『コミュニティー・ミュージアムへ』を読む。学芸員として施設の入場者確保の取り組み、既存の常識を捨てて?ボランティアの協力などで実現した話は面白かった。「江戸東京たてもの園」での四年間の学芸員としての仕事に対するアイデア、ボランティアから出たアイデアを採用して、入場者を増やす、「千と千尋の神隠し」のシーンと同じ?千尋が迷い込む建物をジブリが参考にしたとのことで、似たような建物があるので、それを利用した取り組みは素敵だった。
夜店を行なう企画、はらっぱの再現、土管をおいたりする、昭和の景色を見て、小学生が「なつかしい」などという話、きっと「ドラえもん」などで見たシーンの記憶があるからだろいうという解釈、このたてもの園の一泊二日で泊まりこむという企画なで、ミュージアムの泊まるということは素敵経験になると思う。こういう取り組みをミュージアムにおける双方向性とでもいうのだろうか。
「馬鹿というのは前提を疑わない奴のことだ」、「すましている、えらそうな、人間より作品を大事にしている、面白くないものを意味ありげに並べてる美術館にはしたくはないというスタジオジブリの精神」、「美術作品や展覧会などというのは・・・じつは政治的、というよりも政治そのものなのである」、「ミュージアムというのは中立な客観的な存在ではなく、存在自体が政治的でイデオロギーを体現している」、「植民地主義との関係」、「展示は自然や文化そのものではなく、特定の価値によって編成された文化の表徴」、「文化全体の記憶を固定化する制度、近代国家を成立させるのに必要な国民のアイデンティティを創出し維持継続させる役割を果たし、このような権力創出のための政治性は近代的なミュージアムの活動そのものの埋め込まれてるので訪れた人は隠れて価値観を自然のように受け入れやすい」という指摘などは斬新だった。
「展示というのはあるモノを選択して一つのストーリーの中に配置していく作業、特定の見方がなければ選ぶことを並べることもできない、真理を示すのではなくミュージアムのよる解釈を示す、本物だけれど真理ではないということ、このような見えない権力性こそが問題なのだ」そうだ。これは授業論にも通ずる考え方だと思う。授業も真理を示しているではなく、教師のよる解釈で集められたモノの配列によって、ひとつのストーリを作っていることには間違いがないことだ。解釈がなければ授業が出来ないというのも事実なのだ。