレオンがロシア遠征したころには小氷期が来たとも言われている。二酸化炭素増加が勝つのか、小氷期が勝つのかという疑問さえ持つ。

地球上に人間がいるから、問題が起こるとしか思えない。地球温暖化で一番困るのは人間なのだ。問題を起こしている人間が困っているとすれば、それは今流行の言葉である、自己責任ということに過ぎないような気もする。マスコミも政府も本当のことを言っていないような気もする。あるいあ本当のことは本当の分かっていないということかもしれない。

笹沢佐保は人生は必然だといっている。偶然に見えるが、それはそのような人生を歩むことを決められているのだということだ。彼は21歳のとき心中しようとしたという。しかし助かってしまった。助かったあと東京の帰る電車が、人を轢いたそうだ。轢かれた人は、一生懸命生きるため、電車に駆け込んで乗ろうとして、プラットホームから落ちて電車に轢かれて死んだのだ。彼は死のうとした人、つまり自分が生き延びて、生きようとした人、つまり轢かれた人がいる。人生は運命に操られているのだと思うようなったという。彼は小説家になるにあたって、交通事故が原因という。交通事故に遭遇し、暇な時間が与えられたので小説を書くことができたという。

運命があるのかないのかは分からないが、人が生きるときに偶然とはいえないものによって導かれているということがあるのかもしれない。自分が真剣に生きようとすれば、おのずと道は開けてくるような気がする。疑問があり、その疑問を持ち続けていれば、その疑問が解決するときがあるはずだ。疑問を持っていなければ、その疑問が解決されるときはないのだ。宝くじを買わなければあたらないということと同じことだ。

# by qzr02421 | 2012-03-21 20:43 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

「歌わせたい男たち」

卒業式のシーズンも終わりに近づいてきた。以前から日の丸・君が代の問題があったが、大阪の橋下市長の動きでまたまたクローズアップしているようだ。内心の自由をどのようにとらえるべきかという問題でもある。内心の自由は、言論の自由でもある。言論の自由は心が外のあらわれるわけだから、行動の自由があるということでもある。心で何を考えていても外の出なければよいという考えは明治憲法の考えだ。君が代を歌わない自由があるというのが現憲法の精神だとおもうのだが、そのようの思わないのも、それは自由ということでもあるのだろう。

今年のシアターアーツの劇は「歌わせたい男たち」というもので、歌わせたいのはもちろん君が代、つまり国歌のことだ。卒業式当日、ピアノを弾くべき音楽講師がめまいを感じ、国歌の演奏ができないかもという事態になる。なんとか伴奏をさせたい校長、それを支持する英語教師である片桐、三年の担任なのだが国歌を歌わないし、起立もしないこと決意している社会科の教師である拝島、何を考えているか分からない養護教諭が登場人物だ。

英語教師の片桐は台本では男性なのだが、シアターアーツは片桐を女性としている。台本が男性なのだが、これを女性が演じるというのは楽しみなものだ。3月30日から4月1日までの3日間、ひまわりホールでやっている。これより前にむすび座が同じ劇をおこなうようだ。君が代を歌うことを教育委員会の強制された校長の苦悩をむすび座は描きたいということだ。シアターアーツは、校長のなったからにはそのような苦悩がないという描き方のようだ。

第二次世界大戦の問題が重くのしかかる問題だ。戦争責任と国歌・国旗の問題、愛国心と戦争の問題、いろいろ考えさせられることだ。国歌を歌ったからといってすぐ戦争になるわけではないのだろうが、国歌と戦争を結びつけるという考え方もある。愛国心と思想信条の自由とどちらが優先するものなのかという問題でもある。歴史的には思想信条の自由を優先するのだろうが、そのように考えない人の思想信条の自由もあるということも憲法は保障しているのだ。とても難しい問題なのだ。

# by qzr02421 | 2012-03-20 20:00 | 劇,映画その他 | Trackback | Comments(0) 

日本、日本人とはどのような存在なのか

漱石は日本の作家と言えるのかという問がある。漱石は漢文と英語が堪能だったという。もちろん日本語で小説は書いているのだが、中国語で、つまり漢文で詩を書き、英語で文章を書いていたのだ。明治時代はまだ日本という国が成立したばかりだった。その当時の人々の日本人意識はどのようなものだったのだろうか。それにしても漱石は日本人の作家ということには間違いがなさそうだ。現代において、アメリカ人や韓国人が日本語で小説を書いたら、その人は日本人作家といえるのかという問題がある。

また、世界と日本の関係も問題となる。世界の中に日本が入っていないのだ。世界文学全集の中には日本人作家は登場しないのだ。日本人は世界の中で変わった存在であるということをアピールしたいのだろうか。日本と世界とはどっちが偉いのかという問も存在する。日本人の意識の中に、日本の方が偉いし、世界は日本とは違って異質な存在だという認識があるのかもしれない。日本文学全集に外国文学が入っていないのは当然のことなのだろうか。日本と世界を分けることにどれだけの意味があるのかといういことでもある。

日本に暮していると日本独特の文化を理解することが難しくなる。日本独特の状況として、講演や映画や演劇の開始時間以外に終了時間を気にするということがあるということだ。「これはいつ終わるのですか」という問いを日本人はもっているということだ。講演・映画・演劇の終了時間を気にするのは日本人だけだということだ。小説を読んでいるときに、その小説の終わり時間を気にすることはないはずだ。楽しい時間ならもっと続いて欲しいと思うのが普通だろう。それにも関わらず、物事の終わりの時間を気にするということはどういうことなのだろうか。

日本とは何だろうか、日本はいつできたのかという疑問がある。江戸時代の人は日本人感覚を持っていたのか。江戸幕府は日本政府と言ってよいのか。国民国家というものが成立したのが近代なのだ。前近代に日本という概念を当てはめることはできないはずだ。日本人の性格といいながら、鎌倉時代を例にしたら、やはりおかしいことなのだろうか。日本文化は明治以降成立したとすれば、天平文化や国風文化というのはどのような性格を持つのだ。日本という問題は奥が深い問題だということなのだろう。

# by qzr02421 | 2012-03-17 20:32 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

自然にはかなわない

3月に入り暖かい日と寒い日が交互に訪れるようになった。いわゆる三寒四温という季節だ。今年の冬は寒かったらしく、雪も多いようだ。上越市の雪崩というか雪と土砂といえばよいのか、大変な状況だ。雪と泥の塊が押しよせてくるという状況だ。自然に比べれば人間ができることはたいしたことがないということに気づく。上越市の場合は土の壁を作ろうとしているようだが、上手くいくことを祈るしかない。

日本は自然災害が多い列島のようだ。地震も多いし雨も多い。このような自然状況が厳しいところとそうでないところでは歴史も変わるはずだ。イタリアは雨が少ないはずだ、地中海性の気候だからだが、そのイタリアの車を日本に輸入しても、雨が多い日本では上手く適応できないのは当然だろう。雨が少ないとすれば車が雨対策をしているわけがない。そのようなイタリアの車を日本のような雨が多いところで走らせれば、きっと雨漏りするに違いない。

自然をあまり重要視しない傾向が学問にはある。歴史でも自然状況を加味するということを歴史学者は嫌う傾向がある。人間の努力で自然を克服できるという思いがあるようだ。それはヨーロッパのような自然がやさしいところで育った歴史学なのだろう。日本のような自然が厳しいところでは適用できる考えではないはずだ。日本は地震や水害が多いのだ。そのことを考えない歴史では意味がないと思う。

日本において成長している時代は自然災害が少ない時代なのだろう。高度成長期には災害が少なかった、もしくは自然を克服できるような状況の時代だったのだ。昨年の3・11以降は自然を考慮しないといけない時代の入ったような気がする。近代文明は地震であっという間に崩壊するはずだ。崩壊する時代の入ったということかもしれない。富士山も噴火も心配されている。自然に人間は勝つことができないというのが日本人の素直な感情なのだろう。それが無常観ということなのだ。

# by qzr02421 | 2012-03-16 18:54 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

事典の時代は終わるのだ

本は思い切って捨てるか、あるいはブックオフのようなところに売るかしないと片付かない。本ではあるが、辞書とか事典というものもある。これはほとんど売れないので捨てるしかないようだ。平凡社とブリタニカの百科事典がある。平凡社は古本屋で購入したものだ。ブリタニカは妻が結婚したときに持参したものだ。どちらも愛着がある。どちらにもずいぶん世話になった。捨てるのには抵抗がある。

このほか人名事典シリーズ、世界の歴史シリーズ、日本の歴史シリーズなどもある。私自身の基本図書でもある。商売の種ということだ。歴史が書きかえられるので、古い歴史の本は役立たないと思いがちだが、その時代の歴史認識を知るためには大切な資料なのだ。どのように歴史記述が変化したのかを知ることが大切なことだ。高校で教わる歴史だけが歴史ではないのだ。

ブリタニカが本としての出版をやめるというニュースがあった。老舗のブリタニカも紙の本から撤退をするのだ。電子辞書かネットで対応するとのことだ。本の時代が終わりつつあるということか。グーテンベルクの活版印刷術の改良から500年、印刷からネットの時代へという変化を感じる。新聞発行という時代もきっと終了するのだろう。

私は古い世代なので、辞書や事典を広げて、物事を調べるのが好きだ。電子辞書だと知らべたものを広げておくことができない。どんどん画面が変化していってしまう。ネットも同様だ。辞書を何冊か広げて、思考を展開することが楽しいことなのだ。そこのインスピレーションが生まれるということだ。しかしそういう世代もこれからは消滅していくことだろう。

# by qzr02421 | 2012-03-15 20:35 | 日常 | Trackback | Comments(0) 

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